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Proto:分断から繋がるこの世界での生  作者: 惰子兎/惰怯晴真
第三章 『王室への訪問』

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第三章6  『誰も欲しがらなかった英雄、鈴 日向』

 ――その結果は、誰にとっても完全に予想外だった。二人が蛇玉に手を置いた時、まさかこんな結末になるなんて、誰一人思ってもいなかった。目の前の光景を見た全員が、ただ呆然と立ち尽くしていた。でも、みんなが本当に驚いた理由は、結果そのものじゃない。王位を継ぐにふさわしいと認められた人物――その正体が、この場にいた貴族の誰も予想していなかった相手だったからだ。

 今日一日、二人が見せてきた性格や振る舞いを見ていれば、どっちが王位継承候補に選ばれるかなんて、誰だって分かると思っていた。少なくとも、そう考えるのが普通だった。


 ――でも、その予想は見事に外れた。

 だからこそ、その場にいた全員が、ただ呆然とするしかなかった。


「――ふっ。我が身の勝利じゃ。」


 王位にふさわしいと認められたのは、親切で礼儀正しくて、誰にでも敬意を払い、謝ることだってためらわないパフィー・プロテウスじゃなかった。選ばれたのは、イェーツ家の貴族で、傲慢そのものみたいな金髪に深紅の瞳をした、ビクトリア・イェーツだった。

 ビクトリアの前に置かれたオーブは、眩しいほど真っ白に輝いていた。それ以上ないくらい分かりやすい証拠を見せつけられながら、ビクトリアは静かに笑う。まるで――こんな結果になることなんて、最初から全部分かっていたと言わんばかりに。


「流星とは、なんと素晴らしき恩寵なのであろうな。またしても、我が身のために世界を動かしてくれたではないか。まことに都合のよいことじゃ。」


 ビクトリアが蛇玉から手を離し、何事もなかったみたいに腰へ手を当てる。すると、パフィー・プロテウスがまだ手を置いていた黒い側が、じわじわと白い側を飲み込んでいった。そして次の瞬間――蛇玉は、また全面が真っ黒に戻った。

 部屋中がどよめき、あちこちからざわめきが広がる。そんな中、ビクトリアはちらりとパフィーのほうへ視線を向けた。その表情を見た途端、ビクトリアは思わず笑みを浮かべた。


「で、ですが……どうして……。こんなこと、あるはずが――いえ……そんなはず、ございません!」


「――その無様に取り乱した顔を引っ込めるがよい。汝は他人の顔色ばかり窺う、骨のない虫けらに過ぎぬ。この結末は、宇宙が生まれ落ちたその瞬間より定められておったのじゃ。わらわが汝のような惨めな存在に完全なる勝利を収めることなど、この世界には遥か昔より刻まれておった。さあ、跪け。そして、己の立場というものを忘れるでない。」


 パフィーの目は恐怖で大きく見開かれ、口はぽかんと開いたまま固まっていた。その様子を見る限り、こんな結末になるなんて、一ミリも考えてなかったんだろう。

 ……もしかしたら、あの礼儀正しくて控えめな態度の裏では、パフィーのエゴって、ビクトリアよりずっと大きかったのかもしれない。


「意外な結果だったな……。でも、ははっ。あのアマ、いい気味だ。」


 ほんの少し前まで、日向はビクトリアが失敗することを願っていた。なのに今は――そのビクトリアの勝利を、素直に認めていた。


「――祝福しよう、イェーツ・ビクトリア様。そなたをもって、四人目にして最後の王位継承候補者が揃った。これにより、この場に集いし者たちが抱いていた長き期待と不安も、ついに終わりを迎えることとなる。さて、そなたは――」


「――違います……! 違います、違います、違います、違います……!!こんな結果になるはずでは……!これは間違っています……! 嘘です……嘘、嘘です……!!」


 不安、怒り、そして現実を認めたくないという感情が一気に溢れ出したのか。パフィー・プロテウスは目に涙を浮かべながら、まるで子供みたいに両腕を上下に振り、王の言葉を遮った。さっきまで誰に対しても丁寧で、落ち着いた態度を崩さなかった彼女とは、とても同じ人物には見えなかった。

 パフィーが歯を食いしばり、この場にいる全員を睨みつける。その鋭い視線を向けられた人たちは、驚いたように彼女を見返していた。一体、どうしてそこまで取り乱しているのか。そんな疑問が誰かの口から出るよりも早く、パフィーは再び口を開いた。


「こんな結果になるはずではなかったでしょう! あなたは、そうならないと言ったではありませんか!!私が女王になるはずだった! 私が選ばれるはずだったのです!!この女が……この方が、ふさわしいはずなんてなかった!あなたは約束したではありませんか……! 約束してくださったではありませんか!!これまで私がどれだけあなたのために尽くしてきたと思っているのですか!それなのに……それなのに、私を欺くのですか……?どうして……どうして、そんなにも邪悪なことができるのですか!?」


 パフィーは取り乱したまま、まるでこの部屋のどこかにいる誰かへ向けて叫んでいるようだった。

 怒りと、胸の奥から溢れ出してくる強い感情に突き動かされたのか、パフィーは王が立つ壇上へ向かって歩き始める。けれど――それ以上近づくことはできなかった。あと少しで壇上へ届くというところで、鋼の鎧を身に纏った二人の騎士――この場を守る兵士たちが、パフィーの前に立ちはだかった。


「これ以上、陛下へ近づくことはお許しできません。」


 右側に立っていた騎士は、厳しい声でそう告げた。その声には、従わないなら力ずくでも止める――そんな意思がはっきりと滲んでいた。けれど、今のパフィーにはそんなものが届くはずもなかった。怒りで周りが見えていないのか、彼女はまた一歩前へ進む。

 周囲の貴族たちから向けられる冷たい視線も、数歩先に立っている四人の王位継承候補者たちの視線も、今のパフィーには関係なかった。彼女はただ、泣きながら、喚き続けていた。――まるで、自分だけが裏切られた被害者であるかのように。そのままでは騎士たちが動き出す。そう思われた瞬間だった。まるでパフィーを騎士たちの手から止めるように、一人の男が彼女の腕を掴んだ。


「……えっ!?」


 パフィーが振り向くと、そこにいたのは優しそうな雰囲気をした男だった。短い燃えるような赤髪に、黄色い瞳。服装は深い青色のロングコートのようなスーツで、頭には黒いフェドーラ帽を被っている。

 その男は心配そうな表情を浮かべながら、パフィーの腕を掴んだまま、部屋の前方から遠ざけるように引っ張っていた。


「テオ……! 離してください!!あの人たちは嘘をついています……! 私は王位継承候補になると約束されていたのです!!私がこれまでどれだけ助けてきたと思っているのですか……!それなのに……利用されたというのですか!?」


「――パフィーさん、お願いします!ここは王の間ですよ……! 今のあなたの行動は、私たちまで困らせてしまいます。あなたがどう感じているのか、私にも分かります。ですが……今は、こうするべき時ではありません。お願いですから……受け入れてください。ね?」


 背の高い男――テオは、懇願するような表情でパフィーを見つめていた。

 けれど、そんな彼の気持ちが届くことはなかった。パフィーは彼の手を振りほどこうと抵抗し続け、王位を逃した悔しさをぶつけるように泣き叫んでいた。

 そんなテオの苦戦に気づいたのか、さらに二人の人物が前へ駆け寄る。そして、パフィーの身体を支えるように掴み、テオと協力して彼女を王の間の外へ連れ出そうとした。その二人のうち、一人は日向と同じくらいの背丈の女性だった。日に焼けたような褐色の肌に、ポーラにも負けないくらい鍛えられた体つき。肩まで伸びた砂色の金髪と黄色い瞳を持ち、頭にはバンダナを巻いている。


「……ほとんど裸じゃん。何なの、あれ……。」


 日向の感想は、別に大げさでもなんでもなかった。その女性の服装は、確かにかなり大胆だった。肌を大きく見せるような褐色のショートパンツに、胸元を隠すだけの黒いビキニのような服。そして、その上から大量の金の装飾品を身につけている。

 ……というか、よくそんな格好で普通に歩けるな。そんなことを思っている間にも、テオやその女性と一緒にパフィーを運び出そうとしている、もう一人の人物へ視線を向ける。その人物は、とても小柄な男だった。特徴的なのは、その鮮やかなオレンジ色の髪。この世界に来てから見てきた中でも、日向がまだ見たことのないような色だった。そして、顔には大きなオレンジ色の髭。身につけているのは使い込まれた鎧で、頭には兜を被っている。


「プロテウス殿、その言葉の真意をお聞かせいただきたい。まずは、どうかお心をお鎮めください。」


「――嘘です……! 嘘です、嘘です、嘘です、嘘です、嘘です……!!」


 ――何なの、あいつ……。どれだけ子供っぽいわけ?もう大人なのに……信じられない。こんな人間、本当にいるんだ。もし私だったら……こんな状況になった時点で、もう死にたくなると思う。


 パフィーは王の問いかけを無視した。彼女の口から出続ける「嘘」という言葉は、明らかに誰か一人へ向けられていた。泣き続けたせいで、その目はすっかり赤く腫れている。……正直、見ているこっちが恥ずかしくなるくらいだった。

 一体、パフィーは誰に向かってそんな言葉を投げているのか。そして、どうしてここまで取り乱しているのか。日向には、まだ何も分からなかった。


「――プロテウス殿。そなたのこれからの歩みに、幸運があらんことを願っている。」


 そんな状況だったというのに、王は最後まで丁寧な態度を崩さなかった。三人の人物――おそらく、パフィーの仲間なのだろう――に押さえられながら、未だに泣き叫び、抵抗し続ける彼女へ向けて、静かに別れの言葉を送った。

 やがてパフィーは、三人に連れられる形で王の間から完全に姿を消す。残された部屋には、ようやく静けさが戻った。ただし、完全に静かになったわけではない。扉の向こうの廊下からは、まだ彼女の叫び声と泣き声が響いていた。


 なんというか、とんでもない空気だった。誰もが今起きた出来事をどう受け止めればいいのか分からないまま、しばらくの間、気まずい沈黙が流れる。そして、その時間が過ぎた後。王はゆっくりと顔を上げ、蛇玉によって王位継承候補者として認められたビクトリアへ視線を向けた。


「イェーツ・ビクトリア殿。これにて、そなたは数多くの貴族たちの中から選ばれし、第四にして最後の王位継承候補者となった。さて……この候補者としての立場について、そなたから何か言葉を述べたいことはあるだろうか。……いや、その前に一つ尋ねよう。そなたの側に立つ者たちを、この場へ招き入れることを望むか?」


 王は、これまでと変わらない穏やかで寛大な口調でビクトリアへ言葉をかけた。パフィーの騒ぎが起きた直後だからなのか、その態度はいつも以上に丁寧に見えた。まあ、相手が相手だというのもあるのかもしれない。

 ビクトリアは王の問いをしばらく考えるように黙り込み――やがて、拒むようにゆっくりと目を閉じた。


「この場で輝くべき者など、わらわ以外に存在せぬ。他の者をここへ呼び寄せるなど……あまりにも滑稽な提案じゃ。」


「――おや? そうなのですか、ビクトリア。ですが……申し訳ありません。もう、こちらに来てしまいました。」


 ビクトリアの背後から現れた人物。その姿を見て、ビクトリアもさすがに視線を向け、存在を認める。そこにいたのはトビアスだった。そして彼の後ろには、エミルと――未だにフードを深く被ったままのフレデリックの姿もあった。

 それに気づいた瞬間、日向は思わず目を見開く。


「ちょっと、私もあそこに行くべきじゃないの? 私だって、あいつらと同じくらい関わってるんだから――いや、たぶん私のほうがずっと関わってるでしょ!」


 日向はすぐに、人混みの中にいる騎士たちの間から抜け出そうと足を踏み出した。けれど――その姿に気づいたフレデリックは、すぐに険しい表情を浮かべる。

 そして、手のひらをこちらへ向けながら、首を横に振った。その仕草を見た日向は、足を止める。困惑したようにフレデリックを見つめた後、日向は小さく眉を寄せ、視線を下へ落とした。


 ――私、あっちに行っちゃ駄目なの?フレデリックは、私が邪魔になるって思ってるの?……もう、友達じゃないってことなの?


「――おや、トビアス。久しいな。こうして顔を合わせるのは、あまりにも長い時が経ってしまったように感じる。」


「ええ、そうですね。陛下が王国の前に姿を見せなくなってから、少し心配しておりました。まさか、このような理由だったとは思いもしませんでしたが……。陛下が今お過ごしになられている状況について、心よりお見舞い申し上げます。」


 そう言いながら、トビアスは明るい笑みを浮かべ、軽く手を上げて王へと振った。その様子は、まるで久しぶりに会った友人へ挨拶をするかのような気軽さだった。一方で、彼の娘であるビクトリアは――まるで父親の存在そのものが邪魔だと言わんばかりに、鋭い視線を向けていた。


「父上。わらわの視界から消えるがよい。もし汝の存在をここへ望んでいたのなら、わらわ自らの美しき声で呼び寄せておる。」


「そうは言っても、私は君の父親ですからね。私に指図することはできませんよ。親というものは、子供より上に立つものではありませんか?」


「――己の血が、汝に特別な権利を与えるなどと思い上がるな。父親であろうとなかろうと、これ以上わらわを不快にさせるというのなら、何の躊躇もなく、その首を落としてくれよう。わらわこそが、この世界の中心なのじゃ。故に――その舌を慎め。さもなくば、二度と言葉を紡げぬようにしてやろう。」


「いやぁ……怖いですね。まあ、ビクトリアの言うことも一理あるのでしょう。それでは、少しの間、好きにするといいですよ。」


 ビクトリアの強い言葉を受けても、トビアスは特に気にした様子もなく、笑顔のまま後ろへ下がった。まるで、あの程度の態度はいつものことだと言わんばかりだった。日向は、そんなビクトリアの言葉遣いにかなり驚いていた。

 もし自分が両親にあんな口の利き方をしたら――間違いなく怒られて、お説教どころじゃ済まない。父親が下がったのを確認すると、ビクトリアはすぐにフレデリックとエミルの二人へ横目を向けた。


  「おや? 汝は悪魔と魔族を、その鎖に繋いで連れてきたのか。まあ、構わぬ。そのような下劣で卑しい者どもなど、わらわが気に留める価値すらない。」


 ビクトリアは、フレデリックとエミルの二人を、まるで彼らがどう感じるかなど一切気にしていないかのように、何気なく侮辱した。日向は、フレデリックへ向けられたその侮辱に歯を食いしばり、怒りを浮かべた表情を作った。

 もう、フレデリックが何と言おうと関係なかった。彼がどう思っていようと、日向はあそこへ行き、全員の隣に立つつもりだった。


 あの女は、フレデリックを侮辱した。それなのに、彼の周りにいる誰も気にも留めなかった――庇おうともしなかったし、彼女に落ち着けと言おうともしなかった。こいつらは、全員自分勝手すぎる。もしまた同じことが起きたら――ただ見た目だけを理由に、フレデリックが侮辱されたら……?その時、彼はそこに座ったまま受け入れるの?そんなの、私は許さない!誰も彼を助けないというのなら、私が助ける。


「――よく聞くがよい、下賤なる民どもよ。未来の支配者たるわらわの言葉をな!わらわはイェーツ・ビクトリアじゃ!わらわがこの王座を望むという事実、それ自体が神聖なる祝福なのじゃ――わらわに対するものではない。汝ら全てに与えられる祝福じゃ!もしわらわの世界で生き延び、そして栄えることを望むのならば、大地に身を伏せ、わらわの足元へ額をつけ、わらわを崇めるがよい!汝らに他の選択肢など存在せぬ。従うというのならば、わらわは寛大にも、汝らの小さな願いを叶えてやろう。これこそが唯一の真実――なぜなら、わらわこそが唯一の答えなのじゃ!」


 ビクトリアは天井へ向けて指を高く掲げ、自らの壮大な理想を堂々と語り上げた。その声には、根拠のない傲慢さが滲み出ており、その場にいた者たちは一瞬で彼女を王にするという考えを拒絶した。しかし、その不快なほどの高慢さの奥には、確かな強さが存在していた。


 彼女の絶対的な確信は静まり返った王の間全体に響き渡り、誰もが息を呑む。そのあまりにも大胆な発言に、その場にいた全員が言葉を失っていた。複雑な感情の入り混じった表情を浮かべていた王は、ビクトリアの宣言を聞いて目を見開く。そして、何かを考えるように、すぐに目を閉じた。


「……そのような答えが返ってくるとは、予想していなかった。だが、そなたが示した可能性は確かなものだ。そして、そなたの側に立つ他の三名の候補者たちもまた、同じく大きな可能性を秘めている。イェーツ・ビクトリア殿。そなたを認めよう。」


「汝の認めなど、わらわにとっては何の意味も持たぬ。わらわを選んだのは、すでに流星たちなのじゃ。わらわが候補者となる運命は、汝のような単純な思考しか持たぬ者が意見を抱く遥か以前より、世界そのものへ刻まれておったのじゃ。」


 王であるフィローネ・フィロナの立場を前にしても、ビクトリアは顔を背けるようにして、堂々と彼を侮辱した。しかし、王はそれを気にした様子もなく、むしろ目を閉じながら、僅かに微笑んでいた。

 王が言葉を返すよりも先に、トビアスがビクトリアへ近づき、笑みを浮かべながら彼女の肩を軽く叩いた。


「まあまあ、言葉遣いには気をつけましょう。いくら陛下とはいえ、その御方のことを『単純な思考』などと呼ぶのは、あまり良いことではありませんよ。」


「――ああ、心配なさらずともよい、トビアス殿。私は、彼女のことを非常に興味深く感じているのだ。本当に……唯一無二の御方だな。」


「ねえ、フレデリック。」


 王とトビアス、そしてビクトリアが三人で会話を続けている間、日向はこの部屋に入ってからずっと立っていた場所をそっと離れ、控えめな笑みを浮かべながらフレデリックの隣へ立った。

 彼女の存在に気づき、目の前にある日向の顔を見たフレデリックは、目を大きく見開く。そして、すぐに驚きの表情へと顔を変えた。


「日向ちん? 一体、こちらで何をしているのですか?私が合図した時、元いた場所にいてほしいと伝えたはずです。今は遊んでいる場合ではありませんよ!」


 その驚いた表情をすぐに消したフレデリックは、今度はまるで母親のような厳しい表情へと変えた。そして、周囲にいる者たちの会話を邪魔しないように、指を一本立てながら、声を抑えて日向を静かに叱った。

 そんなフレデリックの小言に、日向は呆れたように目を転がし、眉をひそめる。それから腰に手を当て、未だ長い黒いポニーテールのままの髪を揺らした。


「私は無責任な子供じゃないんだから。ここまでだって、ちゃんとやってこれた。だからもう黙って、私の好きにさせてよ。私だって、この集団の中で他のみんなと同じくらい重要な存在なんだから――ここにいる資格はあるでしょ。それに、今まで私がしてきた英雄的なことを考えれば、当然のことじゃん。少しくらい、自分勝手になるのはやめてよ。」


「違いますよ、日向ちん!あなたがこれまでしてきたことには、本当に感謝しています。ええ、本当にです。ですが……日向ちんは、私の言っていることを聞いていません――」


「おや? これは一体、何事だろうか?」


 二人の小さな会話を遮ったのは、上から響いた王の声だった。すぐに、二人は考え事から意識を引き戻され、その特徴的な声の主を確認するために顔を上げた。そして間違いなく――王が話していた相手は、残念ながら二人のことだった。

 今になってフレデリックは、自分の外套のフードが頭から外れていたことに気づいた。不安と恐怖が込み上げ、フレデリックは目を大きく見開く。そして慌ててフードを元の位置へ戻すと、背を向け、怯えるように身を縮めた。


「先ほど、少しだけ見えたその姿……。そなた、名を何というのだ?」


 見た目を知られてしまうことを恐れ、なおも背を向けていたフレデリックは、王の呼びかけにすぐ反応し、肩越しに振り返った。その拍子に、被っていたフードが頭からするりと落ちてしまう。

 フードが落ちた瞬間、人々の間からいくつもの息を呑む声が漏れた。そして、あちこちから囁き声が聞こえ始める。そのどれもが、フレデリックがフードで隠し続けようとしていたものへ向けられた、値踏みするような視線と言葉だった。


 フレデリックは橙色と黄色の瞳で真っ直ぐ王を見上げ、不安そうに唇を噛む。そして、ようやく勇気を振り絞るように口を開いた。


「わ、私はフレデリックです……。ただのフレデリックです……。イェーツ家にお仕えしています……。」


「――なんと悍ましいことだ。イェーツ・トビアス殿、あなたは名門イェーツ名家の当主であられるはずでしょう?それにもかかわらず、何世紀にもわたって書物へ語り継がれてきた『大賢者』と酷似した特徴を持つ悪魔を、自らの屋敷に住まわせているとは……一体どういうおつもりなのですか!?」


 ソーレン・キリアンが壇上からフレデリックへ向けてその侮辱を口にした瞬間、日向は拳を強く握り締めた。力が入りすぎて、指の関節が白くなる。フレデリックがただ黙ってその言葉を受け入れていることも――いや、そもそもあんな呼び方をされていること自体が、日向にはどうしようもなく腹立たしかった。

 さっきビクトリアに言われた侮辱だけでも頭にきていたのに、その上さらにこんな言葉まで浴びせられたせいで、日向の怒りは限界まで膨れ上がっていた。今にも怒鳴りつけてしまいそうになるのを必死に堪えながら、唇を強く噛み締め、怒りを露わにした表情を浮かべた。


「先ほど娘にも言いましたが……あなたにも同じことをお伝えします。どうか、言葉遣いには気をつけてください。悪魔なんて呼ぶものではありませんよ。」


 片目を閉じながら、トビアスは取り乱した様子のソーレンへ、落ち着いた口調でそう言った。

 その程度のことしか言わないトビアスを見て、日向の怒りはさらに膨れ上がる。名門イェーツ家の当主なんだから、フレデリックのためにもっと強く言い返してもいいはずなのに――それをしようとしない。


 ――あいつ、当主失格じゃん。家の人間であるフレデリックが目の前で侮辱されてるのに、「言葉遣いには気をつけてください」だけ? 何それ。ダサすぎ。偽善者じゃん。あいつ、本気でフレデリックを守る気なんてないんでしょ!?


「トビアス殿……まずは、フレデリック殿へ向けられたソーレンの言葉について、お詫び申し上げたい。ですが……私は、あの御方のことを心から痛ましく思っている。大賢者を彷彿とさせる、あのあまりにも痛々しい容姿は……誰しも、自ら命を絶ちたいとさえ思ってしまうほどのものなのだから。」


「――黙れ、このクソ野郎!!」


 その直後――日向の無礼な怒鳴り声が王の間に響き渡り、その場にいた全員の視線が一斉に彼女へ集まった。

 あまりの注目に恥ずかしさが込み上げ、日向の頬を冷や汗が伝っていく。それでも、みんながこの姿を見て、フレデリックを庇う人間がいるって分かってくれるなら――少しでもあいつへの当たりが軽くなるなら、それでいいと思った。


 日向の胸の中では、行き場のない怒りが渦巻いていた。その場にいる一人ひとりの顔を見るたびに、その怒りはどんどん膨れ上がっていく。まず頭に浮かんだのはビクトリアだ。理由もなくフレデリックを侮辱したあいつのことを思い出すだけで、腹の底から怒りが込み上げてくる。

 その隣にはソーレン。あいつの口から出てきたのは、場をかき乱すことしかできない、どうしようもない言葉ばかりだった。続いて視線を向けたのはトビアス。あれだけのことを言われておいて、「言葉遣いには気をつけてください」なんて一言で済ませようとしたあいつにも、日向は心の底から呆れていた。

 だけど、一番許せなかったのは王だった。フレデリックを見て、あんな見た目では自殺したくなるほどだなんて――そんなことを平然と言い放つなんて、絶対に許せない。


 日向はその場にいる全員を鋭く睨みつける。その視線を受けた王は、日向が何者なのか分からないまま、不思議そうに眉をひそめた。


「身分が低いからって!? 大賢者に似た顔で生まれたからって!? そんな理由だけで、あいつをここまで好き勝手に傷つけていいと思ってるわけ!?科学じゃ、自分とまったく同じ顔の人間がどこかに存在するって証明されてるんだよ! 生まれつき顔が似てただけで、あいつだけ責められなきゃいけないの!?じゃあ、もし私が殺人犯とまったく同じ顔だったら、私も犯罪者になるわけ!? 私も人を殺す運命だって言いたいの!?王のくせに……本当に、とんだクソバカじゃん!!」


 胸の奥を締め付けていた緊張を押し退け、日向は全力で叫んだ。自分の思いを隠すことなく、何の迷いもなく王を侮辱する言葉まで口にした。


 ――私、今めちゃくちゃ恥ずかしいことしてる!?……いや、違う! 私はフレデリックを助けてるんだ! これは正しいことなんだから、誰も私を変な目で見たりなんかしない!私のことをおかしい奴だなんて思ってない――ここにいる全員、こんなふうに一歩踏み出せる私のことを、強いって思ってるはず!


 そう自分に言い聞かせることで、日向は冷や汗で強張っていた顔を無理やり笑顔へと変えた。その笑顔は、周囲にいる誰の目にも留まるほどのものだった。日向という存在に困惑した様子で眉を上げた王は、自分へ向けられた侮辱など気にしていないかのように、視線をビクトリアへ向けた。


「ま、待ってください、日向ちん! どうか、もうやめてください!」


「――失礼だが、その少女は一体何者なのだ?そなたの名家……いや、今や王位を巡る一つの陣営において、どのような立場にある者なのだろうか。」


「ふん、その子犬か? あれはただの――」


「私が自分で話せるんだけど!」


 ビクトリアの言葉を遮るように、日向は大きな声を上げた。先ほどまで震えていたその声には、もう迷いはなかった。日向は自分の陣営の前に立つ――いや、それだけではない。残る三つの陣営も含め、その場にいる全員の前へ出て、王を真っ直ぐ見つめた。

 声の震えは消えていた。しかし、足も、腕も、呼吸も、そして魂までもが震えていることには変わりなかった。それを本当の意味で消し去る方法など、日向には存在しない。それは、恐怖に対する人間の身体が見せる自然な反応だった。日向にとっては、どうしようもなく忌々しいものだった。


「私は鈴 日向! 村を救った者。迷子の子供を救うために命を懸けた者――無防備な者たちを守ることを自らの使命とする者! 私は、英雄だ! フレデリックの英雄――イェーツ名家の英雄! 私は、騎士などとは比べものにならないほど偉大な存在なのだ!」


 目元にピースサインを添え、舌を出した姿勢――自分で「決めポーズ」と名付けたそれを取りながら、日向はできる限り堂々と王へ向き合った。その背中は、日向がまるで背後からナイフを投げつけられているかのように感じていた、その場にいる全員へ向けられていた。自分を英雄だと名乗った日向の宣言は、その場にいた全員へ大きな衝撃を与えた。

 未だに日向が何者なのか全く分かっていない王は、困惑した表情のまま、彼女を見つめ続けていた。自分のことを知られていないという事実は、当然ながら日向にとって心を砕かれるほどの恥ずかしさだった――今すぐ記憶から消し去りたいと思うほどに。


「――そういうことでしたか。失礼ながら、わたしが口を挟ませていただいてもよろしいでしょうか。」


「ああ、マルセルス。どうか気にしないでください。彼女はまだ、我々の世界について多くを知らないのです。」


 日向があまり好意を抱いていない人物――マルセルスは、ヴィンセントの側にいた場所を離れ、日向の背後へと立った。

 その影が日向の全身を覆う。その存在を感じ取った瞬間、日向は勢いよく振り返り、喉元まで込み上げていた唾を飲み込んだ。歯を小さく震わせ、膝の震えのせいで今にも立っていられなくなりそうになりながらも、それでも日向は堂々とマルセルスへ向き合った。


「――いいえ。この件ばかりは、わたしが気にせずにいるわけにはまいりません、トビアス殿。」


 ヘーゼル色の瞳を細めて日向を見下ろしながら、ミントグリーンの髪を手で後ろへ払うマルセルスの長身は、依然として日向の前に大きく立ちはだかっていた。


「君は、本当に英雄というものが何を意味するのか理解しているのか?君は、自らが成し遂げたという数々の偉業を口にした。だが……その行動の根底にあるものは、一体何なのだ?騎士よりも偉大な英雄だと言うのであれば……わたしは、ぜひともその意味を聞かせていただきたい。」


「そ、それって……待ってよ。私が英雄だってことを疑ってるわけ!?あんた、一体何様なの!?私が今までどれだけ苦しんできたと思ってるの!? どれだけ辛い思いをしてきたと思ってるの!?私が助けてきた人たちのことまで全部無視して……私を嘘つきみたいに扱うっていうの!?」


 日向はマルセルスを指差し、彼の言葉に反発するように、どんどん怒りを募らせていった。もし現実にそんなことが起こるのなら、今の日向の耳からは蒸気でも吹き出しているところだった。

 そんな日向の言葉を受け、マルセルスは短い緑色の髪を揺らし、垂れ下がった髪の端を弄ぶ。そして、まるで少し傷つけられたかのような声色で、彼は口を開いた。


「君が今挙げたものは、騎士であれば誰もが経験する、当たり前の苦難に過ぎません。むしろ言わせてもらえば……君が経験してきたものは、我々騎士が背負ってきたものよりも少ない。それにもかかわらず、君は騎士よりも自分や自らの行いの方が優れていると、堂々と言い放ったのです。それを、よりにもよってフィロナ王国の近衛騎士たちが見守るこの場で――あまりにも大胆に。」


 マルセルスは、自身と同じように白を基調とし、黒の装飾が施された鎧を身に纏う騎士たちへ向けて腕を伸ばした。すると、それに合わせるかのように、彼らは一斉に剣を掲げる。その姿はまるで、日向へ何かを証明するかのようだった。

 鋼の刃が空へと持ち上げられる音が響き渡り、彼らの存在が放つ威圧感が部屋全体を満たす。その光景に、日向は思わず言葉を失った。しかし、日向は簡単に引き下がったり、怯えたりするような性格ではない。歯を食いしばり、地面を踏みしめるように足へ力を込めると、怒りを露わにした表情で彼らを睨み返した。


「私は村を救ったことと、迷子の子供を助けたことだけが、私の誇れる行動だと思ってるわけじゃない!まだある! もっとあるんだよ! 私は、本当に……もっと凄いことをしてきた!私には、騎士なんかよりずっと上の存在になれる力も、才能もあるんだ!英雄に――もう私は英雄なんだ!てめぇに、私の称号を決めつける権利なんてない!!」


「――私は、君の称号を判断する。そして、これからも判断し続ける!君は今、我々の前に立ち、自分にはそれほどの覚悟がある、自分には今の自分より遥かに偉大な存在になるだけの力があると主張している!だが、君とは違い――我々騎士は、自分が何者であるのかを理解している。ならば、私の目を見て答えてみろ。君は、自分がどのような人間なのか……本当に理解し、受け入れているのか?」


 眉間に深く皺を寄せ、その痛みを感じるほど強く表情を歪める。怒りによって顔を引きつらせ、自分の手へ爪を食い込ませ、跡が残るほど力を込めながら、日向は胸の内に湧き上がる怒りを抑えきれずにいた。この男に、私を判断する権利なんてない。私が何者なのかを決めつける権利なんて、あいつにはない。

 ――心の奥では分かってる。私は、良い人間だって!私の心は間違った場所に向いてなんかいない。私は、自分にできることをして、誰かのために動いている。だから……だから今ここで――私はフレデリックを守る。私は……私は――


「私が、ビクトリア・イェーツをこの国の王にする!」


「……随分と唐突な発言ですね。それは、わざと口にしたのですか? 自分自身を慰めるために……自分に言い聞かせるために、あえて叫んだのですか?君は、あまりにも傲慢だ。正直に言えば……君という人間を、わたしには理解することができない。それは誇るべきことではない。胸を張って語るものでもない。むしろ、恥じるべきことなのです。」


 ――違う。あいつの言っていることは間違ってる! そんなの嘘だ、絶対に嘘だ!私は、そんなものを真実になんてさせない。私は自分が誰なのか分かってる!あいつは、私のことなんて何も知らない!


 日向の前に立ち、目を細めながら語るマルセルスは、自分が何も知らないことについて勝手に語り、日向を完全に恥ずかしめているようにしか思えなかった。日向にとって、そんな人間は相応しくない――そもそも「王室近衛隊」にいる資格すらない存在だった。あいつは私を弄んでいる。

 日向には、そうとしか感じられなかった。やり遂げるための覚悟も、力も、自分にはちゃんとある。『イマーシブ・フューチャー』を経験できるのは、あいつじゃない。日向自身なのだ。だからこそ、マルセルスは弱い人間だと思った。世界に祝福され、何も背負わずに生きてきた人間だと。


 ――私だって、同じように祝福されている!いや……違う。私の方が、あいつなんかよりずっと大きな祝福を受けている!


「私は英雄だ! 英雄だ! 英雄だ! 英雄なんだ!私はフレデリックを守る! だって、彼は特別だから!そして私は、ビクトリア・イェーツをこの国の王にする!」


「君がビクトリア様をこの国の王にしたいと思う理由は、一体何なのですか!?」


「わ、私は……英雄だ!あんたたちは、フレデリックをまるで人間じゃないみたいに扱って、馬鹿にしていい理由なんてない!一体、どんなつもりでそんなことをしてるの!?私には、あんたたちのことが理解できない!一瞬だけ、恐怖から作った偽物の好意を見せるくせに……次の瞬間には、平気で彼への憎しみを見せる!そんなの、あまりにも勝手すぎるでしょ!」


 日向が大声で叫ぶその宣言を、誰も信じてはいなかった。マルセルスは片目を閉じたまま、日向を頭から足元まで観察するように見つめ続ける。それに対して日向もまた、敵意を隠すことなく、マルセルスを同じように見返した。

 マルセルスは、彼女の言葉の本当の意味――嘘の中に隠された真実を、なおも問い続けた。しかし、日向自身は自分が完全な真実を語っていると信じていた。自分の言葉のどこにも、嘘など存在しない。ただ、なぜかあの男は……彼女の答えを受け入れようとしなかった。


 マルセルスはため息を吐くと、目を閉じ、再び手で髪を後ろへ払った。そしてもう一度、日向へと視線を戻した。


「君は、私の問いを無視したのですね。なんと愚かなことか。正直に言って……わたしには、君という人間が理解できません。君には、あの少年を守りたいと思う理由もない。そして、ビクトリア様を女王にしたいと思う理由もない。我々から明確に敬意を拒まれ、ここにいる誰一人として君を英雄などと思っていないことを理解したはずなのに……それでも君は、そこに立ち続け、我々に逆らい続けている。なぜなのですか?」


「————」


 日向は手足から力を抜いたまま、マルセルスを見つめ続けていた。彼の言葉を噛み締めながらも、決して飲み込もうとはしなかった。地面へ吐き捨てるように、その言葉を取るに足らないものだと切り捨てた。その言葉は、日向の心を苦しめていた。

 今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた――いや、今の日向はもう泣いていた。目の前にいる緑髪の騎士に心を傷つけられ、怒りと悲しみの涙を流す彼女を、その場にいる全員が見つめていた。


 ――私って、本当に情けない!なんで泣いてるの? なんでこんなことで泣いてるの!?恥ずかしい……消えてしまいたいくらい恥ずかしい!もう耐えられない。でも、私はまだ立っていなきゃいけない!あいつに……あいつに、これ以上――


「そして今、君はそこで泣いている。騎士の正直な言葉すら受け止められないというのなら……君は、騎士としての基準には到底届いていない。いや、それ以前に……英雄としての基準にすら遠く及ばない。君は――誰にも求められていない英雄だ。」


 日向の思考を断ち切るように、マルセルスはこの一連の言い争いの中で見せた彼女の表情、姿勢、そして発言の数々を分析するように言葉を続けた。彼はまるで哀れなものを見るような目で日向を見つめ、彼女を退けるかのように手を上げた。そして、ヴィンセントの元へ戻ろうと歩き出す。

 しかし――背後から響いてきた大きな足音によって、彼は足を止めた。


「ふああああああああっ!!」


 日向は、今の胸の内に溜まり続けていた怒りを全てぶつけるように、マルセルスへ向かって突進した。この男に対する日向の嫌悪感は、もはや「嫌い」という言葉では表せないほどだった――もしかすると、無限に近いほど負の感情へと膨れ上がっていた。

 日向は勢いよく駆け出した。しかし、攻撃を当てるどころか、近づくことすらできなかった。蹴りを放とうとしていた足首を掴まれ、その勢いを利用されるように横へ投げ飛ばされる。日向の身体は、そのまま赤い絨毯の上を勢いよく滑っていった。


「こんなの、絶対に許さない!!」


「これ以上はおやめください。本当に……見るに堪えません。」


 何度も、何度も――日向はマルセルスへ攻撃を仕掛け続けた。自身の高い身体能力と強靭な脚力を利用し、彼女は彼の脛、股間、背中、首、肩、腹部――目に入るあらゆる場所を狙った。しかし、その全てが通用しなかった。

 攻撃を仕掛けるたびに、マルセルスの強靭な腕によって軽く受け流され、その勢いのまま日向の身体は再び床へと叩きつけられる。何度も顔を床へ打ち付けたことで、日向の顔は汚れ、強くぶつかった箇所には青あざが浮かび始めていた。


「日向ちん!!」


 その叫び声は、日向の耳へ届いた――フレデリックの、彼女を呼ぶ声だった。しかし、日向はそれを無視し、ただ自分を動かし続けた。


「ひゃあっ!」「きゃあっ!」「ぐあぁっ!」「ぶああっ!」それらは、日向が彼への攻撃に失敗するたびに響き渡る声だった。それでも、立ち上がるために身体へ力を込め、限界まで自分を追い込みながらも、日向は決して諦めなかった。

 再び、日向は勢いを利用してマルセルスへ向かって突進する。今度は彼の側面を狙い、攻撃を仕掛けようとしていた。マルセルスは、まるで飽きているかのような視線で彼女を見つめると、再び手を上げた。そして、日向の攻撃を軽々と受け流し、そのまま彼女の身体を地面へ転がした。


「引っかかったね!」


 日向は彼の横を転がり、そのまま以前まで立っていた白い衣装の騎士たちの集団へと入り込んだ。その状況を利用し、そして自分という存在の単純さによって彼らの間に生まれた混乱に乗じて、日向はその中の一人の騎士の前腕を思い切り蹴りつけた。強烈な一撃によって、騎士は握っていた鋼の剣を手放さざるを得なかった。

 自分の作戦が成功したことに笑みを浮かべながら、日向は騎士の手から滑り落ち、宙へ舞った剣を掴み取る。そしてすぐさま人の群れから飛び出し、マルセルスの元へ戻ると、鋼の剣を彼へ向けた。


 その瞬間、多くの騎士たちが日向へ駆け寄り、剣を取り上げようとした。しかし――マルセルスが手を上げたことで、彼らは動きを止めた。


「……これは、私の意図したことではありません。」


「知ったこっちゃないんだよ、このクソ野郎!!」


 戦うなという明らかな制止の言葉を無視し、日向は剣を手にしたままマルセルスへ向かって駆け出した。自分が勝つと信じきったような、どこか得意げな笑みを浮かべながら。しかし、彼のすぐ近くまで迫り、剣を振り下ろしたその瞬間――


「……違う……」


「ふん……。君は本当に、英雄などではない。」


 日向の攻撃は外れた。その酷い狙いの甘さを利用し、マルセルスは彼女から剣を奪い取ると、そのまま剣を振り上げ、一度だけ彼女へ向けて振り抜いた。

 斬撃を受けた瞬間、日向はすぐに後ろへ倒れ込み、尻もちをつくように床へ座り込んだ。そして、自分の顔を押さえる。痛みは軽かった。彼は、日向を傷つけるつもりで剣を振ったわけではなかった。日向が顔から手を離すと、そこにあったのは頬から下唇へと伸びる一本の切り傷だけだった――それも、跡が残ることなく治る程度のもの。流れ出た血も、ほんのわずかだった。


「日向ちん!!」

「日向さん!!」


 日向の傷を見た瞬間、フレデリックは彼女の元へ駆け寄った。そして、心配そうな表情を浮かべながら、まるで絶対に離さないとでも言うように、日向の身体を抱きしめる。エミルもまた、驚いた表情を浮かべながら日向へ声をかけていた。しかし――彼女の元へ辿り着いたのは、エミルよりもフレデリックの方が早かった。

 その後、日向はマルセルスを睨みつけた。そこに浮かんでいたのは、軽蔑の視線。自分でも、決して感じることはないと思っていたほどの怒りだった。


「そこまでです、お二人とも!ルセルドラ・マルセルス殿、あなたは騎士でしょう!自分が彼女へ傷を負わせることが、どれほど間違った行いであったのか……理解していないのですか!?」


 王の叱責――そこに込められた怒りを受け、マルセルスは目を閉じかけると、まるで自身の運命と、これから下されるであろう罰を受け入れるかのように、小さく頷いた。そんな王が自分に向けて怒りを露わにしている姿を見て、日向はまるで自分の行動を誇るように笑みを浮かべた。

 その後、王はビクトリアとフレデリックへ視線を向ける。二人の間を、何度か見比べるように。


「ビクトリア様、申し訳ございません。王室近衛隊の一員と、そなたの英雄との間で、このような出来事が起きてしまったこと……心よりお詫び申し上げます。」


「この程度のこと、取るに足らぬ些事じゃ。あの子犬は、所詮わらわにとって何の価値もない存在に過ぎぬ。」


 ビクトリアは、マルセルスの件に対する王の謝罪をすぐに退けた。目を閉じ、顔を背けるその姿からは、日向が受けた痛みなど取るに足らないものであり、気に留める価値すらないと本気で考えていることが伝わってきた。

 王もまた、そんなビクトリアの態度を理解したようだった。そしてすぐに視線をフレデリックへ向ける。フレデリックは今、日向の隣に立ち、彼女の手を握りながら、顔の傷を手当てしていた。


「君の名前は、確かフレデリックでしたね。先ほどの私の言葉について、謝罪させてください。そして……私の側にいる者たちもまた、これまでに発した全ての言葉について謝罪いたします。君には、本当に素晴らしい友人がいるのですね。彼女は今日、この場にいる全員へ示しました。君という人間は、恐れるべき存在でも、複雑な感情を向けられるような存在でもないのだと。――ええ、本当に……君には、素晴らしい友人がいるのですね。」


「———」


 フレデリックは、その言葉にまだ返事をしなかった。彼は日向の顔を手当てし続け、傷の周辺を優しく撫でるように触れていた。しかし、そうしている間も、彼は日向の目を見ることができなかった。おそらく、今の彼は意地を張っているのだろう。日向には、彼の怒りが伝わっていた。

 それが、苦しかった。一方の日向は、王が口にした言葉に大きな満足感を覚えていた。王自身が、自分を良い友人だと認めた――つまり、それは実質的に、自分を英雄だと認めたようなものだ。ならば、王がそう言ったのなら……きっとフレデリックも今の態度を変え、その言葉を受け入れてくれるはずだ。


 突然、フレデリックはその場にいた人々から離れるように歩き始めた。そして、日向の手を引きながら、一緒に連れていく。しかし――次の瞬間、何の前触れもなく、彼は足を止めた。そして、振り返る。

 彼の視線の先にいたのは、王、四人の王位継承候補者、そして上位者の同盟の者たちだった。隣で彼の手に引かれていた日向の姿は、彼の視界には映っていない。それでも、日向には彼の表情がはっきりと見えていた。


 彼の瞳は冷たく、感情が凍りついているようだった。


「――日向は……私の、友達ではありません。」


 その瞬間、日向は心が砕け散るような感覚を覚えた。

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