第28話 尖りすぎた魔導士の正しい買い方
床に落ちていた羊皮紙をリョウが拾い上げた瞬間、鋭い威嚇の気配が地下室に満ちた。
「……さわらないで!」
セリアが跳ね起きるように机から身を乗り出し、散らばる資料を胸元へと掻き集めた。
頭上の三角形の狐耳はぺたりと真横に伏せられ、パサパサに荒れ果てた狐尾の毛が、針のように逆立っている。追い詰められた野良の子狐が、最後の力で牙を剥き出しているような、剥き出しの敵意。
血走った瞳から、今にも涙が零れ落ちそうだった。
「どうせ、上層部の使いでしょ……! ここからも私を追い出しに来たんでしょ……! 派手な攻撃魔法も撃てない役立たずの無駄飯食いって、笑って追い出せばいいじゃない……!」
フェルがおろおろと両手を揺らした。
「セリアちゃん、落ち着いて! 追い出しに来たんじゃないの、リョウさんは――」
だが、リョウはフェルを手で制した。
威嚇の声にも、逆立つ狐尾にも、みすぼらしく擦り切れた黒いローブにも、一切動じる気配はない。それどころか、リョウの視線はセリアの幼い顔立ちや衰弱した身体にすら向いていなかった。
拾い上げた羊皮紙の上、そこに書き殴られた数値と幾何学模様だけを、冷徹なまでに凝視していた。
リョウはいつだってそうだ。
フェルと初めて会った時、エルフの美貌ではなく、痛む足元とすり減った靴底の重心を見た。カーナと対峙した時、女ドワーフの小柄な体躯ではなく、掌の分厚いタコと槌を振り下ろす打撃精度を見た。
ルイーナと向き合った時、凛々しい女騎士の容姿ではなく、額に張り付いた皮脂と泥にまみれた革靴の損耗を見た。
そして今、この地下室でリョウが見つめているのは、可哀想な境遇の獣人の少女ではない。羊皮紙の上に刻まれた、あまりにも無駄のない「魔力波形の減衰曲線」と、設計者の執念だけだった。
(……前世にもいたな、こういう奴が)
社内の人間関係は最悪で、会議に出れば幹部に毒づき、誰とも群れようとしない。だが、キーボードを叩かせれば誰よりも無駄のない美しいコードを書き、システムの急所を一撃で直してみせる偏屈な天才エンジニアたち。
彼らのような人種を動かすのは、同情でも、おためごかしの慰めでもない。
「その技術に対する正当な理解」と、「相応の対価」だけだ。
リョウは羊皮紙の中央、幾重にも重なる幾何学陣の急所を、人差し指でとんとんと叩いた。
「三行目の展開式、マナの伝導線が三本無駄に交差してロスが出てるな。ここをバイパスして直接基底に落とせば、マナの漏れを抑えて消費効率を三割以上改善できるだろ」
セリアの喉から、掠れた息が漏れた。
「……え?」
横に伏せられていた狐耳が、ピクリと跳ね上がった。
リョウは視線を紙面から外さないまま、淡々と事実を突き続ける。
「それから、この波形の減衰グラフだ。熱源を介した薬草の薫煙――煙の微粒子にこの術式波長を乗せたら、空気中に一定速度で安定して拡散させられるか?」
セリアは両目を見開き、信じられないものを見るようにリョウの横顔を凝視した。敵意と威嚇で逆立っていた尻尾の毛が、驚愕のあまりしゅるしゅると萎んでいく。
「……な、んで……わかるの……?」
「商売人だからな。数字の無駄と、効率の良し悪しくらいは見ればわかる」
「…………」
「答えろ。煙に乗せて波長を一定拡散できるか?」
リョウの乾いた問いかけに、セリアの頭脳が反射的に演算を始めていた。思考の電源が切れない彼女の脳は、技術の問いを投げかけられた瞬間、感情よりも先に論理を組み立ててしまう。
「……できる」
セリアは乾いた唇を開き、早口で呟いた。
「……第三節の励起術式を省いて、熱分解のタイミングと周波数を同期させればいい。そうすれば、外部からのマナ供給はほぼゼロでいける。……でも、そんなの、ギルドの誰も評価してくれない。派手な光も爆発も出ない地味な術式なんて、何の役にも立たないって……」
「現場を知らない無能の意見などどうでもいい」
リョウは羊皮紙を机の上に置くと、懐の革袋へと手を伸ばした。ジャラリ、と重く澄んだ金属音が、埃っぽい地下室に響き渡る。
机の上に、真新しい銀貨が整然と積まれていく。一枚、二枚、三枚――きっちり十枚。
先日、気力回復シロップの完売によって回収したばかりの、あの純利益の銀貨十枚だった。
セリアの呼吸が止まった。丸い瞳が、机の上の銀の山に吸い寄せられる。
「……これ、なに」
「前払い金だ。俺はお前のその技術を買いに来た」
リョウは営業用の真顔を完璧に保ったまま、明瞭に告げた。
「遠征で神経をすり減らした兵たちのために、五感の警戒能力は保ったまま、脳の芯と魔力回路だけを急速休眠させる『深眠香』を作る。お前の研究は無駄飯じゃない。過酷な現場で人が死ぬのを防ぐ、立派な必需品だ」
「……わたしを、使うの?」
「対等な技術提携だ。契約書通りに仕様を満たせば、継続して研究費を出す。仕事として受けるか?」
沈黙が地下室を満たした。
セリアの狐耳が、ゆっくりと、天に向かってぴんと真っ直ぐに立ち上がった。子ども扱いも、才能の搾取も、見当違いの同情もない。
ただ一人の技術者としてその腕を見込まれ、正当な金が目の前に積まれている。
埃っぽい地下室の片隅で、震える細い指先が、積まれた銀貨十枚の山へと静かに触れた。




