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第32話 原料市場の兵糧攻め

ゴードン商会の脅迫から二日後、工房の納品口に届くはずの荷馬車は一台も姿を現さなかった。


朝日が昇りきっても、路地裏に蹄の音は響かない。静まり返った工房へ血相を変えて飛び込んできたのは、提携している薬草問屋の番頭、モルツだった。


「リョウさん、フェルさん……すまねえ!」


モルツは額に汗をびっしりと浮かべ、作業机の前で深々と頭を下げた。


「ゴードン商会が街中の薬草問屋に強大な圧力をかけやがった! 清涼草も、白粘土も、スライム核も、市場に出回ってる分を相場の二倍の金で根こそぎ買い占めてっちまったんだ! うちの組合長も脅しに屈して……お宅への卸しを全面停止にしろって命令されちまった!」


さらに、工房の扉が荒々しく開き、カーナの鍛冶場の若い弟子が息を切らしながら駆け込んできた。


「親方から言伝です! 真鍮の地金問屋がゴードン商会に買い叩かれて、材料の手配がつかなくなったって……!」


連鎖する流通の遮断。資金力に物を言わせた、教科書通りの兵糧攻めだった。


「そんな……!」


フェルの顔から、さっと血の気が引いた。亡き父が借金に追われ、問屋から原料を差し押さえられて工房が立ち行かなくなったあの悪夢が、鮮明に脳裏をよぎったのだ。


「どうしよう、リョウさん……! 来週納品予定の浄水ドロップも、気力回復シロップも、原料がなければ一本も作れません……!」


フェルの声が震え、涙が瞳に滲む。そこへ、作業机の下から這い出してきたセリアが、頭上の狐耳をぺたりと痛々しく伏せた。朝日に輝いていたはずの尻尾が、だらりと力なく床に落ちる。


「……私の、せい……?」


掠れた声が、土間にぽつりと零れ落ちた。


「……私が、ここに転がり込んだから。ギルドの幹部を怒らせて、大手に目をつけられたから……全部、私のせいなんだ……」


セリアはだぼだぼの袖を握り締め、自分を責めるように小さく震えていた。重苦しい絶望が、工房を満たしていく。


だが――リョウは取り乱すことも、机を叩いて怒鳴ることもなかった。静かな手つきで羽ペンをインク壺へと戻すと、開いていた分厚い元帳を、ぱたんと音を立てて閉じた。


そして、ゆっくりと椅子から立ち上がる。リョウは自責の念で俯くセリアの前へ歩み寄ると、その頭の上に、ぽんと温かな手のひらを置いた。


「勘違いするな」


低く、落ち着いた、一切の動揺を含まない声だった。


「これはただの市場競争だ。誰の責任でもない」


セリアが息を呑み、伏せていた耳をわずかに震わせる。リョウはセリアの柔らかな亜麻色の髪を無造作に撫で下ろすと、視線を上げ、青ざめるフェルを真っ直ぐに見据えた。


「お前たちを雇ったのは俺だ。理不尽な泥をかぶるのも、売られた喧嘩を買い戻すのも、経営者である俺の仕事だ。お前たちは――自分の最高の仕事だけをしてろ」


その瞬間、工房の空気が一変した。


セリアが丸い瞳を見開き、頭上の狐耳がピンと天に向かって立ち上がる。フェルが唇を引き結び、息を呑んでリョウを見つめた。工房の入口で事態を見守っていたルイーナが、青い瞳をわずかに瞠って胸当てを押さえ、後から駆け込んできたカーナが、扉の縁を強く握り締めて立ち尽くしていた。


守られるだけだった少女たち、そして自立して過酷な現場を戦い抜いてきた女たちの胸の奥に、リョウの言葉が、強烈な熱を帯びて深く突き刺さっていた。


リョウは腕を組むと、商人としての冷徹な笑みを口元に浮かべた。


「いいか、大資本が原料を買い占めた時、一番苦しいのは向こうだ。生薬には消費期限がある。山積みの在庫には、日毎に莫大な保管コストと腐敗のリスクがのしかかる。奴らが維持費という時限爆弾で自滅するまで、俺たちは裏ルートでバイパスを作るぞ」


淀みのないリョウの言葉に、仲間たちの瞳に宿っていた不安が、一瞬にして猛烈な闘志へと塗り替えられた。


「……バイパスなら、作れる!」


セリアがいち早く声をあげた。黄金色の尻尾を勢いよく左右に振り、机の上の羊皮紙へ飛びつく。


「……街の周囲の野原に自生してる雑草……誰も見向きもしない安物の野草から、微細魔導陣を使って有効成分だけを三倍の濃度で抽出する術式を組む! 徹夜で、朝までに設計図を仕上げる……!」

「徹夜は禁止だ。寝ながらやれ」

「……寝る前に、やる!」


セリアが目を輝かせてペンを走らせる横で、カーナが巨大な金槌を肩に担ぎ、獰猛な笑みを浮かべた。


「真鍮の地金がねえなら、ドワーフの鉱山仲間から直接引っ張ってくるまでだ! 仲買の市場なんざ通さねえ、うちの親戚の採掘場から粘土も金属端材も荷車ごと直輸入してやるよ!」

「頼もしいな。ルイーナ、衛兵隊側はどうだ?」


リョウに問われたルイーナは、口元に凛々しい笑みを湛え、腰の長剣をカチリと鳴らした。


「騎士団の重要物資調達に対する不当な買い占めおよび妨害工作として、商業ギルドと衛兵隊へ正式に査察要請を出す。ゴードン商会の倉庫周辺を常時監視下に置き、脱税と横領の疑いで流通を縛り上げてやろう」

「よし。フェル、お前はセリアの新素材に合わせて、調合比率の微調整を頼む」

「はいっ、リョウさん! すぐに予備実験に入ります!」


工房が、猛烈な熱気とともに動き出した。買い占めによる兵糧攻めなど、この四人の技術と連携の前には、ただの迂回路を見つけるきっかけに過ぎなかった。


巨大な嵐を前にして、四人の瞳には恐怖ではなく、揺るぎない闘志の炎が宿っていた。


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