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第36話 地下研究室の悲劇と、モチモチの商人

地下の冷気とともに、煮詰めた薬草の濃密な匂いが鼻をついた。


大通りの店舗の地下倉庫を改装して作った、リョウ専用の研究室だ。頑丈な石造りの壁には防音の魔導処理を施し、扉には特注の真鍮錠前を取り付けてある。大通りへの進出とこれまでの商売で稼ぎ出した利益から惜しみなく予算を回し、フェルの工房にあるものより一回り大きな蒸留器や、目盛りの正確なガラスフラスコを揃えた。


目的はただ一つ、男の威厳を取り戻すことである。


作業台の上には、王都の高級素材商から極秘裏に買い集めた素材が並んでいた。生命力を極限まで高めるという深紅の「竜血草」と、傷口の組織を急速に塞ぐ巨木の「細胞活性樹液」。どちらも冒険者が命がけで採取してくる希少品で、小瓶一つで銀貨十枚以上が吹き飛んだ。


リョウは前世の記憶を総動員し、熱に弱い有効成分を壊さないよう湯煎で抽出し、アルコールで不純物を沈殿させ、慎重に濾過を繰り返した。数日かけて完成させたのは、フラスコの底に溜まった、かすかに甘い香りのする琥珀色のとろりとした液体だ。


「……よし。試作第一号だ」


ランプの灯りの下でフラスコを掲げ、リョウは唾を飲み込んだ。


服の紐を解き、下腹部を露出させる。スポイトで吸い上げた琥珀色の薬液を、手のひらに数滴垂らした。冷やりとした感触のあと、肌に伸ばした瞬間から、じわりとした温かさが広がる。皮膚の奥が微かに脈打つような、組織が活動を始めるような独特の刺激があった。


「……来たか?」


血流が集まってくる感覚に、胸が高鳴る。リョウは作業台の引き出しを開け、使い古した一本の麻紐を取り出した。異世界で目覚め、半分になった己の現実を突きつけられたあの日から、肌身離さず持っている定点観測用の紐だ。


息を止め、慎重に長さを合わせる。紐につけられた「あの日」の黒い結び目と並べて見比べた。


変わらない。角度を変え、姿勢を正し、息を殺してもう一度当て直す。


一ミリも変わっていなかった。


静まり返った地下室に、ただアルコールランプの芯が小さく揺れる影だけが落ちていた。期待した膨張も、劇的な再生も、そこには何一つ起きていない。あるのは、薬液を塗り込んだ部分の肌が、やけにしっとりと吸い付くように潤っているという、まったく求めていない手触りだけだった。


「…………」


リョウは深く息を吐き出すと、麻紐を引き出しの奥へ放り込んだ。


「……相棒、寝不足のせいにしておこう」


残った琥珀色の液体を遮光瓶へと手早く密閉し、鍵のかかる木箱へ収めた。手についた余分な薬液を濡れ布巾で拭い、そのまま顔の汗を雑に拭き取ると、リョウは作業台に突っ伏すようにして短い眠りについた。


翌朝。東の空から差し込む陽光が大通りのガラス窓を照らす頃、リョウはすでに一階の店舗カウンターに立っていた。


開店までまだ一時間ある。棚に並んだ「スライム・ステップ」の在庫を確認し、真鍮筒に入った「浄水ドロップ」の数を帳簿と突き合わせる。昨夜の完全な空振りと男の敗北感は、意識の奥底へと固く押し込めてあった。今は仕事の時間だ。


裏の居住区へと続く扉が開き、仕込みを終えたフェルが木箱を抱えて入ってきた。


「おはようございます、リョウさん。今日の納品分、持ってきまし――」


カウンターに木箱を置いたフェルが、ふいに言葉を止めた。緑色の瞳を丸く見開き、リョウの顔を真正面から凝視している。


「フェル? どうした、在庫の数が合わないか?」

「あ、いえ……あの、リョウさん……?」


フェルがそろそろとカウンター越しに顔を寄せてきた。甘い薬草の香りが鼻腔をくすぐる。その瞳は、リョウの目ではなく、頬や額、小鼻のあたりを食い入るように見つめていた。


「お肌……どうされたんですか?」

「肌? 髭でも剃り残したか?」

「違います! 透き通るみたいに白くて、くすみが全然なくて……毛穴が見当たりません!」


フェルが我慢できなくなったように、人差し指を伸ばしてきた。断る間もなく、柔らかな指先がリョウの左頬をツンと突く。


指先が吸い込まれるように深く沈み、ぷるんと弾力を持って押し返した。


「ひゃっ……!? ぷるぷるです! つきたてのお餅みたいに柔らかくて、指に吸い付いてきます……!」

「おい、引っ張るな。人の顔をお餅扱いするな」

「だってお餅なんです! 昨日まであんなに乾燥して、目の下に少しクマもあったのに……一体どんな調合をしたら一晩でこんな……!」


フェルが興奮で頬を上気させ、両手でリョウの頬を包み込もうとした瞬間、カウンターの奥からモゾモゾと布の擦れる音がした。特等席のふかふか毛布から、亜麻色の髪をぼさぼさに散らしたセリアが這い出てくる。眠たげに目をこすりながら、だぼだぼのローブの袖を引きずって歩いてきた。


「……うるさい……。フェル、朝から声が大きい……」


不機嫌そうに呟いたセリアの灰褐色の瞳が、リョウの顔を捉えた。ピクリ、と頭の上の狐耳が直立する。


「……ん……?」


セリアは音もなくカウンターの内側へ回り込むと、リョウのズボンの裾を掴んで体をよじ登らせてきた。そのままカウンターに腰掛け、リョウの首筋へと両手を伸ばす。


「おいセリア、仕事前だぞ」

「……すべすべ……」


制止の声など聞こえていないように、セリアはリョウの首元や顎のラインに、自分の頬をすりすりと擦り寄せた。


「……ひんやりして、すごく気持ちいい……。いつものリョウの皮膚と違う……。粉を吹いてない……」

「粉を吹いてた言うな。男の肌なんてそんなもんだ」

「……やだ、離れない。ここ、いい匂いする……」


セリアの黄金色の尻尾がパタパタと小刻みに揺れ、リョウの腰へと心地よい重みで巻きついた。腕にしがみついたまま、頬をすり寄せるのをやめようとしない。


そこへ、裏口の重い鉄扉が開き、肩に金槌を担いだカーナが入ってきた。革の前掛けには真鍮の削り粉がついている。


「おい、リョウ、頼まれてた補強金具の納品――って、朝っぱらから何やってんだ、お前らは!?」


カウンター周りでリョウに群がっている二人を見て、カーナが目を丸くした。金具の詰まった小箱をどんと置き、大股で詰め寄ってくる。


「おいセリア、リョウに抱きついてねえで離れろ。フェルも何顔を赤くして……って、おい」


カーナの視線が、リョウの顔に止まった。金槌を取り落としそうになりながら、まじまじと覗き込んでくる。


「おい、リョウ……お前、その顔どうしたんだ? どこぞの令嬢の粉でも頭からかぶったのか?」

「かぶってない。ただ顔を洗っただけだ」

「嘘つけ! そんな赤ん坊みてえなツルツルの肌で顔洗っただけなわけあるか!」


カーナが両手でリョウの両頬をがしっと挟み込んだ。鍛冶仕事で鍛えられた固い手のひらが、リョウの頬肉を容赦なく揉みしだく。


「うわ、なんだこれ!? やわらけえ! 弾力が鞴(ふいご)の気密革座金(パッキン)よりすげえぞ!」

「痛い痛い! カーナ、引っ張るな! 肉がちぎれる!」

「ちぎれねえよ、勝手に伸びて戻るんだよ! おいフェル、これちょっと揉んでみなって!」

「えっ、あ、じゃあ失礼して……うわぁ、本当に指が吸い込まれそうです……!」

「……セリアも揉む……」

「やめろ! 三人で代わる代わる揉むな! 俺の顔はパン生地じゃない!」


揉まれ、突かれ、すり寄られ、リョウが悲鳴を上げているところへ、表の大通りの扉が静かに開いた。銀の胸当てを身につけたルイーナが、剣帯を鳴らしながら入ってくる。朝の巡回を終えたばかりらしく、冷たい外気を纏っていた。


「何を騒いでいるのだ、大通りにまで声が聞こえて――」


凛とした声で入ってきたルイーナだったが、カウンターの光景を目にした瞬間、ぴたりと足を止めた。三人に取り囲まれ、両頬を引っ張られ、首に抱きつかれているリョウを見て、ルイーナの眉がつり上がる。


「き、貴様ら……! 朝から店主に対して、規律上感心しない接触をしているのではない! いくら打ち解けたとはいえ節度というものが――」


ルイーナが早足で歩み寄り、カーナの手を外させようとリョウの肩に手を置いた。その瞬間、ルイーナの青い瞳がリョウの肌を至近距離で捉えた。


言葉が、途切れる。


「……ルイーナ?」


リョウが助けを求めるように視線を向けると、ルイーナの頬がわずかに赤らんだ。彼女の視線は、リョウの額から頬、唇の端へと吸い寄せられるように動いていた。


「……傷一つ、ないな。長年の日焼けも、男特有の浅黒いくすみも、完全に消えている……。王都のいかなる名門貴族の令嬢でも、これほどの素肌は見たことがないぞ」


ゴクリ、とルイーナの喉が小さく動いた。普段の厳格な騎士の仮面が剥がれ落ち、純粋な驚愕と好奇心がその瞳に宿る。ルイーナは無意識のうちに革手袋を脱ぐと、震える白い指先をリョウの右頬へと伸ばした。


ぷにっ、と指先が頬に触れる。


「……っ! 指が押し返される……。この弾力と瑞々しさは、高位の治癒魔法をかけた直後……いや、それ以上だ……」

「ルイーナまで突くな!」


四人に完全包囲され、突かれ、撫で回され、すり寄られる。


男としての威厳を取り戻すはずの薬液が、なぜか女子以上のモチモチ美肌を生み出し、四人の玩具にされるという屈辱。昨夜、手についた残液で雑に顔を拭いたのが原因だと気づいたが、今さら言えるはずもなかった。あそこには一ミリの変化もなかったのだから。


内心で頭を抱え、悶絶しかけたリョウだったが、ふと、ルイーナの呟いた言葉が引っかかった。


名門貴族の令嬢でも見たことがない。


リョウは四人の手をすり抜け、自分の手のひらで頬の感触を確かめた。吸い付くように柔らかく、しっとりと潤い、昨日の髭剃りの痕すら綺麗に消えている。下腹部はビクともしなかった。だが、皮膚のキメと保湿、細胞の急速再生だけが異常な突出を見せている。


そういえば、王都の貴族令嬢や夫人たちは、夜更かしと鉛混じりの厚化粧で深刻な肌荒れに悩んでいると、いつかルイーナが衛兵隊の愚痴で漏らしていた。市場に出回っている化粧油は、毛穴を塞いで皮膚呼吸を止める粗悪なものばかりだ。


水溶性で、すっと浸透し、一晩でこの吸い付くようなモチモチ肌を作る液体。


「……待てよ」


男の尊厳は粉々に砕け散ったが、別の袋が音を立てて膨らむ予感がした。 


これ、貴族の女たちにいくらで売れる?


リョウは四人の手をそっと払いのけると、カウンターの奥から羊皮紙と羽根ペンを引き寄せた。


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