第34話 前世仕込みの契約書トラップ
昨日あれだけの大騒動を起こした張本人が、何食わぬ顔で信じがたいほどの下卑た笑顔を浮かべて工房の扉を叩いたのは、翌朝の十時を回った頃だった。
「いやあリョウ殿! 昨日はうちの仕入れ担当と職人が、とんだ粗相をいたしましてね!」
入ってきたのは、ゴードン商会のバレル支店長だった。前日の尊大な態度はどこへやら、高級な絹の上着の胸元を緩め、脂汗の浮いた額をハンカチで拭いながら揉み手ですり寄ってくる。背後に威圧的な私設護衛の姿はなく、連れているのは分厚い革袋を抱えた書記の男が一人だけだった。
「偽装薬の件は実に遺憾、すべて部下が独断でやらかしたことでしてね。関係した者どもは、すでに全員解雇処分といたしましたよ」
白々しい言い訳に、奥の金床の前にいたカーナが金槌の柄を強く握り直して舌打ちし、入口脇に立つルイーナが氷のように冷たい視線を投げかける。フェルも調合台の前で配合表を抱え、警戒するように息を詰めていた。
だが、リョウは眉一つ動かさず、帳簿から顔を上げた。
「……それで、何の用ですか」
「いやなに、雨降って地固まる、という言葉もありましてな。今回の不祥事の禊も兼ねて、貴殿らの素晴らしい本物の商品を、うちの大通り直営店舗で独占的に全面展開させていただきたいのです。王都に直通するゴードン商会の巨大な流通網に乗せれば、こんな裏路地のネズミ小屋とは比べ物にならない銀貨の山が築けますぞ」
バレルが合図すると、書記の男が恭しく一枚の羊皮紙を作業机の上に広げた。商業ギルドの公認印が鮮やかに押された、正式な業務提携契約書だった。
提示された条件は、一見すると工房側に破格の好条件だった。通常の卸値より一割高い買い取り価格、大通り店舗での大々的な特設コーナーの設置、宣伝費用の商会側全額負担。フェルが横からのぞき込み、その破格の数字に小さく息を呑む。
だが、リョウの目は誤魔化せなかった。前世で数多の契約トラブルと悪徳企業の間隙をくぐり抜けてきた元実業家にとって、書類の端に潜む悪意を見抜くことなど息をするより容易かった。
リョウは羽ペンの尻で、条項の末尾を追っていく。羊皮紙の最下段、インクを薄めて小さく書き込まれた特約の数行に、その視線がぴたりと止まった。
『万が一、納品期日に製品の納品が一日でも遅延した場合、ゴードン商会への損害賠償として、フェル工房の全設備、全調合レシピ、全製造特許の権利をゴードン商会へ無償譲渡するものとする』
古典的ですらある、悪質なトラップ条項だった。裏で薬草の市場をもう一度縛るか、輸送中に暴漢でも雇って妨害工作を仕掛け、納品を一瞬でも遅らせれば、工房のすべてを合法的に奪い取れる仕掛けだ。
だがリョウは怒りも動揺も見せなかった。ここで激怒して契約書を叩き返せば、相手は別の陰湿な手段に切り替えるだけだ。リョウはあえて苦渋の表情を作り、机の上の羊皮紙を睨みつけながら低く唸った。
「……一日でも納品が遅れたら、工房の設備もレシピも無償譲渡ですか。ずいぶん厳しいペナルティですね、バレル支店長」
バレルの豚のような細い目が、内心の嘲笑で微かに歪んだ。大資本の販売力と提示された銀貨の数字に目が眩み、若造が断りきれずに悩んでいると確信したのだ。
「いやあ、これは商業ギルドの形式的な定型条項でしてね! 大手の看板を守るための建前ですよ。期日通りに納品さえしていただければ何の問題もない!」
「なるほど、建前ですか」
リョウはしばらく沈黙し、いかにも追い詰められた末の妥協といった風を装って、重々しく息を吐いた。
「分かりました。大手の看板を信用して、そのペナルティ条項を呑みましょう」
工房の空気が凍りついた。
フェルが青ざめて息を呑み、奥からカーナが「おい商人、正気か!?」と怒鳴り込もうとするのを、リョウは背中に回した手で静かに制した。足元に潜んでいたセリアが、リョウのズボンの裾をぎゅっと握り締める。
リョウはバレルを真っ直ぐに見据えた。
「ただし、商業ギルド法規が定める『対等契約の原則』に基づき、そちらにも同等のペナルティ条項を一本だけ追加させていただきます」
「同等の条項……と申しますと?」
リョウはインク壺に羽ペンを浸すと、羊皮紙の余白へ淀みない筆致で追記を走らせた。
『なお、ゴードン商会側の過失により、当店舗における本製品の販売が停止、または不可能となった場合、フェル工房への損害賠償として、ゴードン商会大通り第一支店店舗の全所有権および営業権をフェル工房へ無償譲渡するものとする』
書き終えた文字を見たバレルは、喉の奥で嘲笑を押し殺した。大通りの一等地にある、自社の巨大な直営店舗の明け渡し条項。だがバレルにとって、そんなものは何の脅威でもなかった。自前の店舗で販売が止まるはずなど万に一つもない。昨日の騒動など、商業ギルドの幹部へ袖の下を通せば数日で揉み消せる。世間知らずの青二才が、プライドを守るために中身のない対等条項を要求してきただけだと高をくくったのだ。
「結構、大いに結構ですとも! 対等な取引こそ商業ギルドの誇りですからな!」
バレルは破顔し、嘲笑を浮かべたまま、羊皮紙の末尾に自らの署名とゴードン商会の支店長印を力強く捺印した。リョウもまた、極めて冷静な手つきで、フェル工房の代表として署名を走らせた。
「ではリョウ殿、初回の納品期日は三日後ですぞ。遅れないように頼みますよ!」
バレルはしてやったりという下品な笑みを残し、上機嫌で工房を去っていった。
重い木扉が閉まった瞬間、工房を支配していた張り詰めた空気が爆発した。
「おい商人! 何であんなふざけた紙切れにサインしちまったんだ! あいつらが裏で仕掛けてこねえはずがねえだろ! 一日でも遅れたら、この工房が取られちまうんだぞ!」
「リョウさん、無茶です……! もし相手が輸送を妨害したり、ギルドへの処分が遅れたらどうするんですか……!」
詰め寄るカーナとフェルに対し、リョウは出来上がった羊皮紙を窓の光へかざし、冷ややかな笑みを口元に浮かべた。その表情を見たルイーナが、青い瞳をわずかに瞠り、息を呑んだ。
「……リョウ。まさか」
「カーナ、フェル。お前たちは『もし処分の執行が遅れたら』『輸送を妨害されたら』と心配してるんだろ」
「当たり前だ! ギルドの上層部なんて金で転ぶやつらばっかりだぞ! 処分の執行が長引いて、その間に奴らが輸送隊を襲ったらどうすんだ!」
必死に訴えるカーナに対し、リョウは首を横に振った。
「落ち着け。俺がそんな不確定な行政処分一本に賭けると思うか? 罠は二重に張ってある」
「二重だと……?」
カーナが目を丸くする。リョウは指を一本立てた。
「まず一つ目。昨日ルイーナに提出してもらった告発状とセリアの鑑定書は、地方の買収されやすい窓口を迂回し、王都の商業ギルド監察総局と騎士団本部へ直通で届けてある。ルイーナ、本部の査問官の動きはどうなっている?」
「……昨夜のうちに、騎士団長とギルド監察総監の連名で緊急令状が決裁された。すでに王都を発ち、明朝一番には完全武装の衛兵隊と共にゴードン商会へ踏み込むことが確定している。地方の支店長ごときが揉み消せるレベルはとうに越えている」
「ああ。だから奴らの店舗は、明朝には確実に閉鎖される。そうなれば特約条項通り『ゴードン商会側の過失により、当店舗での本製品の販売が不可能となった場合』の条件が満たされ、あの店舗は俺たちのものだ」
リョウは続けて二本目の指を立てた。
「そして二つ目。仮に、万が一にでも奴らの悪あがきで処分が数日遅れたとしても――俺たちが三日後の期日に納品を遅らせる理由はどこにもない」
「えっ……?」
フェルが瞬きを繰り返す。リョウは不敵に口元を吊り上げた。
「セリアの野草抽出と、カーナが親戚の鉱山から直輸入してくれた素材で、うちの製造ラインは正規市場から完全に独立している。商品は明日の昼には規定数がすべて揃う。輸送についても、ルイーナの所属する部隊の定期警備演習と合同で行う段取りをつけてある。裏路地のチンピラ風情が妨害できると思うか?」
「な……!」
カーナが呆気にとられたように息を詰まらせた。
「つまり、明朝に処分が下れば無傷で巨大店舗が手に入る。もし処分が遅れても、堂々と完璧な正規品を納品して正規の代金を回収し、その後に処分が下りた時点で店舗を差し押さえるだけだ。……最初から、俺たちに負け筋は一本もない」
リョウの淡々とした解説に、工房が静まり返った。相手の仕掛けてきた悪辣な罠をあえて呑んで油断させ、逃げ場のない合法的なカウンターを突き刺す。大通り一等地の巨大店舗を丸ごと差し押さえる準備は、すでに完了していた。
「……お前ってやつは、本当に……リョウ、末恐ろしい商人だよ」
呆気にとられたように息を吐いたカーナが呟き、フェルが胸元で両手をぎゅっと握り締めた。安堵の息と共にエプロンの胸元が大きく波打ち、甘い生薬の香りを漂わせながら、リョウの袖口へそっと指先を触れさせる。セリアが頭上の狐耳をピンと立てて丸い瞳を輝かせ、ルイーナが武人としての戦慄と熱い思いを隠せないように口元を緩めていた。
リョウは羊皮紙のインクを吸取紙で丁寧に押さえると、それを金庫の最奥へと収めた。そして立ち上がり、入口脇に立つルイーナの前へ歩み寄る。
「ルイーナ」
「何だ」
「お前、昨夜から一睡もしてないだろ」
唐突な指摘に、ルイーナはわずかに肩を跳ねさせた。
「……騎士の夜番など珍しいことではない。周囲の警戒態勢を維持する以上、問題はない」
ルイーナはそう言いながら、肩の留め金を外し、重い銀の胸当てを外して机の脇に置いた。
甲冑の下から現れたのは、汗を吸って肌に張り付いた薄い麻のインナーシャツだった。
鍛え上げられた長身の引き締まった腹筋とくびれ、深い息をするたびに大きく上下する豊かな胸元の線が、露骨なまでに浮き彫りになる。甲冑に閉じ込められていた熱気が、立ち上る湯気のようにふわりとリョウの鼻腔をくすぐった。
リョウは咄嗟に目を逸らし、咳払いを一つした。
「問題大ありだ。集中力を欠いた護衛ほど役に立たないものはない。……フェル、奥の空き部屋、荷物は片付いてるか」
「えっ? あ、はい! 父の旧書斎だった奥の部屋なら、昨日シーツも替えてありますよ」
「ルイーナ、あそこの部屋を使え。詰所との往復時間も無駄だし、これから裁判や店舗の差し押さえで毎日立ち会ってもらうことになる。今日からここに下宿しろ」
「げ、下宿だと……!?」
ルイーナが青い瞳を大きく瞠り、珍しく狼狽したように声を裏返らせた。胸元を手で押さえながら、頬から耳の付け根まで一気に朱に染まる。
「ま、待て! 未婚の男女が同じ屋根の下に寝泊まりするなど……! いや、しかし、騎士団の重要物資調達先に対する専属警備と考えれば、極めて合理的な拠点防衛策……いや、だが……!」
「おいおい、あっという間に女所帯になっていくじゃねえか」
カーナが呆れたように肩をすくめ、足元のセリアが黄金色の尻尾をパタパタと振りながら、「……ルイーナも、ここに住むの?」と見上げている。
「いいから寝ろ。寝るのも護衛の仕事だ」
リョウに背中をぽんと押され、ルイーナは真っ赤な顔で言い訳を呑み込むと、ぎこちない足取りで奥の部屋へと引っ張られていった。
リョウは金庫の重い真鍮鍵を回すと、明日の強制捜索に向けた帳簿をもう一度手元へ引き寄せた。




