第29話 泥のように眠る夜
三人の職人が持ち寄った技術の結晶は、親指ほどの小さな真鍮の塊へと結実していた。
朝からフェルの工房に集まった面々の手元には、それぞれの専門領域が一切の妥協なく詰め込まれていた。
作業台の上には、フェルが調合した微粉末の生薬。月光草の葉先と鎮魂花の雄しべを極限まで乾燥させ、香気成分が最も揮発しやすい比率でブレンドされた鎮静ハーブだ。
それを収めるのは、昨晩カーナが鍛冶場から届けてくれた「真鍮製ミニ香炉」だ。手のひらに収まる円筒形の小蓋には、雨露を防ぎつつ微風を均一に取り込むスリットが精密に刻まれており、野営地の天幕で倒れても火の粉が一切漏れ出さない耐火構造になっていた。
そして、その粉末に命を吹き込んだのが、セリアだった。
セリアは机の上に身を乗り出し、震える指先で微小なマナの針を操っていた。粉末の粒子一つひとつに対し、リョウが指摘した「基底へのバイパス術式」を刻み込んでいく。
熱分解の瞬間にだけ周波数を同期させ、外部からの魔力供給なしで薫煙の微粒子に精神安定の波長を乗せる――常識破りの微細魔導陣。
「……できた」
セリアがかすれ声で呟いた時、真鍮の小筒の中に、淡い藍色の微粉末が満たされていた。試作一号『深眠香』の完成だった。
「よし、実地テストだ」
リョウが言うと、フェルがおずおずと手を挙げた。
「あの、まずは私が試しましょうか? 薬剤師として効き目を確かめないと――」
「……だめ」
セリアがフェルの言葉を遮った。その小さな手で、完成したばかりのミニ香炉をぎゅっと胸元に引き寄せる。
「……私の頭で試す。この街で一番過敏で、思考の電源が切れない私の頭で効かなかったら……現場の兵たちを救う商品になんて、ならないから」
セリアの頭上の狐耳は、相変わらず頭痛に耐えるように力なく伏せられ、ピクピクと痛々しく痙攣していた。ローブの裾から垂れる狐尾も、パサパサに毛並みが荒れたままだ。
リョウはその決意に満ちた目を真っ直ぐに見返し、静かに頷いた。
「いいだろう。頼んだぞ」
夜。工房の片隅、古い毛布が敷かれた粗末なベッドに、セリアは横たわっていた。
枕元の小さな木箱の上に、真鍮のミニ香炉が置かれる。リョウが火打ち石を打ち、香の先端に小さな火を灯した。
ふわりと、青白い微細な煙が立ち上る。
スリットから漏れ出た薫煙は、夜露に濡れた針葉樹林のような、どこまでも澄んだ清涼な香りを漂わせながら、セリアの鼻腔へと静かに吸い込まれていった。
(……あ)
煙の微粒子が肺胞から血流へ溶け込み、術式波長が彼女の張り詰めた魔力回路に触れた瞬間だった。カチリ、と頭の芯で小さなスイッチが切れる感覚があった。
セリアの鋭敏すぎる耳は、外の風の音も、遠くの夜警の足音も、はっきりと捉えていた。五感の警戒能力は、何ひとつ鈍っていない。
それなのに――それらの環境ノイズを拾い上げるたびに激痛を伴ってフル回転していた脳内演算が、嘘のようにピタリと静止していた。
回路の摩擦熱が、冷たい清水に浸されたかのように急速に引いていく。
頭の芯の痛みが、消えていく。止まらなかった思考の濁流が、穏やかな凪へと変わっていく。
(……思考が、止まる……)
横に伏せられていた狐耳が、ふっと安堵の息を吐くように力を失った。パサパサだった尻尾の先まで、温かな血流がじんわりと行き渡っていく。
セリアの意識は、底の知れない、だが限りなく温かくて優しい闇の底へと、滑り落ちるように沈んでいった。何ヶ月ぶりかも思い出せない、本物の「眠り」の中へ。
翌朝。
工房の窓から差し込む朝日の光の中で、リョウはいつものように作業机に向かい、帳簿にペンを走らせていた。そこへ、階上の寝所へと続く階段から、パタパタと軽快な足音が駆け下りてきた。
勢いよく扉が開く。
「……リョウさん!」
フェルの歓声とともに、工房の中央に飛び込んできた人影に、リョウの手が止まった。
立っていたのは、セリアだった。だが、その姿は昨夜までの薄汚れた小狐のそれとは、まるで別物だった。
色白の肌を抉るように張り付いていた、あの青黒く重たい二重の隈が、跡形もなく消え去っていた。頬には淡い桜色の血色が差し、充血していた瞳は、夜空の星のように澄んだ光を宿している。
何よりも劇的だったのは、耳と尻尾だった。頭上の三角形の狐耳は、ピンと誇らしげに空を向いて立ち上がっている。
そして、昨夜までパサパサの箒のように荒れ果てていた狐の尻尾が、手入れの行き届いた上質な絹のように艶を取り戻し、空気を含んでふわっふわに膨らんでいた。
セリアは小走りでリョウの机の前まで駆け寄ると、ぴたりと足を止めた。
リョウは羽ペンを置き、淡々と言った。
「どうだ。商品として合格か」
セリアは何も言えなかった。乾いていたはずの唇が小さく震え、次の瞬間、その大きな瞳からポロポロと、大粒の涙が零れ落ちた。
一度溢れ出した雫は止まらず、顎を伝ってボロボロと胸元を濡らしていく。
「……あたまが、痛くないの」
掠れた、だが昨夜とは全く違う、潤いを帯びた幼い声だった。
「……音が、頭に突き刺さらないの。……わたし、半年ぶりに……ちゃんと眠れた……。泥みたいに、朝まで……一度も起きないで、ぐっすり眠れたの……!」
声が嗚咽に変わり、セリアはその場にへたり込みそうになりながら、溢れる涙を袖口で必死に拭おうとした。だが、拭っても拭っても涙は止まらず、机の上の帳簿に落ちそうになる。
リョウは小さくため息をつくと、作業台の端にあった清潔な木綿の手拭いをひょいと取り、セリアの頭の上にぽんと被せた。
「帳簿を濡らすな。泣く暇があるなら、量産のための術式仕様書をさっさと書け」
冷徹な、いつもの商人の声。
だが、手拭いを被せられたセリアは、その布を両手でぎゅっと胸元に抱きしめると、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、力強く頷いた。
「……うん。……書く。すぐ書く……!」
セリアは顔を覆ったまま、何度も、何度も頷いた。本人は必死に涙を堪えながら技術者としての真顔を作ろうとしている。
だが――その背後で、朝日に透けて淡い黄金色に輝くふわふわの尻尾は、まるで忠実な子犬のように、リョウの足首と椅子の脚へ、すりすりと嬉しそうに何度も擦り寄せられていた。
静かに寄り添う柔らかな温もりを足元に感じながら、リョウは新しい量産計画の数字を淡々と書き連ねていった。




