第19話 川の水は嘘をつく
工房の扉が開き、革と鉄と乾いた泥の匂いが流れ込んできた。
入ってきたのは、北の演習地から戻ったばかりのルイーナだった。胸当てには跳ね上がった泥が乾いてこびりつき、肩口の革帯は鎧の重みで深く沈んでいる。
「戻ったぞ」
「お疲れさまです。早かったですね」
作業台で乾燥生薬の計量をしていたフェルが顔を上げた。
ルイーナは無言で腰の革帯から真鍮の容器を外し、作業台の上へことりと置いた。その横に、演習地から持ち帰った革張りの平底水筒が二本並べられる。
「試験の結果だ。結論から言うと、井戸水と森の湧き水では問題なく使えた。一分ほどで底に綺麗な澱が沈み、上澄みを飲んでも腹を下す者はいなかった」
「湧き水でも効きましたか」
「ああ。だが――」
ルイーナの目つきが一段低くなった。
「川の水で、一箇所だけおかしなことが起きた」
ルイーナは水筒の栓を抜き、作業台の空きビーカーへ中の水を注いだ。
流れ出た水は、一見すると無色透明に見えた。濁りもなく、異臭もしない。普通に歩いている人間なら、何の疑いもなく柄杓で掬って口に運ぶような水だ。
「二日目の午後、川の下流域で補給した水だ。試しにドロップを一滴落とした」
「沈殿は起きなかったんですか?」
フェルが身を乗り出すと、ルイーナは首を横に振った。
「沈殿は起きた。だが、底に固まらなかった。白く濁った細かいもやのようなものが、水全体を漂ったまま沈みきらなかった」
「それで、どうした?」
リョウが尋ねると、ルイーナは淡々と現場の状況を語り始めた。
「十里を行軍した直後で、部下たちは喉が渇ききっていた。若い兵の一人が『隊長、透明に見えます。もう飲んでもいいでしょう』と水筒に口をつけようとした」
「……飲ませたのか?」
「手首を叩き落として止めた」
ルイーナは水筒の木栓を指先で弾いた。
「沈殿の様子がおかしかったからな。お前たちが言った『正常に底に溜まる』という状態とは明らかに違っていた。念のためその川の水はすべて捨てさせ、手持ちの予備水で凌がせた」
ルイーナはビーカーの水を指差し、言葉を継いだ。
「帰投後、その川の上流に立ち寄った輸送隊から話を聞いた。上流の岩山で、鉱石を掘り出して洗っている採掘場があったそうだ」
工房の中が、しんと静まり返った。
フェルが小皿にビーカーの水を少量取り、試薬を一滴落とした。数秒後、透明だった水が青黒く変色し、ツンとした刺激臭が立ち上る。
「……鉱物由来の成分です。銅か鉛の鉱毒が微量に溶け出しています」
フェルは青ざめた顔でビーカーを見つめた。
「ドロップは泥や落ち葉の腐敗物、雑菌を凝集させて沈める設計です。完全に水に溶け切った鉱毒や重金属の成分までは取り除けません」
リョウは何も言わず、自分の手のひらを見つめた。じっとりと、冷たい汗が指の隙間に滲み出ていた。
もし、ルイーナが手首を掴んで止めていなければ。もし、普通の冒険者が「薬を入れたからもう安全だ」と思い込んで一気に煽っていたら。
若い兵士は激しい腹痛で倒れ、下手をすれば命を落としていた。そして自分たちは、「水質改善ドロップ」と銘打った商品を店頭に並べ、最初の事故で衛兵隊に踏み込まれ、営業停止と損害賠償で完全に終わっていたはずだ。
(……死人が出るところだった)
背筋を滑り落ちる悪寒を、リョウは息を吐き出すことで無理やり押し殺した。机の上でいくら配合をこねくり回しても、鉱山の上流で鉱石が洗われている現場の事情など分かるはずがない。
「……ルイーナさん」
「何だ」
「あんたに頼んで本当によかった」
「私は規律通りに確認しただけだ。現場の兵は疲れると判断力が鈍る。だからこそ、道具の側で迷わせない工夫が要る」
ルイーナの言葉に、リョウは思考を切り替えた。恐怖を引きずっても利益は出ない。大事なのは、この事故未遂を二度と起こさない仕組みを作ることだ。
「フェル、客が迷わない基準を作れるか」
「はい」
フェルはビーカーから視線を上げ、真剣な面持ちで頷いた。
「ドロップが正常に働いている場合、澱は必ず底に平らな膜となって固まります。水筒を軽く傾けても舞い上がりません。逆に、今回のように全体が白く濁ったまま沈まない場合や、色が変わったり、異臭が残る場合は、薬が効いていない証拠です」
「よし。じゃあ、長い注意書きに頼るのはやめよう」
リョウは作業台の端にあった羊皮紙を引き寄せた。
「過酷な遠征で疲れてる奴は、小さな文字の能書きなんて読まない。文字が読めない冒険者だって大勢いる。カーナのところへ行って、真鍮の容器の側面に記号を刻んでもらう」
「記号、ですか?」
「○と×だ。○の横には『底に固まれば飲める』という絵文字。×の横には『もやが残ったら捨てる』という絵文字だ。それから、鉱山や採掘場の近くの川には使えないと販売時に口頭で徹底する。正常沈殿なら飲む、異常沈殿なら捨てる。客の判断をその二択だけに絞る」
「分かりやすいですね。それなら現場でも迷いません」
フェルがほっと胸を撫で下ろした。
「私の役目はこれで終わりだな」
ルイーナが空の水筒をまとめ、革帯を締め直して立ち上がった。
「待ってくれ」
リョウは小銭入れに手を伸ばしかけたが、途中で指を止め、作業台の下の棚へ手を伸ばした。銀貨を払うと口にすれば、生真面目なこの女騎士は十中八九拒否する。
「これを持っていってくれ」
リョウが差し出したのは、陶器の小瓶だった。
「何だ」
ルイーナが警戒するように眉をひそめた。
「在庫整理だ」
「……清髪粉ではないか」
ルイーナの視線が小瓶に落ちた。数秒の沈黙のあと、視線がリョウの顔へと戻る。
「棚の奥で余ってた。砂、被ってるだろ」
「…………」
ルイーナは小瓶を見つめたまま動かなかったが、やがて小さく息を吐いた。
「……もらっておく」
小瓶を受け取り、革袋の奥へ滑り込ませると、ルイーナは踵を返して工房の扉を開けた。
「次の遠征が決まったら、また寄る」
「ああ。気をつけてな」
扉が閉まり、静寂が戻った。
その瞬間、調合台の奥で乳棒を動かしていたフェルの手が、ピタリと止まった。フェルは粉末を擦る手を止め、じっとリョウを見ていた。それだけだった。
だがリョウは、その視線にまったく気づいていなかった。帳簿を開き、ペンを走らせながら、心の中で電卓を弾いていた。
(……よし。試験費として銀貨を払うところを、清髪粉の現物支給で済ませられた。粉の原価は銅貨四枚だ。粗利を削らずに、現場の最高の手応えを手に入れられたな)
リョウは小さく息を吐き、帳簿の数字を指先でなぞった。
作業台の上には、青黒く変色した鉱毒の水が残されていた。怖かったのは事実だ。背中の冷や汗はまだ乾ききっていない。
だが、客が死ぬ前に穴は見つかった。防ぐためのルールも、刻印の仕様も決まった。
リョウは帳簿の余白に、『沈殿確認の図記号刻印:カーナへ発注』と力強く書き留めた。




