第一章6 『救い主の二度目の救出』
「——おい、嬢ちゃん。大丈夫かにゃ?」
「え?」
気がつくと、日向は青い髪に猫耳を生やした、いかつい顔の男の前に立っていた。口から漏れた間の抜けた声に、男は眉と尻尾をわずかに持ち上げた。
その隣には妻が立っていて、こちらは夫とは正反対の、柔らかく穏やかな顔立ちをしている。
——だが、分析している場合ではなかった。今この頭をぐちゃぐちゃにしている感覚のほうへ、意識を向けなければ。日向は眉根を寄せ、無意識のうちに自分の頬をつねった。
「聞いてるのか? 大丈夫かって聞いてるんだにゃぞ」
もう一度声をかけられた。ぼんやりしていたところを引き戻され、日向はその声へ意識を集中させた。目の前で腕を組んでいる、あの男の声だ。
自分を心配してくれている相手に返事をするくらいは、最低限の礼儀だった。
「うん……」
「そうか、そりゃよかったぜ。あんた、さっきはちょいと不気味だったからにゃあ。特に、いきなり自分の首を掴みはじめた時なんかは」
「え?」
言われてみれば、何かが喉を締めつけているような感覚があった。見下ろしてみると、自分の首を絞めていたのは自分の手だった。日向は軽く驚いて、ゆっくりとその手を離すと、具合を確かめるように指を動かしてみせた。
それから、赤くなるほど強く頬をつねっていたもう片方の手で、喉仏に沿って指を一本すべらせた。
みんな変な目で私のこと見てるし……。嫌なんだけど。もう変なことするのやめよ。
妙な視線に気づいて、日向は慌てて両手を体の脇へ下ろし、鼻から息を吐くと、落ち着かない様子で眉根を寄せながら、二人の目をまっすぐ見返した。
「えっと、その……娘さんのチューリップ、私が探しに行くから。うん、絶対見つけるし」
「あん? まあ、ありがてぇけどよ……何であんた、あの子の名前を知ってるんだ? 教えた覚えはねぇんだがにゃあ」
がっしりとした体格の男——クレンドキンは、困惑したように後頭部を掻いた。それを見て、日向の目は驚きに見開かれ、冷や汗が一筋、頬を伝い落ちた。
「あ、うん、そうだよね。私も教えてもらった覚えないし。でもまあ、ちゃんと連れて帰ってくるから」
猫の夫婦に手を振って別れを告げると、日向は慌ててその場を離れ、通りを歩きはじめた。歩きながらも、何度も首のあちこちに触れては、指でなぞり続けていた。
「今の、何だったわけ……? 私、ラリってんの?」
その問いに答える者は誰もいなかった。日向の頭の上には、はてなマークが一つ、ぽつんと浮かんでいた。
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この時点で、日向は最初にいた場所から十一キロほど歩いていた。
歩けば歩くほど、人通りはまばらになっていく。それでも、時折すれ違う巨大な蛇に牽かせた馬車を別にすれば、歩いている人間の数はまだかなり多いほうだった。
「ここ、けっこう暖かいんだよね……。でも、耐えられないほど暑いわけじゃないし。何かテキサスみたい」
日向がそんな比較をできたのは、数年前に家族でテキサスへ行ったことがあるからだった。特に理由があったわけではない。ただ旅行に行けるだけのお金があって、母がどうしても休暇を取りたがっていた、それだけのことだ。
最初の二日間は楽しかったが、三日目に州を猛烈な熱波が襲った。あまりの暑さに、身体に当てる保冷剤へ大金を使う羽目になったほどだった。
「目的を見失ってる場合じゃないし。だって私には責任があるんだから」
歩き続ける日向へ、物珍しげな視線がいくつも向けられた。その妙な眼差しは、猫の夫婦と話していた大通りの頃からずっとついてきているようだった。なぜだか、この人たちの自分に対する品定めするような態度が変わっていないことに、日向は少しほっとしていた。
「えっと、まだ同じ日……だよね? うん、たぶんそうだし」
日向はぐるりと三百六十度回って周囲を見渡してから、空を見上げた。目を細め、首を傾げて、しばらく太陽を眺める。
二十四時間も経たないうちに、日向は昼と夜を二度ずつ経験していた。まずスーパーで買い物をしていた夜、それからこの世界へ来た昼、そして頭を打って目を覚ました夜だ。
「パーカーの裂け目はまだあるし……。私に向けられる変な視線も相変わらずだけど、喉の傷はなくなってる。でもまあ、また息ができるのは普通に気持ちいいよね」
その考えに気をよくして、日向は肺へ空気が入ってくる感覚を味わうように、何度も速く息を吸いはじめた。だがしばらくすると、かなり頭がくらくらしてきて、やめざるを得なかった。
軽いめまいから立ち直ると、日向は頭に手を当てて、自分の首がもう少しで切り落とされそうになったことを思い返した。
——鞭のような武器で襲われた。身体に打ちつけられた感触から、日向にはそれくらいは分かっていた。
喉を切り裂かれた光景は凄惨だった。首はあと少しで真っ二つになるところだったのだ。完全に断ち切られるのを防ぎ、辛うじて繋ぎ止めていたのは、わずかな肉と皮の切れ端だけだった。
血が溢れ出していく様子も、あの恐ろしい痛みも、日向は覚えている。身体を限界まで追い詰めた、頭の中で渦巻いていたあの恐怖だって、別の形をした痛みと数えていいだろう。それなのに今の日向は、何事もなかったかのように、どこにも傷ひとつない。
——私、頭おかしくなってるのかな? もしかしてドラッグでもやってる……? いや、ドラッグって違法だし。私、違法なことは絶対しないんだから。やったら犯罪者になっちゃうし、犯罪者になんてなりたくないもん。でも仮に犯罪者になったとしても、私なら悪事を隠すのけっこう上手いと思うんだよね。テレビに出てくる犯罪者って馬鹿ばっかりだし、いつも捕まってるじゃん。
とにかく、自分から進んでドラッグなんて絶対やらない。まず気持ち悪いし、それに一発で中毒になるんだから。やめられたって言ってる人もいるけど、どうせネットで自分を慰めるために嘘ついてるだけでしょ。ほんと、負け犬の集まりだし。
思考に浸りきったあと、日向は持ち物がすべて残っているか確かめるように、自分の身体を軽く叩いていった。案の定、何ひとつ欠けてはいなかった。スウェットの綿地越しに、スマホと財布の輪郭が指に触れる。頭を叩いてみれば、横に留めたままのピエロの仮面の感触もあった。
——正直、仮面がまだ頭に付いてることなんてすっかり忘れてたし。いろんなことが一気に起こりすぎて、そこまで気を回す余裕なんてなかったんだから。
「死……」
ふいに、その話題が頭の中へ浮かび上がってきた。
あの醜悪な傷や、血まみれになった自分の身体を語ること以上に、日向の心がいちばん深く考え込みたがっていたのは「死」だった。
日向は、自分の身体が死んでいく感覚を覚えている。喉を切り裂かれれば当然そうなるであろう自然な現象——手足の痺れ、心臓が止まっていくこと。それなのに、意識だけは何事もないかのように生き続けていたのだ。
「で、瞬きしたら、私は普通に立ってた……」
まさにその通りのことが起きた。ほんの一瞬だけ目を閉じたはずなのに、開けた時には日の光が差し込んでいたのだ。
「あの女……」
自分をあんな目に遭わせたのは、とある女だった。だとすれば、この世界の女は全員敵とみなして、犯人と思われる人物を追い詰めるべきだ——日向はそう考えた。
だが、もしこの世界の女の誰かが、自分の命を救ってこの場所まで連れ戻してくれた人物だったとしたら? そうだとすれば、その人はとんでもない名医ということになる。もしかしたらこの世界には、死者を蘇らせる薬まであるのかもしれない。
——それめっちゃかっこいいんだけど……。でも、どうせ高いんでしょ。私はお金あるから、たぶん払えるし。でも円ってこの世界じゃ価値ないんだから、実質、私は無一文なんだよね。ってことは、やっぱり払えないじゃん。
「話が逸れた! 今の任務のこと、完全に忘れてたし!」
思考に没頭しすぎて、日向はすぐ隣で死んでいったあの小さな少女のことを、すっかり忘れてしまっていた。
あの脆い頭蓋骨は地面へ強く叩きつけられ、少女は大量に血を失って死んだのだ。
「そもそも気にする必要ある……? いや、気にしなきゃだめでしょ。あの子、死ぬ直前に私の名前を呼んだんだから。私が気を失ってる間だって、私を信じてずっと傍にいてくれたし……。あの子を見捨てるような冷たい人間には、なれないよね……」
——私って本当に優しい心の持ち主だし。まさに利他主義のお手本なんだから。
それでも、日向は自分の無力さを感じ、それが嫌でたまらなかった。自分には長所がたくさんある。そのイメージを守るためには、もとの世界にいた頃と同じように、役に立つ人間であり続けなければならない。馬鹿だと言われることも、才能のない、将来性もない凡人だと決めつけられることも、日向には到底耐えられなかった。
「え?」
新しい周囲の景色を見回して、日向は今いる場所がやけに見覚えのあるもののように感じた。自分が座っているものの表面を指でなぞりながら、日向は——
「橋の上じゃん! っていうか、いつの間にここに来たの!? 私、どんだけ考え込んでたわけ!?」
日向には、深く考え込んでいる時に無意識のまま歩き回ってしまう癖があった。かなり厄介な癖で、以前は学校からの帰り道に、家を通り越して五キロも歩いてしまったことがある。それにしても、最悪のタイミングでその癖が発動したのは気まずかった。
「どうやってここまで来たのか全然分かんない。ちゃんと気をつけてれば、何かしらのルートも分かって、クレンドキンたちのところへ簡単に戻れたのに。クソ……自分の無能さに腹立つんだけど」
頬にさっと赤みが差し、日向は歯を食いしばって、怒りのまま橋へ拳を叩きつけた。だがその怒りが完全に燃え上がる寸前、大人の男の呻き声と、聞き覚えのある小さな少女のすすり泣きが耳に届いた。
「待って……嘘でしょ!?」
振り返ると、建物の角の向こうへ消えていく緑色の髪が、数本だけ視界をよぎった。
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「やっぱり! 私の言った通りじゃん!!」
角を曲がりながら日向はそう叫び、男へびしりと指を突きつけた。確信に満ちたその声に振り返った男は、無精髭の生えた顔の唇を、うんざりしたように歪めた。
「あぁ? 何だよ。何の用だ。文句でもあんのか」
「あるに決まってんでしょ、このクソ野郎!! 貴様、その子を離せよ、この気持ち悪い変態が!」
顔に緊張の汗を滲ませながら、日向は大きく口を開き、正義の怒りに任せて男へ怒鳴りつけた。地面をしっかりと踏みしめ、あからさまな敵意を込めて深く眉根を寄せる。
男の巨体は、痩せた大人を三人分まとめたくらいの重さがありそうだった。顎から滴る酒と、ぼろぼろのシャツに染みついた汚れが、その育ちの悪さと品性のかけらもなさを雄弁に物語っている。どうしようもない穀潰し、それ以外の何者でもない。取り柄など一つもない。日向とは正反対の人間だ。
「——だから、またボコボコにされたくなかったら、その子を離せっての!」
クエスト中に雑魚の群れやボス戦に出くわすなんて、日常茶飯事だ。同じクエストを何度も受けるのだって珍しくもない。これは「レベル上げ」と呼ばれる一般的な手法で、日向にとってこの世界は一つの巨大な遊び場なのだから、資金が上限に達するまでこのクエストを繰り返すつもりだった。
「お前、さっきから何の話を——」
「いい、貴様! この子をまた誘拐するなんて、そんな馬鹿なことをどうしてやるのか、私には本気で理解できないんだけど、この大馬鹿! あ、待って——もしかして、私がここに戻ってくるって分かってて、リベンジしたいからまた誘拐したわけ? ふん、情けないったらないし!」
勝ち誇った笑みを浮かべて、日向は鼻筋を伝う汗を拭い、戦闘の構えを取った。本気で拳を使うつもりなら、その構えはかなりお粗末なものだったが、おそらく本人はその瞬間、格好つけたかっただけなのだろう。
普通、相手の素性も知らないままぶちのめせば、そいつは仲間や組織の連中を連れて戻ってくる。それこそ組織ぐるみで出てこられたら、こっちは殴られるなり殺されるなり、甘んじて受け入れるしかない。日向にとって「ゲームオーバー」という選択肢だけは、絶対にあり得なかった。
とはいえ、この男には少なくとも度胸はあった。小娘に恥をかかされておきながら、一人で戻ってくる自信があるというのは——いい年をした大人の男としては、なかなか肝が据わっている。普通なら、二度と顔を出せたものではない。
「——よくもそんな口が利けたもんだな! 俺を舐めたらどうなるか、このガキに教えてやるぜ!!」
「声がでかいだけの無知じゃん! さっさとくたばれ、デブ!」
日向の足は速かった。一瞬で距離を詰めると、先手を取って足の裏を男の前歯へ叩き込む。その直後、がら空きの脇腹へ回し蹴りを叩きつけ、男を地面へ吹き飛ばして転がした。
無鉄砲になっていた日向は、チューリップのことなど何ひとつ考えていなかった。おかげで少女は男の手からは逃れられたものの、同じように地面へ投げ出されていた。
「よし!」
日向はすぐさまチューリップの前へ滑り込み、両腕を広げて少女を庇った。
「この下品な女が! 俺によくもこんな恥をかかせやがったな!」
男——いや、「クロード」が顔を上げた。あらわになったその顔からは、鼻と歯茎から血が噴き出していて、蹴りで折ったのであろう歯が一本、抜け落ちていた。
脇腹への蹴りのせいで男が息をするのもままならないでいるのが、日向には見て取れた。その事実が、日向は少しばかり嬉しかった。
ふらつきながらも、クロードはしつこく立ち上がった。そして日向へ躍りかかってきた。
突進してくる男を見つめながら、日向の顔は悪魔じみた笑みに歪み、さらに挑発するように中指を立ててみせた。
距離を詰めた太った男は、唾を飛ばし汗を撒き散らしながら拳を振り上げ、日向の頭上へ叩き下ろそうとした。日向はその脛へ容赦のない一撃を入れる。だが男は痛みを無視して突っ込んできた。虚を突かれた日向は隙を作ってしまい、男に両肩を掴まれた。
——クソ、まずい!
「捕まえたぜ! てめぇをボコボコにして、俺専用の奴隷にしてやる! 次からは調子に乗るんじゃねぇぞ、このアマ——」
「男にあって女にないもの、知ってる!?」
男の言葉を遮って、日向はその顔面へ真正面から問いを叫びつけた。
「黙れ、このガキが——」
「——タマだよ!!」
日向は足を引き、渾身の力で男の股間へ蹴り込んだ。その脚力は化け物じみていた。衝撃が入った瞬間、男の目には涙が浮かび、その場に崩れ落ちる。息をすることさえできていないように見えた。
のたうち回って震える男を眺めながら、日向は馬鹿にするように舌を出し、その方向へ唾を吐いた。.
「私、腕は弱いから接近戦は得意じゃないけど、脚は専門分野なの! だから避けるのと蹴るのが得意なんだよ! スポーツで頂点狙ってる女を舐めんなっての。レッグプレスは三百キロ超え、スクワットは九十キロ、四百メートルは四十五秒台の半ばで走れるんだから」
昔、日向の従兄弟が学校の運動会でかけっこ勝負を挑んできたことがある。日向はそいつを完膚なきまでに叩き潰し、自信をへし折ってやった。そいつはその場で、入っていた陸上部を辞めた。ほかの生徒たちにも、日向はわざと同じことを何度もしてきた——学力でも運動能力でも、とりわけ下半身の力で相手を上回ってみせるのだ。注目を浴び続けてきた人生の中で、日向は一度もトレーニングを怠らず、常に限界を押し上げてきた。
地面の男は、麻痺したように倒れ込んだままだった。苦悶にのたうつ間すら与えず、日向はその上に立ちはだかると、容赦なく顔面を踏みつけ、瞬く間に意識を刈り取った。男は白目を剥いて気を失った。
「自業自得だし、このクソ野郎! さっさと刑務所行ってこいよ、この変態!」
日向は気絶した男へ中指を立ててから、くるりと振り返り、緑髪の少女を両腕へ抱き上げると、喜びのままに飛び跳ねて踊りはじめた。
「助けたよ、チューリップ! 大丈夫、お礼なんて言わなくていいからな! これも仕事のうちだし! ……いや、やっぱりちょっとくらい褒めてくれてもいいかも。えへへ!」
腕の中の少女は混乱しきって何も言えずにいたが、抑えきれない震えが、まだ怯えきっていることを物語っていた。
見回してみると、さっきまで人けのなかった路地には、今や黙って喧嘩を眺めていた野次馬が異様なほど詰めかけていた。誰もがその結末に呆然として息を呑んでいるようだったが、日向は舌を出し、中指を突き立て、それから——
「あんたたち、おかしいでしょ! 小さい子が誘拐されるのを黙って見てて、誰も助けなかったわけ!? それでよく『善人』なんて名乗れるよね!? 全員クソ野郎じゃん!」
とはいえ、自分が同じ立場だったら、日向もきっと同じことをしていただろう。結局のところ、人は自分に得がなければ他人のことなど気にかけない。褒め言葉や金という報酬で自分の欲が満たされなかったなら、日向だってそもそもこの仕事を引き受けたりしなかった。
罵声を浴びせ終えると、日向は通りに背を向け、橋のほうへ歩きはじめた。




