第24話 転んでもタダでは起きない商人脳
夕日が工房の窓を茜色に染める頃、リョウの身体からようやく異様な熱気が引き始めていた。
午前五時から、およそ十二時間。脈拍は平常に落ち着き、眼球の奥を突き刺していた激しい覚醒感も、穏やかな疲労感へと収束しつつある。
リョウは深く息を吐き、手元の羊皮紙を見つめた。
そこには、この十二時間の経過が分刻みで冷徹に記録されていた。
『午前五時、過剰覚醒状態へ移行』
『午前五時〜午前七時、肉体労働(床磨き・棚卸し)。心肺機能の拡張、息切れなし』
『午前七時〜午後三時、帳簿計算および書類整理。集中力の途切れなし、計算ミス皆無』
『午後三時〜午後五時、血流の緩やかな安定化。虚脱感なし、頭痛なし、急激な反動の兆候なし』
『特記事項:下腹部寸法の変化、ゼロ』
リョウは羽ペンを置き、眉間を軽く揉んだ。
男の悲願としては、完全なる大失敗だ。銀貨十枚という大金を投じ、ルイーナに長剣を抜かれかけ、カーナに露骨にドン引きされた挙句、得られた寸法の成果はゼロミリ。
普通なら机に突っ伏して泣いてもいい損失だった。
だが、リョウの目は死んでいなかった。前世で社員を抱え、荒波を乗り越えてきた実業家の嗅覚が、手元のメモに記された「数字と事実」に猛烈に反応していた。
(……十二時間だぞ)
睡眠時間はわずか二時間足らず。それにもかかわらず、半日以上にわたって超人的な集中力と作業効率を維持し続けた。
しかも、劇薬にありがちな心臓の動悸や、効果が切れた後の激しい虚脱感、頭痛などの「反動」が極めて少ない。下腹部に集中させようとした血流の熱気が全身に分散した結果、異常に質の高い「持続力」だけが身体を支配していたのだ。
前世の記憶が、鮮明に脳裏をよぎる。
深夜のオフィス、締め切り直前の現場、終電を逃したタクシー乗り場。自動販売機やコンビニの棚に必ず並んでいた、あの銀色や黒色の缶飲料。
エナジードリンク――疲労を一時的に麻痺させ、集中力を前借りするための巨大な市場。
(この街にも、同じ人間が山ほどいる)
迷宮の夜間警戒で絶対に目を離せない冒険者や護衛。注文に追われ、夜を徹して炉の前で金敷を叩き続ける鍛冶職人。夜露の降りる街道を、荷馬車を止めることなく走り続ける運送の運び手。
彼らにとって、作業中の眠気や疲労による手元の狂いは、そのまま納期遅れや怪我、最悪の場合は死に直結する。
下腹部のデカさを求めて銀貨十枚を即金で払う酔狂な男は、この街にはリョウ一人しかいないかもしれない。だが、今日の仕事を乗り切るための「持続力」になら、日々の稼ぎから銅貨を喜んで差し出す現場の人間は無数に存在する。
「……フェル」
「ひゃいっ!?」
薬草棚の足元で乾燥ハーブの選別をしていたフェルが、肩を跳ねさせて振り返った。まだ朝のトラウマが消えていないのか、リョウの目元を恐る恐る窺っている。
「な、なんですか、リョウさん……。もう目は血走ってないみたいですけど……」
「落ち着いた。それより、再調合だ」
「えっ……まさか、またあれを飲む気ですか!? もう止めてください! 今朝のルイーナさんの殺気、本気で工房ごと両断されるかと思ったんですから!」
「飲むわけがないだろ。あれは失敗作だ」
リョウは首を横に振った。フェルはほっと胸を撫で下ろしたが、リョウの次の言葉に再び目を丸くした。
「失敗作だが、製品としては化ける。配合を全面的に見直すぞ」
「はい……? 製品って……あの薬を売るんですか!? あんな、飲むと狂戦士みたいになる劇薬を!?」
「そのまま売るわけがない。あの薬のボトルネックは二つだ。第一に、下腹部への無駄な血流集中。第二に、舌が痺れるような泥と唐辛子の刺激臭だ」
リョウは羊皮紙の裏面に、素早く新たな配合の設計図を書き殴った。
「竜根草の根皮の比率を三分の一まで落とせ。下腹部を無理に刺激する成分を極限まで削るんだ。その代わり、全身の毛細血管を広げて集中力と活力を維持させる作用だけを残す」
「え、あ……でも、それじゃリョウさんの本来の『目的』は……」
「いいんだ」
リョウは感情を一切交えない、ビジネスマンの冷徹な顔で言い切った。
「男の尊厳は後回しだ。まずは投じた銀貨十枚の研究費を回収する」
「商魂たくましすぎませんか……?」
フェルは若干引き気味に呟いたが、リョウは構わず計算を続けた。
「高価な竜根草の使用量を削れば、一本当たりの原料原価は一気に下がる。基材には精製スライム核油の乳化液を使い、苦味を消すために柑橘の絞り汁と、わずかな砂糖を加える。容量は一気飲みできる手のひらサイズの小瓶だ」
「味を調えるのは賛成ですけど……どれくらいの価格で売る気なんですか?」
「一本、銅貨八枚だ」
フェルが目を見開いた。
「銅貨八枚……!? 浄水ドロップの銀貨四枚に比べたら、信じられないくらい安いですけど……」
「ターゲットが違う。浄水ドロップは裕福な冒険者や商隊が一度にまとめ買いする高付加価値商品だ。だが、今回の『気力回復シロップ』は現場の労働者が相手だ。日雇いの肉体労働者や職人の弟子が、昨夜の酒が残っている朝や、これから深夜残業に入る夕方に、ポケットの銅貨で迷わず買える価格でなければならない」
リョウは羽ペンの尻で机をとんとんと叩いた。
「原料原価は一本当たり銅貨三枚に抑えろ。容器代を含めても粗利は五枚残る。八十本売れば粗利は銅貨四百枚――銀貨二十枚分だ。そこから投じた研究費の銀貨十枚を引いても、手元に銀貨十枚の純利益が残る」
淀みなく弾き出された損益分岐点の計算に、フェルは呆気にとられたように口を半開きにしていた。だが、その表情は次第に薬剤師としての知的好奇心へと塗り替えられていく。
「下腹部への刺激を抑えて、柑橘果汁で乳化を安定させる……。確かにそれなら、胃への負担も減らせます。柑橘の酸味と砂糖の甘味をうまく合わせれば、疲れた頭にガツンと効く飲み口にできるかもしれません」
「よし、頼んだぞ。まずは三本、試飲用のサンプルを作ってくれ」
「わかりました。……でもリョウさん、本当にいいんですか? あの袋の研究費、ずっと大事に貯めてたのに」
フェルの問いかけに、リョウは静かに帳簿を閉じた。
「金は使わなければただの金属片だ。失敗から次の種を拾い上げるのが商売人だろ」
立ち上がり、棚の奥へ向かうフェルの背中を見送りながら、リョウは心の中で小さく付け足した。
(――回収した銀貨二十枚で、次はもっと強力な配合を試してやるからな)
男のプライドを呑み込んだ羊皮紙の上で、失われた銀貨十枚を奪還するための試算が整然と並び直された。




