第21話 男の悲願と、怪しい発注
夜、二階の自室で、リョウは机の上に革袋の中身をぶちまけた。
カチャカチャと鈍い金属音が重なり、木板の上に銀貨の山ができる。指先で五枚ずつ束にして並べていく。六束と、端数が四枚。合計三十四枚。
浄水ドロップの初期ロットが完売し、追加の注文分からも手付金が順調に入ってきている。仕入れ代とカーナへの加工工賃、それにフェルとの折半利益を差し引いても、工房の運転資金は半年先まで盤石だった。当面の破綻リスクは完全に消えたと言っていい。
リョウは銀貨の束を一つ手に取り、親指でその厚みを撫でた。
三十歳の元青年実業家。不慮の事故で呆気なく死んで、目覚めたらこの異世界だった。神も女神も謝罪担当も現れず、仕様書もなしに、なぜか一番大事な部分だけをきっちり半分にされていた。
身長や手足ならまだ諦めもついた。だが、あそこだけは別だ。
薄い布地の上から下腹部に手を当てると、情けないほど慎ましい質量が掌に触れる。前世の堂々たる威容を知っているだけに、この縮小ぶりは毎朝鏡を見るたびに魂を削ってきた。
商売でいくら利益を出そうが、どれほど周囲から感謝されようが、根本の欠落は埋まらない。何のためにこれまで泥水をすすり、インソールを売り、他人の頭皮の油を落としてきたのか。
この日のためだ。
「……そろそろ動くか」
リョウは銀貨の束を十枚分、別の小さな革袋へ移し替えた。
翌朝、階下の工房へ降りると、フェルがすでに作業台に向かっていた。
朝の澄んだ光の中、乳鉢に薬草の葉を入れ、すりこぎをリズミカルに回している。調合台の上には、次のロットに使う精製水とアルコールの小瓶が整然と並んでいた。
リョウは足音を忍ばせて近づき、作業台の縁に手をついた。
「フェル」
「はい、おはようございます。浄水ドロップの追加液、もうすぐ前処理が終わりますよ」
「いや、仕事の話じゃない。……極秘の相談だ」
声を一段落とすと、フェルがすりこぎを止めた。長い耳がぴくりと跳ね、不思議そうにリョウを見上げる。
「極秘、ですか? 新しい取引先ですか?」
「違う。……局所的な血流を極限まで活性化させて、細胞組織を急速に増大させる薬を作ってほしい」
工房の中に、奇妙な沈黙が落ちた。
フェルはすりこぎを握ったまま、数秒間、瞬きもせずにリョウを見つめていた。やがて、その緑色の瞳がすうっと細まり、じとっとした半目に変わっていく。
「……リョウさん」
「何だ」
「誰に頼まれたんですか?」
「前世の知人だ」
リョウは眉一つ動かさず、商談用の完璧な真顔を保った。
「生前、そういう深刻なコンプレックスを抱えて死んだ哀れな男がいてな。いつか同じ悩みを抱える王都の富裕層に高く売りつけるための、先行技術開発だ」
「知人、ですか」
「そうだ。俺自身の話ではない。市場調査の一環だ」
「ふーん……」
フェルは腕を組んで深く息を吐いた。
「局所って、どこですか」
「……下腹部だ」
「具体的には」
「男の、一番大事な部位だ」
「……」
フェルは深い深いため息をつき、すりこぎを作業台へコトッと置いた。
「朝から何を真面目な顔で言い出すかと思えば……。そんな都合のいい薬、普通の薬草学にはありませんよ」
「お前の親父さんが残した本に、何か載ってないのか」
リョウが食い下がると、フェルは渋々といった様子で調合台の下の木箱を引き出した。
埃を被った分厚い革表紙の書物を引っ張り出し、パラパラと指先で黄ばんだ頁をめくっていく。古式錬金術の配合録だ。亡くなったフェルの父親が、生前に雑多な調合を書き留めていたノートだった。
「……あ、ありました」
ある頁でフェルの指が止まった。
「本当にあるのか?」
「ありますけど……かなり古いやつですね。『竜根草』の乾燥根を核にして、スライムの核油で浸透圧を高めた滋養強壮薬です。血流を無理やり集めて組織を膨張させるレシピらしいですけど」
「作れるか」
「作れますけど、おすすめはしませんよ。竜根草なんて、裏通りの怪しい素材屋でしか手に入りません。しかも貴重品だから、一回分の試作だけでも銀貨十枚は吹っ飛びます」
フェルは「諦めてください」と言わんばかりにリョウの顔を見た。
普段のリョウなら、費用対効果の合わない出費には絶対に首を縦に振らない。銅貨一枚の仕入れ値にすら目を光らせる男だ。銀貨十枚など、簡単に吐き出すはずがない。
そう高をくくっていたフェルの目の前に、コトリと小さな革袋が置かれた。紐が解かれ、中からずっしりとした銀貨が十枚、作業台の上に滑り出る。
「……え?」
フェルの目が丸くなった。
「これで今すぐ買ってきてくれ。余った分はお前の小遣いにしていい」
「リョウさん、本気ですか!? 銀貨十枚ですよ!? 何ヶ月分の生活費だと思ってるんですか!」
「本気だ。これは投資だ」
リョウは微塵も揺るがない目で銀貨を指先で押し出した。
銀貨十枚の出費は確かに胃が痛む。だが、男の尊厳を取り戻せるなら、銀貨十枚など端金に等しい。万が一失敗したとしても、劇薬の配合データと反応限界が記録に残る。
金を出して手に入らないのは諦めだけで、データと経験値は必ず次に生きる。何より、やらずに後悔するくらいなら、試して砕け散った方がマシだった。
「フェル。今日中に仕入れて、調合してくれ」
「……本当に、知らないですからね」
フェルは銀貨を袋に戻すと、ため息混じりに上着を羽織った。
「変な副作用が出ても、私は責任取りませんから」
「構わん。全部俺の責任だ」
工房の扉が閉まり、フェルの足音が通りへと遠ざかっていく。
リョウは静まり返った作業台に一人残り、机の上の帳簿を開いた。出納帳の備考欄に、震える手で『研究開発費:銀貨十枚』と書き込み、パタンと音を立てて帳簿を閉じた。
もはや引き返す道はなかった。




