第18話 三人分の仕事
作業台の上には、濁り方の違う三本のガラス瓶が置かれたままだった。
一番左の井戸水は澄んでいるが、真ん中の小川の水には薄い濁りが残り、右端の水たまりの水は試薬を垂らしても沈殿が始まらない。
「工房の中にはいない、か」
リョウは真ん中の瓶を指で弾いた。カツンと乾いた音がする。
「ええ。どれだけ調合の精度を上げても、現場で汲まれる水の種類までは再現できません。毒草の汁が混ざっているのか、泥の粒子が細かいのか、それとも生き物の死骸が上流にあるのか。机の上でいくら配合を変えても、これ以上は試薬の無駄遣いになります」
フェルはそう言って、乳鉢に残った琥珀色の粉末を刷毛で小さな壺へ集め始めた。貴重な試薬をミリグラム単位で惜しむ、職人らしい手つきだ。
「無駄遣いは困る。すでに銀貨三枚分は溶かしてるからな」
リョウは帳簿の余白にざっと数字を書き留めた。
「専門家に任せよう。俺は外を回ってくる。カーナのところと、ルイーナのところだ」
「カーナさんと……ルイーナ様ですか?」
「ああ。割れない容器を作れるやつと、外の泥水を毎日見てるやつだ。その二つが揃わないと売り物にならない」
フェルは手を止め、少し考え込むように視線を宙に泳がせたが、やがて頷いた。
「分かりました。私はその間に、原液の沈殿速度と濃度のブレを抑える作業を進めておきます。持ち運ぶとなると、振動で成分が分離しないかも確かめておかなければなりませんから」
「頼む。日没前には戻る」
日暮れを過ぎれば工房の油灯を焚くことになり、余計な油代がかかる。リョウは上着を羽織り、足早に工房を出た。
職人街へ足を踏み入れると、風に乗って炭の焦げる匂いと、規則正しい金属の打撃音が響いてきた。
通りに面した鍛冶工房の奥では、火床の赤い光が薄暗い土間を照らし出している。炉の熱気の中、小柄なドワーフの少女――カーナが、身の丈ほどもある金床に向かい、鉄槌を振り下ろしていた。
カン、カン、と耳の奥に刺さる高い音が響く。リョウは作業の邪魔にならないよう、入り口の柱に背を預けてその手元を見た。
小柄だが、槌を落とすたびに肩から腰へと綺麗に力が抜けている。無駄な力みが一切ないから、叩かれた鋼の厚みが正確に均一になっていく。
あの精度で金属を扱えるなら、小さな筒を削り出すような精密な加工も任せられるはずだ。最後の一撃を落とし、焼き入れの桶に鉄を突っ込むと、ジュッと白い蒸気が上がった。
「……何の用だ、商人」
カーナは煙の向こうから、革の前掛けで腕の油を拭いながらリョウを睨んできた。
「相変わらず無駄のない腕の振りだな。工賃が高そうな仕事だ」
「お世辞なら他所で言え。仕事の邪魔だ。冷やかしならさっさと帰れ」
「冷やかしで鍛冶屋の炉の前に来るほど暇じゃない。発注だ」
リョウが土間に上がると、カーナは槌を台に置き、腰に両手を当てて息を吐いた。
「発注? 研ぎ直す刃物でも持ってきたのか?」
「いや、容器を作ってほしい。金属製で、腰に下げられるくらい小さくて、絶対に中身が漏れないやつだ。それから――逆さに傾けた時、一滴ずつ正確に落とせる細工が要る」
「容器?」
カーナは露骨に怪訝な顔をした。
「薬入れか? 傷薬や気付け薬の類なら、ガラス瓶を革袋に入れるのが普通だろ。わざわざ金属で作る奴なんていねえよ。削り出しの手間もかかるし、材料代も跳ね上がる」
「ガラスじゃ割れるんだ。冒険者や騎士が荒れ地を走っても、岩にぶつかっても絶対に割れない強度が欲しい。それに、入れるのは水に入れる薬だ」
「水?」
その言葉に、カーナの眉がぴくりと動いた。
「水に混ぜる液を入れるのか。なら、話が変わってくるぞ」
「どう変わる?」
「中が錆びたらどうすんだよ」
カーナは作業台に転がっていた真鍮の棒材を指先で弾いた。
「ただの鉄で作ってみろ。水気のあるもんを入れたら、数日で中が赤錆だらけになって薬どころじゃなくなる。銅なら緑青が出る。錫を引くか、真鍮の表面を焼き締めるか……とにかく、中に入れる液体と金属の相性を考えねえと、容器のせいで中身が台無しになるぞ」
「そこまで考えてくれるなら助かる。じゃあまずは、一番無難な防錆で一本形にしてくれ。原液のサンプルは夕方に渡すから、そっちでじっくり浸けて腐食が出ないか確かめてほしい」
「当たり前だ。私が作る以上、変なもんは出さねえ」
カーナは腕組みをして、ふんと鼻を鳴らした。
「大体、水筒ってのは現場じゃ一番ぞんざいに扱われる道具なんだよ。遠征から帰ってきた冒険者が水筒の修理を持ち込んでくることがあるが、どいつもこいつも酷い有様だぞ。栓を開けた途端にドブみたいな悪臭が吹き出すやつや、底に正体不明のヘドロがびっしりこびりついてるやつばっかりだ。外で手に入る水なんて、誰も信用しちゃいねえ。だから余計に、変な薬を入れる容器なら頑丈で、中まで洗いやすい構造にしなきゃならん」
「現場の水筒事情、か。やっぱり聞いて正解だったな」
リョウの言葉に、カーナは少し照れくさそうに視線を逸らし、棚の引き出しから手のひらに収まるほどの真鍮の削り出し筒を取り出した。
「試作用に削り出した筒がある。口を細く絞って、ネジ式の蓋に革パッキンを噛ませりゃ、漏れは防げるだろ。液垂れしない注ぎ口は、内側に細い真鍮管を通せば空気穴と分かれて一滴ずつ落ちるはずだ」
カーナはその試作筒を手のひらに乗せ、親指で転がしながら言った。
「……何だ、小さすぎるって顔だな。だが腰から下げるんだろ。でかくしてどうすんだ。このくらいで十分だ」
「…………」
リョウの表情が、一瞬だけ止まった。わずかに眉が寄り、喉が上下する。
「……何だその顔は。文句でもあるのか」
「いや」
リョウは素早く表情を消し、手首を振った。
「いい話だなと思って」
「……意味が分からん」
カーナは眉根を寄せたが、深く突っ込む気もない様子で息を吐き捨てた。
「夕方までに一本、形にしてやるよ。フェルの工房に持っていけばいいんだな?」
「ああ。手間賃と材料費の概算も出しておいてくれ」
「言われなくても帳面に付けてあるよ」
職人街を抜け、リョウは街の中央にある白石造りの騎士団詰め所へと向かった。
門をくぐると、中庭では甲冑を着込んだ騎士たちが訓練を終えたところで、砂ぼこりと汗と馬の匂いが立ち込めている。
すれ違う兵たちの装備を見ると、革帯には泥が跳ね、鉄の胸当てには無数の細かい擦り傷が刻まれていた。遠征続きの部隊特有の、くたびれた空気が漂っている。
受付で名を告げてしばらく待つと、奥の兵舎からルイーナが歩み出てきた。
銀の胸当てには整備油の匂いが残り、腰に佩いた長剣の鞘には遠征でついた当て傷がある。感情の読みにくい静かな碧眼が、リョウを捉えた。
「リョウか。何の用だ? 装備の清掃粉なら、まだ前回の分が残っているが」
「仕事の依頼だ。ルイーナさんにしか頼めない話があってな」
ルイーナはわずかに眉を寄せた。
「私にか? 商人からの個人的な護衛依頼なら、詰所の窓口を通して――」
「護衛じゃない。現場の試験だ」
リョウは声を潜め、中庭の隅にある馬止めの柵へルイーナを促した。
「今、フェルと新しい商品を試作している。水質を改善するドロップだ。泥や不純物の混ざった水に一滴垂らすと、澱を底に沈めて上澄みを飲めるようにする」
「……水の浄化だと?」
ルイーナの声がわずかに低くなった。戦場と遠征の現実を知る者の反応だ。
「魔導士の浄化魔法ではないのか。携帯できる薬品でそれが可能なのか」
「試作段階だが、井戸水や小川の水なら澄むところまで確認した。だが――安全かどうかが工房の中では分からない」
「分からない?」
「井戸の水は澄んだ。だが、泥の濃い水では濁りが残ったし、落ち葉の沈んだ水たまりではほとんど反応しなかった。俺にもフェルにも、遠征先の川や沼の水がどんな成分を含んでいるのか分からないんだ。どこまでなら効いて、どこから先は飲んじゃいけないのかの境界線が作れない」
ルイーナは胸の前で腕を組み、手甲の指先で肘を軽く叩いた。
「なるほど。商品の試験係をしてほしい、ということか」
「試験というか、現場で何が起きるかを見る係だ」
リョウは言葉を正確に選んだ。
「俺たちが遠征についていくわけにはいかない。だが、あんたなら遠征先の過酷な環境で、兵がどんな水を飲んで、どんな水で腹を壊しているかをよく知っているはずだ。実際に遠征で使う水で試して、何が起きたか、どこに不安を感じたかを、あんたの目で見てきてほしい」
ルイーナは視線を落とし、数秒の間を置いた。中庭を吹き抜ける風が、彼女の磨かれた胸当てをかすめていく。
「……分かった。来週、北の演習地への小遠征がある。三日間の行軍だ。川の水も、湧き水も、天候によっては泥水も使うことになるだろう」
「引き受けてくれるか」
「ただし」
ルイーナは冷ややかな眼光でリョウを見据えた。
「私はお前の商売の都合で嘘は吐かんぞ。効かない水があった場合、あるいは体に少しでも異変を感じた場合は、一言一句そのまま報告する。それがお前の商品の価値を落とす結果になったとしてもだ」
「それが一番助かる」
リョウは即座に返した。
「嘘の『効きました』が一番困るんだ。中途半端なものを売って遠征先の兵が腹を下したら、営業停止どころか信用が消し飛ぶ。正直なダメ出しこそが欲しい」
ルイーナはリョウの顔を値踏みするように見つめ、小さく息を吐いた。
「……相変わらず、変な商人だな。普通は都合のいい報告だけを欲しがるものだが」
「商売を長く続けたいからな。夕方にフェルの工房で容器と薬を合わせる段取りになっている。詰所の務めが終わったら工房へ寄ってくれないか」
「承知した。日没前には向かう」
日没が近づき、フェルの工房の中は油灯をつける前の薄暗い光に包まれていた。
灯油を節約するため、作業台の上にまだ火は入っていない。台の上には、フェルが午後の時間をかけて精製した琥珀色の原液が、目盛りの刻まれたガラス瓶に収められている。
「おい、持ってきたぞ」
扉を開けて入ってきたカーナが、布に包んだ細長い金属筒を作業台の上にことりと置いた。
真鍮を削り出した筒は手のひらに収まるサイズで、上部にはベルト通しの金具が付けられている。磨き傷一つない丁寧な仕上げだ。
「これが試作品ですか」
フェルが手袋をはめた手でそっと持ち上げた。
「内側はどうなっていますか?」
「錫引きだ。液体の酸でもアルカリでも反応しねえように、内壁に薄く錫を焼き付けてある。蓋の内側には油で締めた革の輪を噛ませたから、どれだけ振っても漏れねえ。注ぎ口はこれだ」
カーナがネジ式の蓋を外して見せた。極細の真鍮管が突き出しており、脇には針の先ほどの微細な空気孔が開いている。
「傾けるだけじゃ出ねえ。軽く胴を押すか、下に一回振ることで、一滴だけ正確に落ちる。どうだ」
「素晴らしいです。ガラス管を持ち歩くわけにはいきませんから、この構造なら外でも分量を間違えません」
フェルが感嘆の息を漏らすと、カーナは胸を張り、少し得意げに顎を上げた。
「邪魔するぞ」
そこへ、詰所の務めを終えたルイーナが、胸当てを外した軽装のまま入ってきた。
「ルイーナさん、ちょうどいいところに来てくれた」
リョウが手招きすると、ルイーナは作業台の前まで歩み寄り、カーナが作ったばかりの金属容器に目を留めた。
「これがその容器か。随分と小さく、頑丈そうだな」
「ちょっと貸してみろ」
カーナが容器を取り上げ、ルイーナの腰の革帯へカチリと嵌め込んだ。
「走ってみてくれ」
ルイーナはその場で軽く足踏みをし、腰を落として抜刀の構えを取ってみせた。金属筒は革帯の脇で小さく揺れるだけで、太ももや腰骨に干渉することなく収まっている。
「……邪魔にはならんな。剣を抜く軌道にも入らないし、重さも気にならない。これなら行軍中も身につけていられる」
「だろ? 言っとくが、そいつの注ぎ口の調整はコンマ数ミリ単位でやってんだからな。雑にぶつけて曲げたりすんなよ」
「心得ている。武器と同じように扱おう」
ルイーナが真面目な顔で頷くと、カーナは少し気圧されたように「あ、ああ……そこまで気負わなくてもいいがな」と頭を掻いた。
その間に、フェルが細い漏斗を使い、琥珀色の原液を真鍮容器の口から慎重に注ぎ込んでいた。
満杯になったところで蓋をしっかりと締め、フェルがルイーナに向き直る。
「ルイーナ様、使い方の確認です。水筒一杯――約一リットルの水に対して、このドロップを一滴落としてください。軽く揺すってから、一分待ってください」
「一分だな」
「はい。正常に作用した場合、底に灰色の澱が沈み、上澄みが透明になります。飲むのはその上澄みだけにしてください。決して底まで飲み干さないように」
「分かった。澱は捨てればいいのだな」
「そうです。ただ――」
フェルは表情を引き締め、念を押すように言った。
「もし、一滴落としても濁りが残ったり、沈殿が途中で舞い上がったり、異臭が消えない水があった場合は、絶対に飲まないでください。その水は、この薬の対象外です」
「了解した。その時は水筒の水を捨て、どのような水であったかを記録して持ち帰る」
「頼む、ルイーナさん」
リョウが真鍮の容器を受け取り、ルイーナの手のひらへと渡した。
「無理はしないでくれ。安全性が確認できるまでは、あくまで試験だ」
「案ずるな。生き延びるための判断を誤りはしない」
ルイーナは容器を革帯に収めると、踵を返して工房を出て行った。
フェルが作業台から小さなコルク栓のガラス小瓶を取り、カーナへ差し出した。
「カーナさん、これ、耐食テスト用の原液サンプルです」
「おう。金属片を何枚か切り出して、数日浸けて様子を見てやるよ。炉の火を落とさなきゃならんから、私も戻るぞ」
カーナは小瓶を道具袋に放り込み、足早に出て行った。
二人を見送ったあと、工房に残された作業台の上には、真鍮の削り粉と、薬草の乾いた匂いがわずかに漂っていた。
フェルが道具を片付ける横で、リョウは帳簿を開いた。
真鍮棒の仕入れ値に、カーナへの削り出し加工賃。フェルの試薬原価。ルイーナへ渡す試験の謝礼――いや、ルイーナへの謝礼は金で払うより、清髪粉や防錆ペーストの現物支給で落とした方が原価率を抑えられる。
リョウはペンを走らせながら、眉間を指先で揉んだ。
一滴で一リットル。容器一本で三十回分として、販売価格は銀貨何枚に設定できるか。
もし来週の遠征でルイーナが腹を下して戻ってきたら、試験費どころか騎士団への見舞金と原因究明でどれだけの損失が出るか。
(……まあ、その時はその時で、別の売り方を考えるしかないな)
帳簿をパタンと閉じると、ちょうど西の空の光が消え、工房の中が夜の闇へと沈み始めた。
「フェル、油灯をつけてくれ。今日の分の帳尻を合わせよう」
「はい、今つけますね」
灯された油灯の明かりの下で、リョウは帳簿を開き直し、羽ペンの先をインク壺に浸した。




