第23話 過剰な活力と、周囲の警戒
夜明け前の階段を、リョウは二段飛ばしで駆け下りていた。
午前五時を少し回ったばかりの工房は、しんと静まり返っている。昨夜の就寝は午前三時過ぎ。二時間ほどしか眠っていないはずだった。
それなのに、足が地面を踏みしめるたびに、ばね仕掛けの人形のように弾むような反発力が返ってくる。関節に軋みはなく、視界は異常なほどクリアだった。
薄暗い土間の隅に転がる木箱の木目まで、くっきりと網膜に焼き付いてくる。
「……身体が、余ってるな」
呟いた息が妙に熱い。
全身の血流が激流のように駆け巡り、心臓が普段の倍の力強さで脈打っている。じっと突っ立っているだけで、皮膚の表面からじわじわと熱気が立ち上り、何かを動かしていないと筋肉が内側から破裂しそうな圧迫感があった。
下腹部の寸法は、目覚めたあの日以来、一ミリも変化していない。あの絶望的な「半分」のままだ。
だが、その代償のように、下半身以外の全身が異常な過剰覚醒に突入していた。
リョウは腕まくりをすると、棚から雑巾とバケツを引っ張り出した。井戸から汲んできた冷水をバケツに満たし、雑巾を浸す。冷水に触れた瞬間、両手のひらがジュッと音を立てそうな錯覚すら覚えた。
(動くしかない。このエネルギーを放出しなければ爆発する)
リョウは工房の石床に跪き、猛烈な勢いで雑巾がけを始めた。
腕を前後に往復させる速度が、普段の三倍近い。床石の継ぎ目に溜まったわずかな砂埃まで削り取るように磨き上げる。
端から端まで一気に拭き上げ、バケツの水を二度替え、作業台の脚から棚の下まで徹底的に拭き清めた。
普段なら半日かけてやる大掃除を、わずか三十分で終えていた。額から汗が噴き出しているが、息切れは全くない。肺活量が拡張されたかのように、呼吸が深く、楽だった。
「次だ」
リョウは息つく間もなく、奥の保管棚に向かった。
浄水ドロップの原料である乾燥薬草の束、木炭粉末の袋、空のガラス瓶。二十キロ近くある原料の麻袋を、まるで羽毛布団でも扱うかのように軽々と両手で持ち上げ、中身の重さを手早く測る。
瓶の個数を数え、割れや欠けがないかを検品し、規格ごとに棚へ整列させた。棚卸しの作業票に数値を書き込む手の動きすら、目にも留まらぬ速さだった。
「よし、次は帳簿だ」
作業机に腰を下ろし、分厚い元帳を開く。
銀貨十枚を投じた『研究費』の出納記録、今週納品予定の浄水ドロップの原価内訳、空き瓶の回収率、モルツの薬草問屋に対する売掛金。普段なら電卓のない手計算に頭を抱え、眉間を揉みながら慎重に進める複式簿記の計算が、信じられないほど淀みなく頭に浮かんだ。
数字が立体的に組み上がり、利益率と在庫回転日数が瞬時に弾き出される。羽ペンをインク壺に突っ込み、羊皮紙の上を走らせた。
カリカリカリカリ、と猛烈な速度でペン先が紙を刻む。
午前七時。階上からパタパタと足音が響き、工房へ続く扉がゆっくりと開いた。
「ふわぁ……。おはようございます、リョウさん。今朝はずいぶん早起きですね、何か物音が――」
寝ぼけ眼をこすりながら階段を降りてきたフェルが、工房の中央でピタリと動きを止めた。
磨き上げられて鏡のように光る石床。寸分の狂いもなく整然と並べられた棚の原料袋。そして、猛烈な勢いでペンを走らせているリョウの背中。
「……え?」
フェルが瞬きを繰り返した。
異変を察知したリョウは、羽ペンを走らせたまま、首だけをぐりん、と振り返った。
「おはよう、フェル。起きたか」
「ひっ……!?」
フェルが小さな悲鳴を上げて二歩後ずさり、階段の段差に足をとられて尻餅をついた。リョウの顔を見たからだった。
眼球の白目全体に真っ赤な毛細血管が網の目のように浮き上がり、瞳孔は極限まで見開かれ、爛々と異様な光を放っている。頬は高潮し、鼻から吐き出される息は目に見えそうなほど熱気を帯びていた。
「リ、リョウさん……!? その目、どうしたんですか!? 悪霊にでも憑かれたんですか!?」
「失礼なことを言うな。絶好調だ。睡眠時間二時間とは思えないほど頭が冴え渡っている。工房の床磨きと棚卸しは終わらせておいたぞ」
「に、二時間……!? 床磨きって、これ、半日仕事ですよ!?」
フェルは床に手をついたまま、ガタガタと震える指先でリョウを指差した。そして、恐る恐る、何かに思い当たったように顔色を変えた。
「ま、まさか……昨日の、試作一号薬を……?」
「ああ。夜中に飲んだ」
「の、飲んだんですか!? あれ、まだ動物実験もしてないのに! それで……その、効き目は……?」
フェルの視線が、おずおずとリョウの下腹部付近へと落ちた。リョウはペンを置き、作業机の肘掛けを強く握り締めた。
「一ミリも動いていない」
「えっ」
「言っておくが、完全にゼロだ。変化なしだ」
「な、なのに……なんでそんな、今すぐ城門を素手で殴り壊しそうな感じになっているんですか……!?」
「俺が聞きたい」
リョウが苦々しく吐き捨てた、その時だった。
カラン、と工房の扉のベルが鳴った。朝の澄んだ空気を裂いて、引き締まった足音が土間に響く。
「おい、リョウ。非番だから例の小瓶の補充に――」
入ってきたのは、私服に革の胸当てを着けたルイーナだった。
だが、ルイーナは言葉を途中で呑み込んだ。青い瞳が鋭く細まり、次の瞬間、ガシャリと重い金属音が鳴り響いた。
ルイーナの右手が、完全に無意識の動作で腰の長剣の柄へと伸び、鞘から刀身を三寸ほど抜いていた。土間に、ピリピリとした殺気が張り詰める。
「……ルイーナ?」
「動くな」
ルイーナは低く唸るような声で制止した。その切っ先はリョウに向けられていないが、重心を低く落とし、いつでも踏み込める完璧な迎撃の姿勢をとっている。
「貴様、命を狙われているのか?」
「……は?」
「誤魔化すな。その全身の緊張感、呼吸の尋常ならざる深さ、血走った眼球……。歴戦の狂戦士が、死線を十度くぐり抜けた直後の気配だぞ。誰に襲われた? 刺客はどこだ?」
「襲われてなどいない。ただ帳簿をつけていただけだ」
「嘘をつけ! 帳簿をつけているだけの商人が、なぜ熊を素手で引き裂けそうな殺気を放っている!」
ルイーナの青い瞳は本気だった。本物の戦士だからこそ、過剰覚醒したリョウの身体から漏れ出る異常な出力の波動を、致死的な戦闘態勢と誤認していた。
「本当なんです、ルイーナさん! この人、怪しい薬を飲んでおかしくなってるだけなんです!」
フェルが慌てて割って入り、両手を広げてルイーナを宥める。
ルイーナは訝しげに眉をひそめ、リョウの顔と、ピカピカの石床と、積み上がった帳簿を三度見比べた後、ようやくゆっくりと剣を鞘に納めた。
「……薬だと? なぜそんな危険な劇薬を煽った」
「個人的な研究だ」
「何の研究だ」
「男の尊厳に関する研究だ」
「…………」
ルイーナは心底わけがわからないという顔で、冷ややかな沈黙を返した。
そこへ、ガラリと勢いよく扉が開く。
「よお! 頼まれてた浄水ドロップの追加容器、十本叩いて持ってきてやった――」
革のエプロンをつけたカーナが、金属筒の詰まった麻袋を担いで大股で入ってきた。だが、土間の異様な空気を感じ取ったのか、カーナの足がピタリと止まった。
工房の隅で怯えるフェル。柄に手を置いたまま警戒を解かないルイーナ。そして、机の前で血走った目を爛々と輝かせているリョウ。
カーナは担いでいた麻袋をゆっくりと下ろし、露骨に半歩後ずさった。
「……おい商人。なんだその顔。真っ赤だぞ」
「問題ない。作業効率が通常の三倍に達している」
「いや問題大ありだろ! こっち見んな、目が完全にヤバい奴のそれだ! おい、いきなりぶっ倒れて工賃を踏み倒すつもりじゃないだろうな!?」
「工賃ならとっくに銀貨四枚と銅貨十二枚、釣り銭なしでここに用意してある」
リョウが机の端に整然と積まれた硬貨を指差すと、カーナは引き攣った笑いを浮かべた。
「引くわ! なんでそんなに前のめりなんだよ!」
工房の中に、三者三様の警戒と困惑の視線が突き刺さる。腰を抜かした薬剤師、迎撃態勢の女騎士、ドン引きする鍛冶職人。
その中心で、リョウは腹の底から湧き上がる熱気を持て余しながら、心の中で血の涙を流していた。
(違う!)
(俺はただ、前世で誇りに思っていたあのサイズを取り戻したかっただけだ!)
(なぜ男の純粋で切実な祈りが、狂戦士の覚醒劇にすり替わっているんだ……!)
だが、内なる絶叫を外に出すわけにはいかない。
リョウは再び羽ペンを握り直すと、冷めやらぬ体内の激流を無理やりペン先へと流し込み、猛烈な勢いで羊皮紙の上を滑らせ始めた。
空回る男の悲願とは裏腹に、羽ペンは恐るべき速度で帳簿の余白を埋め尽くしていった。




