↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

26/60

第26話 遠征の真の敵は「夜」にあり

夕暮れの工房に現れたルイーナは、兜を抱えたまま、かつてないほど濃い影を眉間に刻んでいた。


板張りの床を踏みしめる革靴の足取りは、いつもの引き締まった軽快さを失っている。前髪は汗と油で額にへばりつき、鋭い青い瞳の縁には、拭いきれない疲労の色が青黒い隈となって張り付いていた。


彼女は挨拶もそこそこに、作業台の隅にある丸椅子へドカリと腰を下ろした。革鎧の締め紐が軋む音が、静かな工房に重たく響く。


リョウは羽ペンを置き、帳簿から顔を上げた。


「どうした、ルイーナ。気力回復シロップに何か不具合でもあったか?」


フェルも調合の手を止め、心配そうに駆け寄ってくる。ルイーナは首を横に振った。だが、その表情は少しも晴れない。


「……いや。シロップの効果そのものは本物だった。納品された五十本を隊に配備したが、日中の行軍速度は二割以上伸びた。夜間哨戒の歩哨も、一人として居眠りをしなかった」

「なら結構なことじゃないか。現場の生産性が上がった証拠だ」

「結果だけ見ればな」


ルイーナは手甲を外すと、ごつごつとした指先で眉間を強く押し込んだ。


「問題は、その先だ。……夜、兵たちが眠れなくなっている」

「眠れない?」

「ああ」


ルイーナは乾いた唇を噛み締めた。


「日中に神経を極限まで昂らせた反動だ。日が暮れて野営の天幕に入っても、頭の芯が焼き切れたように冴え渡って目を閉じられない。天幕の隙間から吹き込む風の音、遠くで鳴く夜行鳥の羽音、草を踏む獣の気配……普段なら聞き流せるような些細な物音に過敏に反応し、身体が強張って横たわることすら苦痛になっているのだ」


無理やり目を閉じても、浅い悪夢にうなされるだけ。


朝を迎える頃には、シロップを飲む前よりもひどい頭痛と倦怠感に襲われ、兵たちの眼球は血走り、気力だけで辛うじて立っている状態だという。


「前線で戦う剣士なら、まだ筋肉の疲労と気合いで身体を動かせる。だが――後衛の魔導士たちが、すでに限界を超えた」

「魔導士が?」

「そうだ。最も致命的な打撃を受けているのが、術式部隊だ」


ルイーナの声が、一段と低く沈んだ。


「貴様も知っての通り、魔導士が魔力を回復させるには、意識を深い無意識の底まで沈め、精神を急速に休眠させる必要がある。肉体の休息ではない、精神回路の冷却だ。だが、不眠が続いたせいで部隊の八割が重度の魔力枯渇を起こしている」


魔力が底を突けば、野営地を守る索敵結界も張れず、夜襲を防ぐ防壁魔法も展開できない。今朝の演習では、斥候部隊が魔導士の援護を受けられずに魔物の奇襲を受けかけ、あわや全滅の危機に瀕したという。


「次の合同遠征は来週に迫っている。だが、このままでは遠征どころか、駐屯地から一歩も出撃できん」


重苦しい沈黙が工房を支配した。フェルが腕を組み、困ったように唸り声をあげる。


「うーん……神経を落ち着かせる睡眠薬草なら、いくつか心当たりはありますけど……」

「使えんのか?」

「野営地じゃ使えませんよ、ルイーナさん。普通の強い睡眠薬は、飲んだら泥のように眠り込んで、敵の夜襲があっても起きられなくなります。それに、翌朝まで頭の芯に重い霧が残って、魔法の詠唱も剣の振りも鈍っちゃいますから」


フェルの指摘に、ルイーナは悔しそうに拳を握り締めた。


戦場における睡眠は、単なる休息ではない。敵の奇襲を察知できるだけの最低限の警戒意識を残しつつ、脳の芯と精神回路だけを短時間で深く沈める――そんな神業のような回復手段など、この世のどこにも存在しなかった。


だが、作業机に座るリョウの瞳には、全く別の光が宿っていた。


(……これだ)


リョウは無意識のうちに、羊皮紙の余白に数字を走らせていた。


前世でも全く同じ光景があった。過酷な現場でエナジードリンクが売れれば売れるほど、その裏で深刻な睡眠負債が蓄積し、やがて快眠サプリや安眠アロマ、リカバリーウェアといった「夜の市場」が爆発的な成長を遂げたのだ。


昼の覚醒を売ったからこそ、夜の回復という巨大なボトルネックが現場に顕在化した。この二つは、コインの表と裏だ。


(昼に覚醒させ、夜に急速冷却する。このサイクルを完成させれば、遠征補給のインフラを完全に牛耳れる)


リョウは羽ペンを置き、ルイーナを真っ直ぐに見据えた。


「要するに、五感の警戒能力は殺さず、脳の芯と魔力回路だけを強制的に深い眠りへ沈めればいいんだな?」

「……口で言うのは容易いが、そんな都合のいいものが作れるのか?」

「作れなければ商売にならない。フェル、薬草の薫煙で魔力回路を直接冷却する術式は組めるか?」


不意に話を振られたフェルは、目を白黒させて両手を激しく振った。


「む、無理ですよリョウさん! 薬草を調合して煙を燻すくらいならできますけど、魔導士の魔力回路そのものに干渉して波長を整えるなんて、一級の専門技術です! 私みたいな街の薬剤師の手には負えません!」

「そうか。お前の手に負えないなら、専門家を連れてくるまでだ」


リョウは立ち上がり、上着を羽織った。


「フェル。この街で一番、魔力の波長や精神回路の制御に詳しい者はどこにいる?」


昼の熱気を制した商人の視線は、すでに遠征の兵たちを苛む「昏い夜」の奥底へと向けられていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。