第33話 職人の意地と、暴かれた偽装薬
大通り沿いに構えられたゴードン商会の第一支店に、派手な看板が掲げられたのは、素材市場の買い占めが始まってからわずか三日後のことだった。
赤と青の布に大書された文字は、「万能気力水・半額」「王都式急速浄水筒・本家の半値」。通常なら銅貨八枚する気力回復シロップの同等品が銅貨四枚、銀貨四枚する浄水ドロップの模倣品が銀貨二枚で並べられていた。日々の銅貨数枚のやり繰りに苦しむ下級の冒険者や荷運びの人足たちが、その安さに吸い寄せられて大通りの店へ列を作った。
安物買いの客が一時的に流れたことで、路地裏のフェル工房を訪れる客足は確かに鈍った。だが、リョウの机の上の元帳が狂うことはなかった。セリアが街の周囲の野草から高濃度抽出する術式を確立し、カーナが親戚のドワーフ鉱山から直接粘土と真鍮端材を引き入れたことで、工房の製造原価はむしろ以前より二割近く下がっていたからだ。
「放っておけ。腐敗する生薬の山を抱えて、向こうの帳簿が先に悲鳴を上げる」
リョウの読み通り、ゴードン商会側は買い占めた膨大な生薬の維持費と資金繰りに圧迫され、急ごしらえの模倣品で手っ取り早く元手を回収しようと焦っていた。そしてその歪みは、あまりにも早く、最悪の形で噴出した。
買い占めから五日後の昼前、工房の重い木扉が乱暴に押し開かれた。
飛び込んできたのは、息を切らしたルイーナだった。青い瞳に鋭い怒りを宿し、作業机の上に二つの品を置く。一つは中身の濁ったガラス小瓶。もう一つは、歪な継ぎ目の見える真鍮色の筒だった。
「ゴードン商会の模倣品だ。南門の詰所に、遠征帰りの冒険者たちが四人運び込まれた。全員、激しい腹痛と嘔吐、それに動悸と手足の震えで立てなくなっている」
「使ったのは、これか」
「ああ。下級の討伐隊が、安さに釣られて買ったものだ。道中の沢水をこの筒で浄化して飲み、疲労を散らすために小瓶の液を呷った直後、全身に痙攣を起こして倒れたそうだ。命に別状はないが、一歩間違えれば魔物の前で全滅していた」
ルイーナの報告を聞き、屋根裏から降りてきたセリアが無言で机の上のガラス小瓶を引き寄せた。だぼだぼの袖から細い指先を伸ばし、亜麻色の髪から伸びた狐耳をピクリと警戒するように動かす。
セリアは試験管に数滴の液体を移すと、指先から青白い微細なマナを流し込んだ。魔法陣の光が濁った紫に明滅し、試験管の底にどす黒い滓が沈殿する。
「……ひどい」
セリアの声は、いつもの気だるげな響きではなく、冷え切った怒りを帯びていた。
「……薬効成分の抽出、全然してない。買い占めた薬草をただすり潰して、安い麻痺草の粉末と、強い刺激毒をアルコールで溶かして混ぜただけ。飲んだ瞬間は刺激で頭が冴えたように錯覚するけど、心臓と内臓に急激な負担がかかる。……数時間で麻痺が全身に回る。薬じゃない、ただの劇薬」
「フェル、生薬の配合はどうだ」
「セリアちゃんの言う通りです……! 毒消しの処理も、熱の安定化もされていません。こんなの、少し知識のある薬師なら絶対に調合しない、利益のためだけに急造された毒物です!」
フェルが唇を噛み締め、悔しさに肩を震わせる。
次にカーナが、粗末な真鍮色の筒を無造作に手に取った。手袋を外した無骨な指先で、筒の縁や継ぎ目を確かめるように撫で回す。そして眉を険しく吊り上げると、腰から引き抜いた金槌を、机の上の鉄床板へ向かって容赦なく振り下ろした。
鈍い破断音が工房に落ち、真鍮色の筒がぐにゃりと歪んで真っ二つに割れる。カーナはその脆い断面を親指で強く擦り、吐き捨てるように言った。
「……チッ、反吐が出るね。真鍮ですらねえよ。ただの安物屑金属に、黄色い塗料を焼き付けただけだ。おまけに内側の錫引きもしてねえ。それどころか、成形を楽にするために大量の鉛を混ぜ込んで鋳造してやがる」
「鉛だと」
「ああ。酸の強い薬液を入れたら、金属毒が中に溶け出して混ざる。こんなもんを水に入れて飲ませたら、腹の中が腐っちまうのは当たり前だ。職人の看板掲げて、こんな人殺しのガラクタを大通りで売り捌いてやがったのか、あの豚野郎どもは!」
カーナが金槌の柄を強く握り締め、筋張った拳を怒りで白く染めていた。
「十分だな」
リョウは羽ペンを走らせ、セリアの成分分析表と、カーナの金属鑑定の所見を、一枚の羊皮紙へ淡々と書き留めた。商人としての冷徹な手際だった。
「ルイーナ、これを騎士団本部の監察部と、王都ギルドの特別査問窓口へ直接届けてくれ。地方の窓口を通せば握りつぶされる恐れがある。騎士団の物資調達妨害と、毒物取締条例違反、それと粗悪金属による傷害の告発状だ。現物も証拠として提出する」
「承知した。本部の監察ならゴードン商会の息はかかっていない。すぐ動かそう」
ルイーナが鑑定書と割れた筒を抱え、風のように駆け出していった。
効果は劇的だった。午後を回る頃には、粗悪模倣薬の被害報告はさらに広がり、大通りのゴードン商会第一支店の前には、怒り狂った冒険者やその仲間たちが大挙して押し寄せていた。
金を返せ、毒薬を売りつけやがったな、と怒号が飛び交い、大通りの店舗は大混乱に陥った。暴徒化を防ぐために衛兵隊が駆けつけ、店舗前を規制線で封鎖して野次馬を押し戻す騒ぎへと発展し、市場を牛耳ろうとした巨大資本の横暴は、職人たちの技術と誇りによって、決定的なボロを暴かれた。
だが、勝負はまだ終わっていなかった。嵐のような一日が過ぎ、深夜の工房。日中の告発手続き、代替サプライチェーンの原価計算、そしてゴードン商会が次に打ってくるであろう悪あがきへの対抗策の策定。連日の激務が重なり、リョウは作業机に広げた帳簿の上で、羽ペンを握ったまま深く眠りに落ちていた。冷え込み始めた夜の工房に、規則正しい寝息だけが落ちている。
そこへ、奥の調合室からフェルが足音を殺して現れた。灯りを落とした薄暗がりの中、机に突っ伏すリョウの背中を見つめ、困ったように眉尻を下げる。フェルは壁にかけてあった厚手のショールを手に取ると、風邪を引かないよう、リョウの丸まった肩へとそっと優しく掛けた。
その直後、天井の梯子から、亜麻色の髪を揺らしてセリアが音もなく降りてきた。セリアはフェルと目を合わせると小さく頷き、リョウの足元へと静かに歩み寄る。そして、椅子と机の隙間に子狐のように小さく身を丸めると、リョウの冷えた足首に、ふわふわとした黄金色の尻尾をそっと巻きつけた。
さらに勝手口の扉が音もなく開き、カーナがぬっと入ってくる。手には湯気を立てる小さな陶器の深皿があった。
「……おい商人、まだ起きて……寝てんのか」
カーナはひそひそ声で呟くと、持っていた金槌を静かに床の布の上へ置き、具だくさんの温かい野菜スープを、リョウの手元を邪魔しない机の端へコトッと置いた。
そして、工房の表扉の外。冷たい夜風が吹き抜ける石畳に、ルイーナが一人、静かに立っていた。詰所での告発手続きを終え、非番のはずの彼女は、武装を解くこともなく工房の扉に背中を預けている。通りを通る怪しい人影を青い瞳で射すくめ、腰の長剣の鞘に指をかけたまま、私設の護衛として夜番に立っていた。
誰一人、言葉を交わすことはない。甘い言葉も、大げさな感謝もない。だが、机の上の小さなランプの明かりに照らされた工房には、何者にも壊せない確固たる絆が、静かに息づいていた。
リョウの指先から転がり落ちた羽ペンの先には、明日の決着に向けた数字が、乾いたインクで黒々と刻まれていた。




