第一章5 『予定された結末、しかし届かず』
日向にとって、目を覚ますというのはとてつもなく面倒なことだった。瞼を開けた瞬間、考えたくもないことや、現実という居心地の悪い自覚が、どっと押し寄せてくる。だから目覚めるのが嫌いだった。何もかもが、うんざりするほど退屈なのだ。
目覚めが嫌いな理由なら、掘り下げればきっといくらでも出てくるのだろう。だが、そんなことをするよりは、比喩で言い表してしまうほうが手っ取り早かった。穏やかな花畑に寝転んでいたら、花粉に取り憑かれた蜂どもに邪魔される——そんな感じだ。日向がいつも持ち出すのは、その比喩だった。
無理やり瞼をこじ開けると、日向は差し込む月明かりに目を細めた。視線を引き寄せたのは、その光だった。光を落としている月は三日月で——しかも、ぎざぎざに欠けた三日月だった。
一度目が覚めてしまえば、もう起きているほかない。
「あの……」
左のほうから、小さな声がした。何時間も喋っていなかったみたいに掠れた声だった。日向がそちらへ顔を向け、その声の主を目にした瞬間、ここに至るまでの出来事が一気に頭へ流れ込んできた。
「気を失ってたから、ここまで引きずってきたにゃけど……お姉ちゃん、私にはちょっと重すぎたかも……」
話しかけてきたのはチューリップ——ついさっき日向が助けた、あの少女だった。けれどもう夜になっている。どうやら「ついさっき」というのは、数時間前のことらしい。
「重いとか言わないでよ。私、太ってないんだから」
日向は落ち着かない様子であたりを見回し、鋭い痛みが脈打つ頭をさすった。その顔には、かすかな困惑と、疲れの色が浮かんでいる。
いるのは路地裏だったが、さっきまでの場所とはずいぶん様子が違っていた。前のところと比べると出口が両側にあり、幅もはるかに広い。もっとも、左側は板で塞がれているので、出られるのは右だけだった。
「私、あんまりお喋りじゃにゃくて……。誰かに助けを求めるのも怖かったし、一人でお父さんとお母さんを探すのも怖かったの……。お姉さんと一緒にいるのが、一番いいと思ったにゃ……」
「……ああ、そう」
日向は唇をすぼめ、しばらく考え込むように頬を掻いた。
この子は親と再会するために、望みのすべてを日向へ預けている。だというのに、当の日向も厳密に言えば迷子で、どこへ向かえばいいのかも分かっていない。どの通りも同じに見えて、頭が痛くなってくるほどだった。
「あ、そうだ——騎士のこと忘れてたし……」
日向は、チューリップの両親が娘を連れ戻してほしいと頼んできた時の言葉を思い出した。日が暮れるまでに戻らなければ、騎士を呼んで迎えに行かせる——そう言っていたはずだ。それで、次の目標は単純明快になった。
「大丈夫。何があっても、ちゃんとおうちまで送り届けてあげるからね。……ってか、小さい子が人を路地に引きずり込んでて、誰も怪しいと思わなかったわけ? マジで何なの、この街の人たち……」
あれだけ血まみれだったのだから、誰か気づいてもよさそうなものだ。とはいえ、殴られている最中でさえ誰も割って入らなかったのだから、「他人のことに首を突っ込まない」という暗黙の了解でもあるのかもしれない。そう考えると、日向の困惑した表情はますます困惑を深めるばかりだった。
チューリップは日向の言葉に、ただ肩をすくめただけだった。この子も変だと思っているのかもしれない。
「——あと……助けてくれて、ありがとにゃ……。さっきは怖くて言えにゃかったの。ごめんなさい」
「あ、うん……どういたしまして! ってか、あんなの余裕だったし! こういうのは毎日やってることだから、ほとんど慈善活動みたいなもんだよ。だいたい、私が助けに行かなかったら、誰が行ったっての? ほんと、あんたには私しかいなかったんだから。私の名前、広めといてよ——『聖女日向』ってね!」
自信たっぷりの笑みを浮かべて、日向は自分で考えた「英雄名」を高らかに宣言した。この少女は知らないうちに、日向の自尊心をまたしても傲慢の域まで膨れ上がらせてしまっていたのだ。
だが少女のほうは、一言も理解できていないような顔で日向を見つめているだけだった。それでもチューリップは、こくりと頷いた。
それはさておき、この子はどうやらかなり内気で、引っ込み思案らしい。その内気さは、危ない目に遭っても声を上げられないほど強いものだった。正直、憐れなものだ。見た目は八歳くらいで、その年頃の子どもといえば普通は騒がしくて手に負えない。それなのにこの子は礼儀正しく、行儀もよく、礼を言う時には頭まで下げてくる。
「えっと、それはそうと……私、どれくらい気を失ってた?」
「五時間くらいだと思うにゃ、お姉ちゃん。頭、すごく強く打ってて、血も出てたけど……できるだけ拭いておいたにゃ」
「ああ、そう……よくやったなぁ。えらいえらい」
少女の頑張りを少しだけ褒めてやってから、日向は自分の手を舐めて、口の端にこびりついた血を拭った。唇を動かすたびに感じるので、そこにあるのは分かっていた。
「私、何やってんの? 馬鹿なの? こんな汚い地面を両手で触っておいて、その手を舐めたし。病気になるかもしれないじゃん。病院行って、何か注射打たれるんだろうけど……でも注射、嫌いなんだけど……」
不安と心配が次から次へと積み重なっていく中で、日向は口の中で舌を転がした。歯茎のあちこちに傷があって、触れるたびにしみる。おまけに、歯がぐらついていることにも気づいた。
——歯が抜けたら、入れ歯にしなきゃいけないわけ? でも偽物の歯なんて嫌なんだけど……。
しばらく自分の心配をしてから、日向は隣で悲しそうな顔をして、じっと待っているチューリップへ視線を向けた。それを見て、日向はため息をついた。
「ほら、行こうな、チューリップ」
「うん、分かったにゃ……。でも、どうして私の名前を知ってるの、お姉ちゃん?」
「え? ああ、あんたのお父さんとお母さんが教えてくれたんだよ。おかげで探しに来られたんだから。あと、そんなかしこまった喋り方はやめてよ。堅っ苦しいの嫌いなの。日向って呼んで」
チューリップは素直に頷いて、日向の名前を小さく繰り返した。その従順さから、この子が親に手を焼かせたことなど一度もないのだろうと日向にも分かった。だが、そんな素直な子が、どうしてこんな事態に巻き込まれたのだろう。
「よし、私たちを探してる騎士を見つけに行こうな。あとで飴でも買ってあげるから」
甘いものを約束して、日向はチューリップを抱き上げると、自分の背中へ乗せた。両腕で少女のお尻を支えながら、暗い路地を出るべく歩きはじめる。
——統計によれば、子どもは飴をあげると懐くらしいし。それにおんぶも好きなんだから、これで好感度もさらに上がるはず。もう絶対、私にメロメロになってるでしょ。じゃなきゃおかしいし。お菓子あげるって言ったのはちょっと嘘だけど。まあ子どもは馬鹿だから、騎士に引き渡してさっさと逃げちゃえば、ねだる暇もないでしょ。
「夜って、けっこう怖いよなぁ」
「うん……」
日向の言葉に同意するみたいに、チューリップは細い首へぎゅっと腕を回して、腰に絡めた足にもさらに力を込めた。いっそう怖くなったのか、日向の黒髪へ顔を埋めてくる。
——この子、完全に懐いたし。まあ当然だけど。日本にいた頃だって、子どもはみんな私のこと大好きだったんだから。どこへ行ったって、結局みんな私を好きになるんだよね。しかも十五歳の女子高生が大人にもできないことをやったって広まったら、みんなもっと私に夢中になるでしょ。
少女の短い緑の髪が、日向の髪と一緒に揺れる。薄暗い路地にも通りにも、そこだけは光と喜びの気配があった。
二十分以上歩いても、見覚えのある建物は一つも見当たらなかった。いちばんの理由は、この時間の暗さ。そして何より、人の姿がまるでないことだった。おまけにまた時間を無駄にしてしまったし、方向音痴のせいで、背中の少女をきっとがっかりさせてしまっただろう。この子は日向が道を知っていると信じて、ただついてきただけなのだろうから。
それでも、日向は歩き続けた。
正直なところ、ここまで馬鹿げたお節介を焼いたのは、人生で初めてだった。しかも、あれだけ痛めつけられたあとにだ。もっとも、そのお節介は日向のプライドのおかげだった。それがなければ、とっくに投げ出していただろう。
それとは別に、パーカーとスウェットに染みついた血の跡も、やめてしまいたい気分にさせてくる。服は黒だから、そこまで目立ちはしない。それでも、汚れているという事実そのものが少しばかり癪に障った。もちろんパーカーには、スーパーで刺された時にできた裂け目もそのまま残っている。
「ここで服でも買おうかな……。私のストリート系に合うやつ、あるかな……ジーンズのショートパンツとか。あれなら着回せるし。家にも山ほど持ってるんだから……。え?」
通りに立つ人影を見て、日向は足を止めた。そのシルエットは影に沈んでいて、目を凝らしてもはっきりしない。誰にせよ、輪郭は女のもののように見えた。
首を傾げて訝しみながら、日向はどうせ道をふらついている酔っ払いだろうと結論づけた。地元でも、男女問わずぼんやりと彷徨っている人間を見るのは珍しくもなかった。だったらここでも同じことだ。それでも、声をかける勇気は出なかった。
「……まあ、いいや」
あまり音を立てないまま歩き続けることにした。理由の一つは、背中の子——チューリップが、すっかり深く眠り込んでいたからだ。とっくに寝る時間を過ぎていたのだろう。
何歩か進んだところで、人影の立っていたあたりから何かが転がり出てきた。ちょうど月明かりの下へ転がってきたので、その物体ははっきりと見えた。地面に横たわっていたのは、力なく投げ出された一本の脚だった。
その頑丈そうな脚には、何もくっついていなかった。無残に引きちぎられ、断面からは鮮やかなピンク色の肉がかろうじて垂れ下がっている。その凄惨な光景をさらに悪くするかのように、暗がりからもう二つ、別のものが転がり出てきた。
「————」
日向のよく知る顔が二つ——見慣れた二つの頭が、胴体から切り離されて、目の前へ転がってきた。脚と合わせて、三つの奇怪な物体が、いま日向の目の前に転がっている。
これは現実なのだと、日向は悟った。現実でないと思うには、あまりにも生々しすぎた。死体など、これまで一度も見たことがない。作り物だと分かっている映画の中で見たことがあるだけだ。口はぽかんと開き、目は恐怖に見開かれ、顔からは汗が滴り落ちていた。
「……あ」
その小さく、無力で、何の意味も持たない声だけが、日向の口から漏れた。
視界へ転がり込んできた見慣れた二つの頭は、背中の少女の両親——クレンドキン・バリグナと、ローフ・バリグナのものだった。
頭の中がぐちゃぐちゃになる——半分は恐怖に呑まれ、もう半分は完全に真っ白だった。目の前の光景が、まるで理解できない。
身体が麻痺したように動かなかった。背中の少女を支えていることさえできない。聞こえるのは、耳を塞ぎたくなるほどの自分の心臓の音だけ——
「騎士が呼ばれるって聞いたわ。それ、ずいぶん面倒なことになるんじゃないの? だからとりあえず、あなたの探していたものを、直接届けてあげようと思ったの……。これは神様からの贈り物だと思ってちょうだい。ええ——あなたの女神である、この私からの贈り物よ」
その人影は、間違いなく女だった。声がそれを裏づけていた。
傲慢で、低く、冷たい声。世界が自分を中心に回っていると信じ切っている、自己中心的な女の声だ。何もかもを取るに足らない些細なものとして語るような、侮蔑に満ちた口調だった。
「ぐっ——!」
次の思考へ移る時間すら与えられなかった。その瞬間、日向は凄まじい衝撃に吹き飛ばされていた。
衝撃は日向を地面へ叩きつけ、ちょうどチューリップが眠っていた背中を真正面から打ち据えた。その衝撃でチューリップは目を覚まし、小さな唇からかすかな呻きが漏れる。それと同時に、こきり、と小さな音がした。
霞んだ視線を向けると、チューリップは後頭部を押さえ、そこから血を流しながら痛みに悲鳴を上げていた。確かにひどい出血だったが、日向にはそれを気にかける余裕などなかった。
「ぶはっ……ぐっ……く、あ……あああ……はぁ……はぁ……」
呼吸はひどく乱れていて、喉が締めつけられていくのが分かった。身体の内側から込み上げてくる激痛は、まともな文章を組み立てることすら許してくれず、残るのは情けなく必死な呻きだけだった。
——クソ、もう終わりだ。
喉の奥にひどく熱い液体が溜まり、首の骨が支えを失っていく感覚があった。痛みは耐えがたく、あと一秒でも我慢するくらいなら、いっそ今すぐ死んだほうがましだった。
——息できない、息できない、息できない、息できない、息できない。
日向は、何か硬いもので喉を切り裂かれていた。その硬さは喉の半分を完全に抉り開いていて、上から覗き込めば、中身がそのまま見えるほどだった。
悲鳴を上げようともう一度口を開いたが、出てきたのは血の塊だけだった。溜まり続けるその血が、今度は肺の中へ流れ込んでいく。日向は無様に噎せ返っていた。
——クソ、ふざけんな……何でこんなに血が出るの?
驚くほど、そして理屈に合わないほど、頭を丸ごと一度染められそうなくらいの血が出ていた。
口の端から泡混じりの血が溢れ、傷口から酸素が漏れる恐ろしい音と、ごぼごぼという呻き声が混ざり合って、やけにはっきりと響いていた。
肺へ入り込んだ血が肺を温め、その温かさが身体の残りへと伝わっていく。理科の授業で習った、ただの熱の移動だ。こんな時に理科の授業のことなんて、どうして考えられるのか自分でも分からなかった。
日向は自分の喉を掻きむしった。なぜそんなことをしているのか、自分でも分からなかった。喉に溜まっていく血を掻き出して、この責め苦のような窒息感を止めようとしていたのかもしれない。薄暗がりの中でも、翡翠色の瞳の前へ持ち上げてみれば、その両手が真っ赤に染まっているのがはっきりと見えた。
「痛い? 苦しいのが分かる? 今すぐ死んでしまいたいの?」
——うん。殺して。痛すぎるんだけど。
女は自分を嘲笑っている。間違いなく嘲笑っている。他人の苦痛を悦ぶ、とんでもないサディストだ。
自分を襲ったものが何なのか、日向ははっきりと覚えていた。あれは間違いなく武器だった。
打ちつけてきたそれは金属のように硬く、棘のついた鞭のようで、日向の肉をいともたやすく裂いていった。
首はほとんど完全に断ち切られ、後ろの皮一枚でかろうじて繋がっている。それがなければ、頭は胴から切り落とされていただろう。
少なくともこれで二度目、日向は自分の人生が終わるのだと確信した。
今度はもっと遠くの、また別の世界へ送られるのかもしれない。最初の時だって、死にかけたところをもとの世界からこの世界へ飛ばされたのだから。
「あなたの意識が、この世界から離れはじめているわ……。もうすぐ天使たちと一緒に眠るのよ、美しい子。ええ——さあ、ゆっくり死んでいきながら、心の中で命乞いをしてちょうだい」
——いつ死ぬの、いつ死ぬのよ!? まだ死んでないの? 何でまだ死なないの! 意識がまだこの地面にしがみついてる——離せ、離せ、離せ、離せ、離せ!! もう死んでる? これって現実なの? 誰でもいいから、私の命を奪って、魂ごと砕いてよ!
痛みも不快感ももう感じないのに、意識と魂だけが残っていた。要するに、死ぬ気配がまるでない理由が分からなかった。——いや、違う。身体は死んでいくように弱り続けている。死んでいく感覚はある。ただ、意識や魂が離れていく感覚だけがなかった。
意識と魂が、言葉にできない「生きたい」という意志のせいで、この世界にしがみついているだけなのだろうか。
いや、それも真実ではなかった。また嘘だ。生きたいなんて意志はない。死にたい。今すぐ死にたい。いったい何が、自分をこの世界へ縛りつけているのだろう。
襲ってきた相手の顔は、まだ見えないままだった。女だろうと思っていたその人影は、影の中から日向が死んでいくのをじっと眺め、あの声で嘲り続けている。だが日向自身もまた、自分が「死んでいく」のを眺めていた。この状況では、二人そろって日向の死を見物していることになる。
一方、傍らの少女の意識には、もうかすかな灯りしか残っていないようだった。それでも日向を見つめるだけの意識は保っていて、日向のほうも、わずかに残った力で首をほんの少し傾け、その視線を受け止めた。
「日向……」
少女の訴えかけに、日向は応えることができなかった。ただ、その眼差しを受け取ることしかできない。二人の頬を、小さな涙が伝っていった。
それでも心の中では、日向は完全に答えることができていた。悲しいことに、日向の心が送っているその答えを、少女が聞くことは永遠にない。
——助けてあげられなかった。クソ……二人とも死んじゃったみたいだね。
少女は、地面を照らす月明かりの輪の中で力なく投げ出された日向の手へ、自分の手を伸ばした。
チューリップがその手を近づけたまさにその瞬間、少女の瞳から光が消えた。頭の傷が原因で死んでしまったらしい。それでも意識を失う直前の一瞬、チューリップの指先は、どうにか日向の指先へ触れることができた。
指と指が触れ合った瞬間——




