第27話 魔力回路の暴走と、引きこもりの天才
魔導ギルドの地下へ続く石階段は、冷え切った湿気と古い羊皮紙の匂いに満ちていた。
ランプの油火が揺れるたび、湿った石壁に長い影が伸びる。先を歩くフェルが、手元のカンテラを掲げながら声を潜めた。
「……セリアちゃん、元々は王都の魔導院にいた特待生なんです。でも、術式の無駄を削る理論ばかり突き詰めてギルドの幹部と衝突して、半年前にこっちの支部に流れてきて……」
「衝突した理由は?」
「幹部たちが誇示する大仰な儀式魔法を、『消費マナの七割が無駄、ただの見栄』って論文で徹底的に論破したらしいです。それ以来、冷遇されてこんな地下の記録庫に追いやられて……でも、本人は一日中ここに引きこもって、新しい術式計算ばかりしてるんです」
「なるほど。優秀な現場屋が、無能な役員に煙たがられたわけか」
「前世の愚痴みたいな言い方やめてください」
階段を下りきった先は、天井の低い保管庫だった。
壁際を埋め尽くす巨大な書架には、埃を被った古い魔導書や記録帳が乱雑に詰め込まれている。そして部屋の中央には、足の踏み場もないほど大量の羊皮紙が散乱していた。
紙片の隙間、小さな机の前に、その人物はいた。
だぼだぼの擦り切れた黒いローブに身を包んだ、小柄な少女だった。ボサボサに乱れた淡い亜麻色の髪の隙間から、ぴんと尖った三角形の狐の耳が覗いている。
だがその耳は、頭痛を堪えるように力なく伏せられ、過敏な環境音に怯えるようにピクピクと痛々しく痙攣していた。
何よりも目を引いたのは、その目元だった。色白の肌を抉るように、青黒く濃厚な隈が二重に張り付いている。
乾いた唇を小さく結び、充血した瞳で羊皮紙を睨みつけながら、震える手で羽ペンを猛烈な速度で走らせていた。
パチ、と鋭い火花が散った。羽ペンの先から、漏れ出た余剰マナが紫色の微小な放電となって紙面を焦がしている。
指先が小刻みに痙攣し、呼吸は浅く、小刻みだった。頭の芯で思考の電源が焼き切れたまま高速回転を続け、魔力回路が限界を超えて摩擦熱を上げているのが、離れた場所からでも肌にビリビリと伝わってきた。
「……セリアちゃん」
フェルが刺激しないよう、慎重に声をかけた。瞬間、羽ペンの動きがピタリと止まった。
セリアは首だけをぎぎぎ、と油の切れた人形のように巡らせた。焦点の定まらない、底の知れない暗い瞳が、フェルとリョウを捉える。
「……だれ」
声は低く、掠れていた。抑揚の抜け落ちた、乾ききった音。
「……用がないなら、出ていって。……うるさい」
「あのね、セリアちゃん。この人はリョウさん。私の工房で商売をやってる人で――」
「……帰って」
セリアはフェルの言葉を遮り、両手で机の上の計算用紙を抱え込むようにして身を縮めた。
「……どうせまた、儀式魔法の検算でしょ。上層部の誰かが書いた、ゴミみたいな冗長な術式の手直し……。やらない。もう何も計算しない。頭が、割れそうだから……」
両腕で頭を抱え込み、頭上の狐耳をぎゅっと強く伏せる。だぼだぼの袖口から覗く手首は、痛々しいほど細かった。
ローブの裾からは、手入れもされず毛並みの荒れ果てた狐の尾が、だらりと冷たい床に力なく投げ出されている。彼女の周囲に漂う魔力の気配は、荒れた海のように不規則に波打ち、今にも暴走して弾けそうな危うさを孕んでいる。
妖狐特有の鋭敏すぎる聴覚と魔力感受性。
壁の向こうの足音や空気のわずかな揺らぎまで拾ってしまい、その膨大な環境ノイズを天才的な頭脳が二十四時間休まず自動演算し続けてしまうことで引き起こされた、重度の不眠症。
止まらない脳内演算による精神回路のオーバーヒートは、ルイーナが語っていた「不眠で魔力枯渇を起こした兵たち」の、何倍も深刻な領域に達していた。
だが、リョウは少女の衰弱した姿に哀れみの目を向けることはしなかった。その代わりに、リョウの視線は――少女の足元に散らばった、一枚の羊皮紙へと真っ直ぐに注がれていた。
そこには、流麗にして無駄のない幾何学模様と、緻密極まる数値の羅列が刻まれていた。
極限まで張り詰めた少女の拒絶を前に、リョウは無言のまま膝を折り、床に落ちたその紙片へと静かに手を伸ばした。




