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Proto:分断から繋がるこの世界での生  作者: 惰子兎/惰怯晴真
第一章 『恐怖に満ちた初日』

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第一章7 『役に立たない金の敗北』

 酔っ払いの股間を蹴り上げたあと、日向は広大な街を全速力で駆け抜けた。


 人を背負っている分だけ足は鈍ったが、それでもかなりの距離を進んだ。もっとも、すでに通った道をただなぞっているだけの可能性も高かった。

 結局、二人はまたあの橋へ戻ってきてしまった。


「クソ! あんたの親、どこにいるわけ!? 毎回このクソみたいな橋に戻ってきてるじゃん……」


 日向は苛立ちのまま地団駄を踏み、今立っている石の橋を睨みつけた。

 この期に及んでも、チューリップはまだ恥ずかしがって口を開けないようだった。もっとも、喋ったところでこの子も親の居場所なんて知らないのだろうから、どのみち何の助けにもならない。日向のほうはもう慣れっこだった。それでも、この子の内気さと不器用さは、ただただ馬鹿げているとしか思えなかった。


 賑わう街の人たちに道を尋ねることだってできたはずだ。標識は読めなくとも、言葉が通じないわけではないのだから。


「絶対に嫌!」


 日向は拒否した。見知らぬ相手に助けを求めるのが嫌いだった。だから代わりに、必死の捜索を続けることにした。

 十分ほどの短い休憩を挟んで息を整えながら、三時間近く走り回った。男に水を分けてほしいと頼んでみたが、その男は欲深くて、水に金を取ろうとしてきた。日向は思いやりのなさを説教してから、その場を立ち去った。

 橋の下の水を飲むことも考えたが、浄化されているのかどうかも分からないので、うんざりしたように舌を出して却下した。


 日向はスマホで時刻を確かめた。この世界の時間は、もとの世界と合っているらしい。それはありがたかった。

 汗ばんだ額に乗っているピエロの仮面を直すと、日向はため息をついた。


「もう震えなくていいからな、チューリップ。私の前で恥ずかしがることないんだよ。だって私、優しい人間だし。あんたを誘拐しようとしたあいつとは違うんだから」


 日向の慰めの言葉に、少女は隠れるように日向の肩へ顔を埋めた。さらに強くしがみつきながら、チューリップは「うん……」と呟いて、また黙り込んだ。その小さな声を聞いた瞬間、日向はかすかに微笑んだ。


「よし、それでいい。喋れたってことは、私のおかげで殻を破れたってことだし。ちゃんと親に、私のおかげだって言うんだよ。もしかしたらお小遣いくらいくれるかも……」


 金と称賛への思いが頭の中を駆け巡ったが、腹から響いてきた盛大な音の前には、まるで歯が立たなかった。

 背中の少女も同じ空腹に耐えているのは分かっていた。だが水を求めた時と同じで、食べ物を買う金などない。だから無視して、目の前の深刻な問題のほうへ意識を向けるしかなかった。

 その問題とは、遭遇したあの謎の女のことだ。あの女は日向がまだ生きていると気づいて、必ず戻ってくる——日向はそう確信していた。その事実を考えるだけで、心臓が抑えようもなく暴れ出す。


「クソ、どうすればいいわけ?」


 あの女についての考えが押し寄せて日向を苛み、全身を血が駆け巡っていくのを感じた。頭の中で渦巻く恐怖のせいで、耐えがたいほど鋭い耳鳴りが鳴り響き、苦しさをいっそう煽り立てた。

 過去の光景が次々と頭をよぎる中、さっきの運動でかいた汗とは別の、緊張の汗が幾筋も頬を伝い落ちていった。


 傍らでは、チューリップが叫び、泣きわめいていた。日向が倒れた衝撃で、少女の頭蓋骨は砕けていた。声帯も気管も失い、首をあと少しで断ち切られたまま横たわる日向を見つめて、チューリップはどうしようもない無力感に呑まれていた。


 正直なところ、あの女がそこに立っているのに気づいた瞬間——襲われるより前に、逃げるべきだったのだ。そうしていれば、あんなトラウマになるような経験をせずに済んだのだろう。

 自分とチューリップを救ってくれたのが誰であれ、日向の心に湧いたのはかすかな感謝だけだった。それでも頬にはさっと赤みが差し、苛立ちが表情を歪ませた。


「でも、助けられるとか情けなさすぎるし……。マジで恥ずかしいんだけど」


「——あいつがぼやいてた女ってのは、アネさんのことかよ」


 絶望から引っ張り出そうとするみたいに、声が日向のほうへ飛んできた。戸惑いながら、日向は顔を上げた。

 数メートル先に立っていたのは、見覚えのある少女だった。その瞳には、束ねられた長い茶色の巻き毛が映り込んでいる。


「……あんた! あんたじゃん!」


「アァ? 何の話だよ」


 しっかりと顔を見た瞬間、日向は間違いなく前に会ったあの少女だと確信した。ぼろぼろの服の上から、緑のマントを羽織っている。あの深紅の瞳もまた、忘れようのない特徴だった。


 日向はすぐさま少女のもとへ駆け寄ると、その胸へ指を突き立てて睨みつけた。


「覚えてないふりしないでよ! 私を見捨てて、あのデブに滅茶苦茶に殴られてるのを黙って見てたじゃん! あと、私が臆病者だなんて思わないでよね。あいつが私をあそこまで痛めつけられたのは、武器を持ってたからってだけなんだから。私は弱くないし!」


 日向の妙な言葉と怒りを前にして、少女は胸を突いていた手を意外なほどの力で払いのけた。うっすらと赤い跡が残る。その場所をさすりながら、日向は「痛っ!」と驚いた声を上げた。

 一日に二度も喧嘩をするつもりはなかったので、日向はとりあえず見逃してやることにした。それでも、少女の体つきが自分より少し小柄なことを考えれば、やり合ったところで勝てる自信はあった。


「いいから離れろよ。俺はあんたなんか知らねぇし、何の話だっての。いいか、俺が聞いてるのは、あんたがクロードの『タマ』をぶっ潰したってことだけだぜ。へへっ——『タマ』。この言葉、なんか笑えるよな。口から転がり出てくる感じが最高だぜ」


「『タマ』って言葉で笑うとか、どんだけ子どもなの!?」


 男性器を指すだけのその単語に、少女は腹を抱えて、涙が出るまで笑い転げた。

 やがて笑いが収まると、少女は日向へ向かって手をひらひらと振りながら「はいはい」と言った。その直後、日向を検分しはじめる——周りをぐるぐる回り、腕を上げさせ、服をじっくりと調べ上げた。


「ちょっと、ちょっと! 触らないでよ! 私、人に触られるの嫌いなの、触らないで! もう少し他人のこと考えなよ!」


 日向はそっと少女を押しのけ、距離を取るように一歩下がった。すると茶髪の少女は、これ見よがしに目を回してみせた。


「で、その服とその仮面、いくらで売るつもりだよ? 俺は普通、外の物には興味ねぇんだ——そういうのはディーゼルの担当でな。俺は硬貨のほうが好きなんだよ。でもその服は、けっこうそそられるぜ……」


 少女は手を叩いて、その場で軽く飛び跳ねはじめた。日向にしてみれば「どこにでもある普段着」でしかないものを見ただけで、ずいぶん興奮しているらしい。それでも日向は首を横に振り、少女に向かって指を振ってから、リズムよく三度舌打ちをした。


「馬鹿なの? 服を取られたら、私は何を着ればいいわけ? あんたの提案を受け入れたら、私、下着だけになっちゃうじゃん。そんなことになったら、あんたのデブ友達のクロードみたいな変態がもっと寄ってくるかもしれないし。ってか、そういうのって法律あるでしょ——『公然わいせつ罪』とかいうやつ!?」


 日向が怒りをぶちまけていると、少女は唇を歪めて日向の腕を殴り、顔をぐっと近づけてきた。言い返す気力もない日向は、殴られた腕をただ擦っていた。


「うるせぇ! クロードのことを悪く言うんじゃねぇ! それに、俺を馬鹿呼ばわりする資格なんかあんたにはねぇんだよ! 馬鹿はあんたのほうだろ!」


「あんな変態を庇うわけ!? あいつはこの子を親から引き離そうとしたんだよ! やめたのだって、私がいたからってだけなんだから!」


「俺はクロードとは何年もの付き合いなんだ。あいつはそんな奴じゃねぇ! あのガキに悪意なんて持ってなかったんだよ!」


 どうやら大事に思っているらしい男について日向がまくし立てたことに激昂して、茶髪の少女は威嚇するように日向の襟首を掴み上げた。日向も負けじと少女の襟を掴み返し、二人は互いの襟を引っ張り合いはじめた。

 言い争いは唾を飛ばして怒鳴り合うところまで激化し、通りすがりの人間の視線をいくつも引き寄せた。互いを揺さぶるものだから、まだ背中にいたチューリップまで揺さぶられていた。


「うるさ——あ、やば! やばいやばいやばい!!」


 オレンジ色の陽の光が薄れはじめているのに気づいて、日向は即座に言い争いを打ち切った。夜になってから、また無防備なところを晒すわけにはいかない。


 少女の襟を離すと、日向は一気に緊張して、顔の汗を拭った。


「こんな子どもじみたことに時間使ってる場合じゃないし! 私は責任持って、大人らしく振る舞わなきゃいけないの! これじゃ真逆じゃん! 私はあんたとは全然違うんだから、あんたより上でいなきゃいけないんだよ! 暗いところにいるわけにはいかないの!」


「そんな性格じゃ、誰にも好かれねぇぜ。ってか、それより……あんた、暗いのが怖いのか?」


「私を好きな人なんていっぱいいるし! みんな私のこと好きなんだから! それに暗いのなんて怖くないし!」


 あの夜に起きた一連の出来事のせいで、日向のコルチゾール値は今まさに跳ね上がっていた。


 この場所のどこかで、闇の中で、自分の喉は鞭に引き裂かれていて、一秒ごとに苦しみ続けている。それでも心の奥底では、ある考えが何度も何度も浮かび上がってきた。これはただの幻なのかもしれない——なにしろ目の前の少女は、自分のことなんて知らないと言い張っているのだから。


 この光景を現実ではないと切り捨てられるもう一つの理由は、背中でまた眠り込んでいる少女の存在だった。すぐ隣で大量に血を流して横たわっていた、あの蒼白な死体とは似ても似つかない。

 要するに、二人は何事もなかったかのように無事で、穏やかだった。あの出来事の痕跡など、一つも残っていない。


「もういい。放っておいてよ。私はチューリップと泊まる場所を探しに行くから」


 ひとまず少女を無視して、日向は踵を返し、橋の端のほうへ歩きはじめた。だが突然、切迫した考えが頭をよぎって、その足が止まった。


 ——水一杯にすら金取ろうとしてきたんだから、泊まる場所だって当然お金取られるじゃん。


「——ちょっと、待ってよ!」


 日向は橋を駆け戻り、すでに通りへ出ていた茶髪の少女に追いついた。

 日向の呼びかけに応えて、少女は片手を腰に当て、片眉を上げ、上半身をひねって、日向の翡翠色の瞳を覗き込んだ。


「何だよ」


 その瞬間、日向の顔は恥ずかしさで真っ赤に染まり、額からは汗が滴っていた。日向は視線を落とし、パーカーの袖口をつまんだ。

 こんなことは死んでも聞きたくなかった。口に出してしまえば、今よりさらに十倍は惨めな気分になる。だが、ほかに手はほとんど残されていないようだった。


「あんたって……」


 ほかに手がほとんどないというのに、その言葉は日向の口からどうしても出てこなかった。それでも数秒の沈黙のあと、ようやく無理やり押し出した。


「あんたって、ホームレスとかじゃないよね?」


 その一言を口にするのに、日向は持てる力を残らず使い果たした。


 一方、歯を食いしばって恥ずかしさに震える日向を前に、少女は首を傾げ、片眉を上げて、心底わけが分からないという顔で日向を見つめていた。



                ▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲



 あの質問を口にするだけで、日向は心の底から勇気を残らず振り絞る必要があった。そしてその瞬間からずいぶん経った今でも、顔にははっきりと恥ずかしさの赤みが残っていた。


 意外なことに、茶髪の少女は日向を受け入れ、「賞金屋」と呼ぶ場所へ連れていった。

 そのみすぼらしい建物は、どうやら平民区の端——正確に言えば、スラムのすぐ隣にあるらしい。平民区とスラムは、日向が今いる「王都」と呼ばれる街を構成する五つの区画のうちの二つだった。


 茶髪の少女はその建物を、自分の「拠点」であり「繁盛している商売」でもあると説明した。だが内も外もこれだけ素人くさいのを見れば、まともな商売とは言いがたい。日向からすれば、寂れた喫茶店にしか見えなかった。


「何ぼーっとしてんだよ。さっさと中に入れって、アネさん」


 建物を睨むように眺めていた日向は、茶髪の少女と目が合っても、その表情のままだった。この状況が嬉しいわけではまるでない。それでもほかに選択肢がない以上、日向はため息をついて中へ足を踏み入れた。


 ——ダサ。この店、職人の技とかまるでないし、見た目も最高に格好悪いんだけど。


 中へ入ってみて、日向は自分の見立てがぴたりと当たっていたことを知った。この場所は、隅から隅まで完全に喫茶店だった。


 足を踏み入れた瞬間、湾曲したカウンターが目に入り、残りの空間には丸椅子が散らかり、くたびれたテーブルがひしめいていた。もう一つ目立ったのは空気で、埃っぽさに息が詰まりそうなほどだった。

 内装のセンスに関して言えば、茶髪の少女にはそれなりの才能があるらしい。とはいえ、完璧にはほど遠い。店の古びた、軋む壁一面には、手配書がべたべたと貼りつけられていた。


「クロード、いい加減起きろ! 客だぜ!」


「あぁ? 誰を連れ込んできやがった……」


 カウンターの奥から、茶髪の少女の命令口調に応えて、けだるげな声が返ってきた。ようやく身体を起こしたその男と、日向は「あのデブ」として知っている相手と目を合わせた。

 その風貌は全体的に吐き気を催すものだった。長い茶髪はぐしゃぐしゃで、生えかけの無精髭も伸び放題。服にこびりついた酒の染みとよだれまで合わさって、日向は心底うんざりしたように舌を出した。


「おい……」


 男は目を見開いて、日向へまっすぐ指を突きつけた。


「てめぇ、さっきの女じゃねぇか! あの落とし前、きっちりつけさせてもらうぜ、このクソアマ!」


 男はカウンターを飛び越え、扉のそばでかなり離れて立っている日向へ突進しようとした——が、その攻撃は茶色の巻き毛の少女の掌に、あっさりと押し止められた。


「やめろ、クロード。俺はこいつと約束したんだ。あんたが暴れたら、こいつが約束を反故にして、この仮面を持っていっちまうかもしれねぇだろ」


 少女は日向から譲り受けたピエロの仮面の縁を掴むと、追い払うようにクロードの顔の前で鋭く振ってみせた。


 茶髪の少女にはいくらか敬意を払っているのか、男はその頼みを聞き入れた。ぶつぶつと文句を漏らしながら長い茶髪を掻き上げ、カウンターの陰に隠れていた丸椅子を引っ張り出すと、どすんと重い音を立てて腰を下ろす。その衝撃で、椅子は今にも壊れそうなほど大きく軋んだ。


「椅子がかわいそう……」


 クロードが座った椅子に同情しているうちに、いつの間にか夜になっていた。建物の窓から外を見れば、夜空に星が瞬いているのが見える。

 今夜はあの星空の下で眠らなくてもいいし、怯えながら走り回らなくてもいい。そう思うと、日向の胸に静かな安堵が広がっていった。


 日向がまだ扉のそばに立っているのに気づいて、少女は目を細めた。


「こっち来いよ。あの約束について、もうちょっと話したいんだ」


 少女はカウンターへ丸椅子を引き寄せて腰かけると、日向を手招きした。その呼びかけに応えて、日向は広々とした店内を横切り、使われていない丸椅子を少女の隣まで引きずってきた。

 腰を下ろし、さっきまで眠っていて今は目を覚ましているチューリップを膝に座らせると、クロードは相変わらず殴りかかりたくてうずうずしているような、殺気立った目で日向を睨みつけ続けていた。正直、あの視線のせいで、不快な嫌悪感が内側から込み上げてきた。


「よし。俺の名前はマデリンだ。さっき聞いた話じゃ、泊まる場所が欲しいんだったよな。ほかには何が欲しいんだ?」


「——道案内」


「ああ、そうだったな」


 泊まる場所のほかに、日向は街の道案内も頼んでいた。その日の昼間なら、外を通る人たちに道を尋ねることだってできたはずだ。だがあの頃の日向は、まだそこまで切羽詰まってはいなかった。今回は違う。

 茶髪の少女——マデリンはカウンターに肘をつき、支えているほうの手で自分の巻き毛をいじった。それから、少し訝しげに片眉を上げて日向を見た。


「こういうのは珍しいぜ。普通、俺やクロードのところに来る奴は、賞金首の狩りに出してくれとか、そういう話ばっかりだからな。こんな依頼は滅多にねぇ。ってか、滅多にどころか——今までに一度もねぇよ。俺が引き受けたのだって、この仮面に一目惚れしたからってだけだ」


 左手に持っていた仮面をカウンターへ置いて、マデリンはにやりと笑った。だが日向は無表情に見つめ返すだけで、マデリンの頭の上には困惑のはてなマークが浮かんだ。


「賞金稼ぎって違法じゃん」


「そうだな。それがどうした?」


「——あんた、犯罪者じゃん。馬鹿なの? 捕まるよ。恥ずかしいって思わないわけ? まともな仕事に就きなよ」


 日向は失望していた。

 日向の刺すような一言と、まるっきり失礼な分析を前に、マデリンは驚いて目を瞬かせ、ため息をついた。丸椅子に座ったまま、目の前のカウンターへ体重を預ける。


「俺たちみたいなのが、ここで生きていくにはこれしかねぇんだよ。俺たちみたいな薄汚い連中は、外にいる貴族どもに受け入れてもらえるわけがねぇ。俺は貴族が嫌いだ。あいつらは最低だぜ」


「……賞金稼ぎってことは、人を殺したりするわけ?」


 マデリンは大笑いして、カウンターを拳で何度も叩いた。すかさずクロードも笑い出し、日向には自分の何がそんなに二人のツボに入ったのか、まるで見当もつかなかった。


「はははっ! いやいや、まさか。俺たちはただ標的を特定して、依頼人に引き渡すだけだ。とはいえ、クロードは必要とあらば殺すけどな。まあ、そのあと標的がどうなろうと、俺には関係ねぇんだよ。分かるか?」


「——ああ、こいつの言う通りだぜ。やらなきゃならねぇなら、俺は殺す」


 割り込んできたのは、カウンターの向こうに座ったままのクロードだった。その一言を吐き捨てると、心の底から怒りが込み上げてくるみたいに日向を睨みつけた。だが仮に襲いかかってきたところで、日向は叩きのめせる自信で満ち溢れていた。


「ところで——あんたの名前、日向だったよな。さっきそう言ってたし」


「うん。でも『日向』でいいから。敬称とか付けないでよ」


「了解。ってか、どこへの道案内が要るんだ? それと、何でその小さいのを、赤ん坊みたいにずっと膝に抱えてんだよ」


「——別に王都で迷ってるから道案内が要るってわけじゃないし。ただ、今まで起きた出来事が全部頭を占領してて、道を考える余裕がなかっただけなんだから。でも、自分が特別だとか思わないでよね。あんたの助けなんかなくたって、私一人でこの街くらい普通に回れるし」


「————」


「————」


 自分の方向感覚の良さを見せびらかすような日向の余計な独り言に、マデリンとクロードは苛立った視線を交わし合った。それから日向へ向き直って、マデリンはため息をついた。


「俺の質問に答えてねぇだろ。正確にどこへ行きたいんだ? もう次の質問をする気も失せてきたぜ……」


「そうだった。私、この子の親を探さなきゃいけないの。王都を走り回ってる間に、この子が『うちの親はどんな果物でも売ってるお店をやってる』って教えてくれたから」


「ふうん……」


 マデリンは考え込むように顎を掻いて、宙ぶらりんの足を組んだ。


「ああ、その店なら知ってるぜ。さっきそこのアブルを食ったばっかりだ」


「そりゃそうでしょ——あんた、あの男の子から盗んだんだから。もう二重に犯罪者じゃん。違法な賞金稼ぎで、しかも泥棒」


「何でそんなこと知ってんだよ。まあいい、どうでもいいや。でも道案内は別料金だぜ」


「——は? ふざけないでよ! 思いやりのある人間なら、道案内くらいタダでするでしょ!? ってか、どんだけ自己中なの? 私がこんな小さい子を連れてるの見ておいて、それでもお金取るわけ!?」


 道案内だけで金を取られると聞かされて、日向は感情のまま爆発し、すぐさま少女を罵りはじめた。正直、到底許せることではなく、日向はマデリンもクロードも、ただの強欲な人間だと心底軽蔑しはじめていた。

 だがマデリンは、見下したような顔で日向へ指を振ってみせただけだった。


「いいか。この辺じゃ商売ってのはそういうもんなんだよ、特にスラムじゃな。俺の出身はそこだ。気に入らねぇなら、よそで用を済ませてこいよ。本当ならとっくに客を探しに出てる時間なんだ。あんたは俺の時間を無駄にしてるだけだぜ」


 無礼としか思えないマデリンの言葉と態度に、日向は唇を噛み、眉根を深く寄せて、怒りに燃える表情を浮かべた。


「地獄に堕ちろ、この犯罪者! 私が密告する人間じゃなくて感謝しなよ。じゃなきゃ警察に通報してるところだし! でも、ほかに手がないんだから、仕方ないじゃん!」


 日向はポケットを漁って、二つの品をカウンタへ叩きつけた。一つ目は最新のスマートフォンで、青いケースに入っていて、端にはチャームがぶら下がっている。二つ目は、はち切れそうなほど中身の詰まった黒い革の財布だった。

 日向が品物を置くと、クロードもマデリンも、じっとそれを見つめた。まだ恥ずかしがって口を開けないチューリップまでもが、日向の膝に座ったまま、ちらりとそれへ目をやった。


「——具体的に言うとね、私、このふざけた世界じゃ完全に無一文なの。比類なき貧乏。だから、これが私の持ち物の全部」


 日向とスマホを交互に見比べながら、マデリンはその四角い物体へ手を伸ばした。だがその瞬間、日向の目に警戒の色が走った。


「取らないでよ! それ、私に必要なんだから!」


「じゃあ何でカウンターに置いたんだよ!? どういうつもりだっての!?」


「うるさい! 取るなって言ってるでしょ!」


 カウンターからスマホを奪い返すと、日向は汗ばんだ顔で、それを見つめていた二人へ怒りの目を向けた。だが日向の失礼な態度にマデリンが言い返そうとしたまさにその時、二人は突然、何かに夢中になりはじめた。


「うおっ……こんなもん見たことねぇぞ」


「え?」


 戸惑いながら、日向は目を細めて視線を落とし、二人が何の話をしているのかを探った。どうやらスマホを動かした拍子に画面が点灯して、ロック画面が表示されたらしい。

 極めてシンプルなロック画面で、夢中になるようなものは何もない。ベースの色は青で、そこにちびキャラのイラストが一つ。スマホケースのデザインに合わせる、ただそれだけの目的で選んだものだ。


「これマジですげぇぞ、マデリン。もしかしてこれ、例の装置ってやつか?」


「ああ、魔法を使うあの装置みたいだな」


 マデリンの顔は、生まれて初めてチョコレートをもらった子どものようだった。日向から安っぽいプラスチックの仮面を受け取った時の反応と似ている。


 日向は手持ちのカードをすべて並べてみせたのだ。交渉では、手元にあるいちばん見栄えのするものを提示すべきだと学んでいた。そういう手管が相手を引き込む。日向の知る限り、マデリンはかなり簡単に感心するタイプだった。

 マデリンの口から感嘆の言葉がこぼれるのを聞いて、日向は満足げな表情で微笑んだ。


「そうでしょ。これは最先端の機械なの。すっごく高いんだから。でも私はこういうの買えるし。だってお願いすれば、お母さんが毎回二万三千円もお小遣いくれるんだもん。感心した? こんなの見るの、たぶん初めてでしょ。見せてもらえて感謝しなよね」


 ——この人たち、ちょろいし。その気になれば、携帯電話みたいな進んだ技術をこの世界の人たちに広めることだってできるんだから。そうなれば、私の名前は絶対に知れ渡るでしょ。


「んー……だが何かおかしいぜ。呪文起動装置ってのは、魔法なしで想像もつかねぇことを可能にする代物だ。だがこいつは違うみてぇだな。普通は表と裏に紋章が入ってるもんだが、あんたのやつには何もねぇ。どうやって動くんだ?」


 クロードの疑わしげな視線を浴びた瞬間、日向の額には冷や汗が滲みはじめ、やがて幾筋にも分かれて頬を伝い落ちていった。


 だが、この品について何も知らないクロードたちが自分に尋ねてきたことで、日向の笑みはますます勝ち誇ったものになった。


「この呪文起動装置はね、『携帯電話』っていうの。時間も分かるし、アラームもかけられるし、宿題の答えを調べることだってできる——まあ、私は絶対そんなことしないけど——そして何より、これが発明された一番の理由はね……遠くにいる人と話せるからなの! 私、友達が何百人もいるから、いつもメッセージ送ったり電話したりしてるし! ふふん、私ってすごいと思う?——じゃなくて、この電話がすごいって話ね!」


 それを聞いて二人は頷き、マデリンは意外なほど素直な返事をよこした。

 だがその直後、今の表情から察するに、どうやら飽きて興味を失いはじめたらしい。その価値にも使い道にも、まるで関心がなかった。


「悪いな、俺はあんまり興味ねぇんだ。それに、その財布に使える金が入ってねぇなら、そっちも要らねぇよ。俺が欲しいのは金だ。どこの国だか分からねぇガラクタじゃねぇ」


「はぁ!? でも仮面は受け取ったじゃん! 仮面だってお金じゃないでしょ!?」


 日向のプライドは一瞬で粉々になった。貴重な発見を褒められるどころか、さっきの驚いた顔にまんまと騙されていたわけで、日向はうなだれて肩を落とし、敗北を認めるほかなかった。


「いいか。俺は賞金稼ぎであって、物々交換の商人じゃねぇんだよ。ああ、あの仮面には夢中になったし、気に入った。だが本当は、いざって時に顔を隠すために欲しかったんだ。。で、この財布に金は入ってんのか? 今にもはち切れそうに見えるが」


 退屈そうな表情を浮かべたまま、マデリンは日向の財布の黒い革を指でなぞりながらそう言った。


「ああ、俺も興味ねぇな。そもそも俺がそのガキを連れてったのは、王都のどこぞの貴族の女が、子どもができねぇってぼやいてたからだ。だったらこのガキを、その女に売り飛ばしてやろうと思ったんだよ。金持ちそうだったからな、間違いなく大金になったはずだぜ」


「貴様、変態じゃん。それ、人身売買っていうんだけど。そんなことしたら刑務所行きでしょ。ってか、私は携帯を渡す気なんて絶対ないから。これがなかったら退屈で死んじゃうし。あと、財布にはちゃんとお金入ってるし」


 そう言って、日向は縫い目からはち切れそうな財布のファスナーを開けはじめた。ファスナーが開くと、山のような現金がこぼれ出た。


「知らないみたいだから教えてあげるけど、これは円のお札。外国のお金だよ。こういうお金は簡単に手に入るの。だってお母さん、喜んでくれるんだもん」


 札束に続いて、大量のデビットカードと会員証が飛び出してきた。道案内と引き換えに手放してもいいと日向が考えていたのは、これだけだった。携帯や服を渡すなど、絶対にあり得ない。それくらいなら、もう三時間走り回ったほうがましだ。

 携帯電話は日向にとって最大の娯楽であり、絶え間ない勉強と陸上の練習を終えたあとの、日常そのものの土台だった。


 五千円札から一万円札まで、とんでもない量の紙幣をぱらぱらとめくりながら、マデリンはまたしても首を横に振った。その仕草が、日向のプライドをまたも粉々にした。


「チッチッチ。悪いが、こんな変な外国の金には興味ねぇんだ。こんな形の硬貨を使ってる国なんて、あるわけねぇだろ? こんなもん抱えてたって、俺の損にしかならねぇのは明らかだ。そう思わねぇか?」


「んー……ああ、俺もだ」


 テーブルに散らばった大量のデビットカードと会員証をまとめながら、日向は呆れたように目を回した。カードの列に沿って指を滑らせながら、日向は言った。


「えっと……これは? これにはお金入ってるし! このカードには九万円くらい、これには七万、これはたぶん四万五千、あと——この会員証があればジムとかにも行けるんだけど——」


「外国のもんには興味ねぇって言っただろ! もう言ったぜ! まったく。銅貨と銀貨を山ほど持ってこねぇ限り、道案内はしてやらねぇよ」


 マデリンは立ち上がり、木くずの散らばった椅子に座ったままの日向を見下ろした。その深紅の瞳に苛立ちが走り、日向の歯をへし折りたい衝動を必死に堪えているようだった——それを見て、日向はこっそり中指を立ててやった。

 だがクロードが汚れた手を肩へ置くと、マデリンは落ち着きを取り戻して顔を背けた。


「俺たちはどっちもこんなもんは要らねぇが、てめぇを助けてくれる奴が一人いるぜ」


「ああ、そうだったな——ディーゼルだ! あいつなら絶対こういうものに興味を持つぜ。俺たちと違って、あいつは何にでも興味を示すし、しかも収集家だからな。どのみち今夜はここに泊まるんだ、あいつが来るのを待ってりゃいい。このカウンターの裏にあんなに物が並んでるのも、手配書がべたべた貼ってあるのも、全部あいつのおかげなんだよ」


「へぇ、マジで? この店が汚いからそうしてるんだと思ってたし……」


 クロードが立っているカウンターの裏には、大量の品物が並んでいた。珍しい酒、剣、それに日向には用途のよく分からないものが色々と。とはいえ手描きであるにもかかわらず、手配書は驚くほど細かく描き込まれていた。

 この時代に写真などあるはずもないので、目撃者の証言をもとに似顔絵師が描いたのだろうと日向は推測した。数えてみたところ、少なくとも五十枚はあった。


「——そこに行き着くのかよ!? 俺たちは賞金稼ぎだぞ! 手配書があるに決まってんだろ!」


「まあいいや。で、そいつはいつ来るわけ? あと、お腹すいた」


 日向が言い終えた瞬間、マデリンはクロードに、二人分の食事を用意するよう命じた。

4日間連続で投稿を続けていますが、これまでに読んでくださった方々の数に嬉しく思っています。

私の作品がより多くの方々に届きますよう、おすすめや評価をいただけるとありがたいです。

また、フィードバックもお寄せください。厳しい意見も構いません。大きく成長したいので、どんなフィードバックも参考になります。

質問も大歓迎です。今後の設定をネタバレしない範囲で、どんな質問にもお答えします。

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