第31話 巨大商会の影と、安値の買収状
朝の薬師工房は、これまでにないほど不穏な熱気と過密な人口密度に包まれていた。
窓から差し込む朝日の下、リョウは作業机で分厚い元帳を開き、羽ペンを走らせていた。階上の屋根裏部屋からパタパタと軽快な足音が降りてきたのは、帳簿の数字を三行ほど埋めた時だった。
だぼだぼの黒いローブを翻して現れたセリアは、朝の挨拶もそこそこに、リョウの足元へとまっすぐ潜り込んできた。そのまま机の下の狭いスペースで器用に体を丸めると、朝日に透けて淡い黄金色に輝くふわふわの尻尾を、リョウの右足首へと巻きつけた。ぎゅっと程よい力加減で巻き付いた毛並みから、じんわりと心地よい体温が伝わってくる。
(……温かいな。完全に湯たんぽ扱いだが)
リョウが苦笑を漏らした、その時だった。
セリアが机の下からぬっと半身を乗り出し、椅子の背もたれに顎をちょこんと乗せてきた。そして、だぼだぼの袖から細い両手を伸ばし、リョウの首筋へと背後から指先を添える。
「……リョウ、肩、凝ってる」
掠れた、だが甘えるようなローテンションの声。
次の瞬間、彼女の指先からぽわ、と微細な温かい魔力が首筋へ注ぎ込まれた。血流がじんわりとほぐれ、徹夜続きの首や肩の張りが嘘のように和らいでいく。劇的に気持ちがいい。だが、過剰な血流が下腹部に集まりはしないかと、リョウは内心でヒヤヒヤしていた。
そこへ、奥の調合台からフェルが目を三角にして飛んできた。
「セリアちゃん! 距離! 距離が近すぎます! リョウさんの業務の邪魔ですよ!」
フェルは湯気を立てる陶器のカップを、リョウとセリアのわずかな隙間にトンと少し強めに置いた。
「はい、リョウさん! 今朝は眼精疲労と頭脳労働に特効の、特製ブレンド生薬茶です! 体調管理は共同経営者の私の役目ですからね!」
「……邪魔」
セリアがリョウの首元に顔を埋めたまま、頭上の狐耳をぺたりと倒して抗議する。そこへ、工房の扉が勢いよく開いた。
「よお、商人! 納品に来てやったぞ!」
革エプロンをつけたカーナが、分厚い布包みを両手で抱えて大股で入ってきた。机の周りに群がる二人を見るや、カーナは琥珀色の瞳を細め、セリアを牽制するように反対側の丸椅子へと腰を下ろした。
「おいおい、すっかり飼い慣らされてんな。……言っとくがな商人、肩揉みなんざ一時しのぎだぞ。座り仕事でも腰が痛まねえ、ドワーフ特製の金具入り低反発座布団を作ってやった。……ほら、ケツ上げろ」
カーナは強引にリョウの腰を浮かせると、仕立ての良い特製座布団を差し入れ、リョウの手の甲をぽんと叩いた。さらに、カランと扉のベルを鳴らして入ってきたのは、長剣を佩いたルイーナだった。
非番のはずの女騎士は、机の周囲を埋め尽くす異様な密度を見下ろし、兜を小脇に抱えてリョウのすぐ背後にドスンと仁王立ちした。
「ふむ……座り仕事ばかりで身体を甘やかすから肩が凝るのだ。運動不足が諸悪の根源。おいリョウ、明朝から私の剣の素振り百本に付き合え。護衛を兼ねて徹底的に鍛え直してやる」
足元には湯たんぽ代わりの狐尾。
首元にはマナの肩揉み。
眼前には特製ハーブ茶。
尻の下にはドワーフ特製座布団。
背後には威圧的な女騎士の直立待機。
リョウは羽ペンを止めた。
(……なぜ朝から、俺の周囲の人口密度がこんなに異常なんだ?)
内心で盛大に頭を抱えかけた、その時だった。
バダンッ!
工房の扉が、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで乱暴に蹴破られた。澄んだ朝の空気を切り裂く下卑た笑い声とともに、土足の足音が土間へと踏み込んでくる。
「ほう……ここが最近、路地裏で小賢しい商品を並べているネズミの巣か」
入ってきたのは、金糸の刺繍が施された豪奢な絹服に身を包んだ、肥満体の男だった。細い豚のような目をギラつかせ、首には幾重もの金鎖。背後には、大剣を背負った筋骨隆々の私設護衛を二人従えている。
工房の温かい空気が、一瞬で凍りついた。
セリアがビクッと身を竦ませ、机の下へ素早く潜り込んでリョウの足首に固くしがみつく。フェルが顔色を変えて調合台の陰へ後ずさり、カーナが眉を吊り上げて金敷槌へと手を伸ばし、ルイーナが冷徹な殺気を瞳に宿して長剣の柄に親指をかけた。
男は仲間たちを汚い虫でも見るような目で見下ろすと、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、リョウの作業机の上へ乱暴に叩きつけた。
「王都ゴードン商会、この街の支店長を務めるバレルだ。貴様らの噂は耳に入っているぞ。スライムの靴底だの、浄水ドロップだの、深眠香だの……路地裏の零細が分不相応な儲けを出しているようだな」
バレルは脂ぎった顔を歪め、尊大に言い放った。
「慈悲を与えてやる。その羊皮紙にサインしろ。全商品の製造特許と独占販売権を、まとめて銀貨百枚で我が商会が買い取ってやる。傘下に下り、我が商会の下請け工房として働く栄誉を授けてやるぞ」
理不尽極まる買収状。実質的な技術の強奪宣言だった。断ればどうなるか、背後の護衛が威嚇するように剣の鞘を鳴らしている。フェルが恐怖に震え、セリアがリョウの服の裾をぎゅっと握り締めた。
だが、リョウは仲間たちを背に庇うように座り直すと、机の上の買収状を一瞥すら弾かなかった。視線は手元の帳簿に落としたまま、羽ペンを滑らせ、乾いた声で鼻を鳴らした。
「銀貨百枚?」
「そうだ。裏路地のネズミにとっては、一生遊んで暮らせる大金だろうが!」
「断る。話にならない」
リョウはペンを走らせたまま、一切目を合わせずに言い捨てた。
「銀貨百枚など、うちの先月の粗利より低い。端金で人のシマを荒らすな。お引き取りを」
冷え切った、侮蔑すら含まないビジネスマンの拒絶。バレルの豚のような顔が、一瞬で真っ赤に沸騰した。
「き、貴様……! 大手ゴードン商会の看板に泥を塗る気か! 後悔するぞ……! この街で二度と商売ができんよう、徹底的に踏み潰してやるからな!」
怒声と罵声を撒き散らしながら、バレルは唾を 吐き捨てるようにして工房を飛び出していった。
激しく叩きつけられた扉の向こうに、巨大資本の容赦なき牙が黒々とした影を落としていた。




