第30話 万物の真理(サイズじゃない、深さだ)
真鍮のミニ香炉から立ち上る青白い煙は、瞬く間に城壁都市の夜を一変させていた。
『深眠香』を携えて出撃した騎士団の合同遠征は、前代未聞の完全無欠な大戦果を収めて帰還した。
野営の天幕で香を燻らせた兵たちは、夜行性魔物の羽音を警戒する知覚を保ったまま、脳の芯だけを泥のような深い闇へ沈めていた。
翌朝、後衛の魔導士部隊は誰一人として倦怠感を残さず、魔力回路を満タンまで急速冷却・自己回復させて目を覚ました。
索敵結界は寸分の隙もなく維持され、防壁魔法は展開速度の記録を更新し、不眠症で出撃を取りやめかけていた部隊とは思えない圧倒的な継戦能力を発揮したのだ。
その噂は、瞬く間に冒険者ギルドや隊商の間にも駆け巡った。
「あの青い煙の香炉を至急回せ!」
「金ならいくらでも出す!」
フェルの工房の前に、連日ひっきりなしに注文の使者が押し寄せた。
真鍮製ミニ香炉と深眠香十回分の初期セットが、銀貨二枚。補充用の香(十回分)が、銀貨一枚。
騎士団の魔導部隊から三十セット(銀貨六十枚)。冒険者ギルドの上位探索クランから二十セット(銀貨四十枚)。
初回生産分の計五十セットは納品当日に完売し、工房の金庫には銀貨百枚という大金が一気に転がり込んできた。
そんな熱狂の最中、工房の扉が乱暴に蹴破られるように開いたのは、納品から五日目の昼下がりだった。
「セリア! 貴様、こんな小汚い薬師工房で何を油を売っている!」
入ってきたのは、金糸の刺繍が施された豪奢なシルクのローブをまとった、肥満体の男だった。魔導ギルドの支部幹部の一人だ。
後ろに護衛の魔導士を二人従え、鼻をつまみながら土足で工房へ踏み込んできた。
「ギルドの地下記録庫から無断で持ち出した術式を、勝手に商人風情に売り渡したそうだな! 規約違反だ! 直ちにギルドへ戻り、その『深眠香』とやらの権利と配合仕様書をすべて差し出せ!」
高圧的な怒声が工房に響き渡る。
棚の奥で調合をしていたフェルが青ざめ、階段の陰から降りてきたセリアがピクリと身を竦ませた。
だぼだぼの綺麗なローブを着たセリアは、反射的にリョウの背中へと隠れ、頭上の狐耳をぺたりと伏せた。だが、リョウの足元で、黄金色に輝くふわふわの尻尾がピシピシと硬く床を叩いている。
怯えているのではない。彼女の奥底にある技術者の矜持が、強烈な怒りを露わにしていた。
リョウは帳簿から視線を上げず、冷ややかに言った。
「うちの専属技術顧問に、何の用だ」
「専属技術顧問だと!? 笑わせるな! そいつは派手な攻撃魔法も撃てず、上層部に屁理屈ばかり並べる無能の落ちこぼれだ! ギルドの寛大な慈悲で地下に置いてやっていただくだけの無駄飯食いだろうが!」
幹部が唾を飛ばしながら喚き立てた、その時だった。
リョウの背中から、セリアがすっと半身を乗り出した。朝の光を浴びた淡い亜麻色の髪を揺らし、澄み切った瞳で幹部を射抜くように見据える。
「……お断り」
低く、乾いた、だが芯の通った声だった。
「……地下の暗闇に放置して、紙もインクも碌にくれず、研究費を全額打ち切ったのは、そっち。……私はフェル工房と正式に前払い契約を結んだ専属技術顧問。三行で済む術式に十行かけてマナを垂れ流す無能のところには、一ミリも戻る気はありません」
「な、なにを貴様――っ!?」
激昂した幹部が杖を振り上げようとした瞬間、工房の土間に重たい金属音が二つ、同時に炸裂した。
「おい。誰が無能だって?」
腕まくりをしたカーナが、身の丈ほどもある巨大な金敷槌をドスンと床に叩きつけ、仁王立ちで睨みつけていた。そして、その隣では――
「騎士団の重要補給物資を妨害し、契約技術者を恫喝する気か? 公務執行妨害および軍需横領未遂で、詰所へ連行してもよいのだぞ」
正装の甲冑をまとったルイーナが、青い瞳に氷のような殺気を宿し、長剣の鍔をカチリと鳴らしていた。
巨大な槌を担ぐドワーフの鍛冶師。抜刀寸前の筋骨隆々たる女騎士。そして、冷徹な目で契約書を指で弾くリョウ。
幹部は引き攣った顔で後ずさり、護衛の魔導士ともども、尻尾を巻いて蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
静寂が戻った土間で、セリアの狐耳が誇らしげにピンと立ち上がった。
「……ざまあみろ、です」
「威勢がいいのは結構だが、これでギルドの地下倉庫には戻れなくなったぞ」
リョウが現実的な事実を告げると、セリアの耳がピタリと動きを止め、不安そうに尻尾をだらりと垂らした。
そこへ、フェルがエプロンの裾を払って明るく声をあげた。
「なら、うちの屋根裏部屋を使ってください! ずっと物置にしてたんですけど、窓もあって日当たりもいいですし、地下よりずっと過ごしやすいですよ」
「……ほんとうに?」
おずおずと尋ねるセリアに、リョウが手元の台帳をめくりながら淡々と付け足した。
「家賃は月々の顧問報酬から天引きだ。朝夕の飯付きでな」
「……うん。ここで、働く!」
セリアの黄金色の狐尾が、嬉しそうに勢いよく左右へ振られた。ふわふわの毛先が、リョウの膝のあたりをトントンと得意げに叩いている。
エルフの薬学と素材調合。
ドワーフの冶金と精密加工。
人間の実地運用と市場展開。
獣人の魔導陣設計と術式制御。
四つの種族の専門性が、リョウの敷いたビジネスの土台の上で完璧に噛み合った。工房の技術基盤は、これ以上ないほど強固なチームとして完成していた。
その日の夜。
仕事を終えた仲間たちが去り、セリアが屋根裏のベッドで泥のように健やかな寝息を立てている頃。静まり返った工房で、リョウは分厚い元帳をぱたんと閉じた。
手元の革袋には、深眠香の利益分配によって、またしても銀貨がずっしりと蓄積されていた。
リョウは深く息を吐き、椅子に深く背を預けると、何気ない手つきで下腹部をそっと撫でた。
「……サイズじゃない、深さだ。いくら長くても、浅くちゃ意味がないからな」
洗い桶を片付けていたフェルが、怪訝そうに振り返った。
「リョウさん、また何の話ですか?」
「……睡眠と精神回復の深度の話だ」
リョウは営業用の真顔を完璧に保ったまま答えた。だが、その内心では、手元の銀貨を睨みつけながら激しい悪態をついていた。
(――いや、あっちは深さも気になるが、まずはこっちの長さの復旧が先決だろ!)
男の悲願は一ミリも叶っていなかったが、その技術と信頼は、都市 の夜を救うほど深く広く根を張り巡らせていた。
四人の技術が結実した工房の夜に、男のあくなき執念は密かに次の野望へと燃え上がっていた。




