第26話 遠征の真の敵は「夜」にあり
夕暮れの工房に現れたルイーナは、兜を抱えたまま、かつてないほど濃い影を眉間に刻んでいた。
板張りの床を踏みしめる革靴の足取りは、いつもの引き締まった軽快さを失っている。前髪は汗と油で額にへばりつき、鋭い青い瞳の縁には、拭いきれない疲労の色が青黒い隈となって張り付いていた。
彼女は挨拶もそこそこに、作業台の隅にある丸椅子へドカリと腰を下ろした。革鎧の締め紐が軋む音が、静かな工房に重たく響く。
リョウは羽ペンを置き、帳簿から顔を上げた。
「どうした、ルイーナ。気力回復シロップに何か不具合でもあったか?」
フェルも調合の手を止め、心配そうに駆け寄ってくる。ルイーナは首を横に振った。だが、その表情は少しも晴れない。
「……いや。シロップの効果そのものは本物だった。納品された五十本を隊に配備したが、日中の行軍速度は二割以上伸びた。夜間哨戒の歩哨も、一人として居眠りをしなかった」
「なら結構なことじゃないか。現場の生産性が上がった証拠だ」
「結果だけ見ればな」
ルイーナは手甲を外すと、ごつごつとした指先で眉間を強く押し込んだ。
「問題は、その先だ。……夜、兵たちが眠れなくなっている」
「眠れない?」
「ああ」
ルイーナは乾いた唇を噛み締めた。
「日中に神経を極限まで昂らせた反動だ。日が暮れて野営の天幕に入っても、頭の芯が焼き切れたように冴え渡って目を閉じられない。天幕の隙間から吹き込む風の音、遠くで鳴く夜行鳥の羽音、草を踏む獣の気配……普段なら聞き流せるような些細な物音に過敏に反応し、身体が強張って横たわることすら苦痛になっているのだ」
無理やり目を閉じても、浅い悪夢にうなされるだけ。
朝を迎える頃には、シロップを飲む前よりもひどい頭痛と倦怠感に襲われ、兵たちの眼球は血走り、気力だけで辛うじて立っている状態だという。
「前線で戦う剣士なら、まだ筋肉の疲労と気合いで身体を動かせる。だが――後衛の魔導士たちが、すでに限界を超えた」
「魔導士が?」
「そうだ。最も致命的な打撃を受けているのが、術式部隊だ」
ルイーナの声が、一段と低く沈んだ。
「貴様も知っての通り、魔導士が魔力を回復させるには、意識を深い無意識の底まで沈め、精神を急速に休眠させる必要がある。肉体の休息ではない、精神回路の冷却だ。だが、不眠が続いたせいで部隊の八割が重度の魔力枯渇を起こしている」
魔力が底を突けば、野営地を守る索敵結界も張れず、夜襲を防ぐ防壁魔法も展開できない。今朝の演習では、斥候部隊が魔導士の援護を受けられずに魔物の奇襲を受けかけ、あわや全滅の危機に瀕したという。
「次の合同遠征は来週に迫っている。だが、このままでは遠征どころか、駐屯地から一歩も出撃できん」
重苦しい沈黙が工房を支配した。フェルが腕を組み、困ったように唸り声をあげる。
「うーん……神経を落ち着かせる睡眠薬草なら、いくつか心当たりはありますけど……」
「使えんのか?」
「野営地じゃ使えませんよ、ルイーナさん。普通の強い睡眠薬は、飲んだら泥のように眠り込んで、敵の夜襲があっても起きられなくなります。それに、翌朝まで頭の芯に重い霧が残って、魔法の詠唱も剣の振りも鈍っちゃいますから」
フェルの指摘に、ルイーナは悔しそうに拳を握り締めた。
戦場における睡眠は、単なる休息ではない。敵の奇襲を察知できるだけの最低限の警戒意識を残しつつ、脳の芯と精神回路だけを短時間で深く沈める――そんな神業のような回復手段など、この世のどこにも存在しなかった。
だが、作業机に座るリョウの瞳には、全く別の光が宿っていた。
(……これだ)
リョウは無意識のうちに、羊皮紙の余白に数字を走らせていた。
前世でも全く同じ光景があった。過酷な現場でエナジードリンクが売れれば売れるほど、その裏で深刻な睡眠負債が蓄積し、やがて快眠サプリや安眠アロマ、リカバリーウェアといった「夜の市場」が爆発的な成長を遂げたのだ。
昼の覚醒を売ったからこそ、夜の回復という巨大なボトルネックが現場に顕在化した。この二つは、コインの表と裏だ。
(昼に覚醒させ、夜に急速冷却する。このサイクルを完成させれば、遠征補給のインフラを完全に牛耳れる)
リョウは羽ペンを置き、ルイーナを真っ直ぐに見据えた。
「要するに、五感の警戒能力は殺さず、脳の芯と魔力回路だけを強制的に深い眠りへ沈めればいいんだな?」
「……口で言うのは容易いが、そんな都合のいいものが作れるのか?」
「作れなければ商売にならない。フェル、薬草の薫煙で魔力回路を直接冷却する術式は組めるか?」
不意に話を振られたフェルは、目を白黒させて両手を激しく振った。
「む、無理ですよリョウさん! 薬草を調合して煙を燻すくらいならできますけど、魔導士の魔力回路そのものに干渉して波長を整えるなんて、一級の専門技術です! 私みたいな街の薬剤師の手には負えません!」
「そうか。お前の手に負えないなら、専門家を連れてくるまでだ」
リョウは立ち上がり、上着を羽織った。
「フェル。この街で一番、魔力の波長や精神回路の制御に詳しい者はどこにいる?」
昼の熱気を制した商人の視線は、すでに遠征の兵たちを苛む「昏い夜」の奥底へと向けられていた。




