第一章4 『アブル』
「勇者」——絶え間ない痛みに全身を苛まれ、死の淵に立たされてさえいなければ、日向はきっとそう口にしていただろう。
通り沿いに、日向のすぐ隣に、一人の少年が立っていた。
日向は、異性を——少なくとも自分がロマンチックだと思っているような言葉で——褒めるようなタイプではない。それでも心の奥では、その少年を本気で可愛いと思っていた。
そんな見る目のなさは、男子との恋愛経験がほとんどなく、恋とはまるで無縁の人生を送ってきたせいなのかもしれない。仮に誰かを好きになって頬を赤らめたとしても、本人がそれに気づくことはまずないだろう。それはなんとも憐れで、物悲しい話だった。
少年の背丈は百七十五センチほど。短く切り揃えられた黒髪が、風にちょうどよく揺れていた。その穏やかな眼差しには、汚れのない清らかさと、英雄めいた気概が宿っていた。
顔立ちには、少年らしいあどけなさと、大人びた洗練とが同居していて、その少年を魅力的に見せる要素が次から次へと積み重なっていった。
容姿と英雄然とした佇まいに加えて、身に纏っているのは執事を思わせる品のある服装だった。どこかの名家に仕える執事なのだろう。装い自体は簡素なのに、それがかえって少年を際立たせていた。
「この少女の身に起きている事態を、見過ごすわけにはいきません。」
少年がふたたび口を開く。その声には思春期の息づかいが滲んでいて、そのまま喋り続けていれば聞く者の心を宥めてしまうような、優しい響きがあった。
それでもなお、その声に呼びかけられたクロード——少年に脇腹を殴りつけられ、砕けた木箱と瓦礫の中へ崩れ落ち、今はみっともなくすすり泣いている男は、憐れで、ひたすらに気色悪かった。
少年の敵意を前にして、酔っ払いはさっきまでの罵詈雑言も勢いもすっかり失っていた。上半身をかろうじて支えたまま、顔からは血の気が引いている。
「勘弁してくれ! そこの女が俺の娘をさらおうとしたんだ! だから頼む、行かせてくれ。娘と一緒に家に帰らせてくれよ。本当に悪いのはあいつなんだ!」
少年の途方もない腕力を——ナイフを握っていたところで、どうあがいても勝ち目のない相手だということを——ようやく悟ったのだろう。男は情けない懇願と、下劣な嘘に縋りついた。
それを聞いた黒髪の少年は、日向のほうへ顔を向け、それから地面に倒れて震えている緑髪の少女へと視線を移した。
そして、もう一度日向を見た。
「……それは本当なの?」
男の恥知らずな嘘を前にして、血まみれの日向の顔に困惑の色が浮かんだ。それが無性に癪に障って、日向は怪我をした中指を男へ突きつけ、下品な仕草をしてみせた。
「ちっ……はぁ? 誘拐犯はそいつでしょ……ってか、私が誘拐犯に見えるわけ? ってか、私が誘拐犯に見えるわけ? あんた、そんなに馬鹿なの? その子があいつの娘だと思ってるなら、馬鹿さも二倍だし……全然似てないじゃん……あいつはブサイクで、その子は可愛いんだから……」
苛立ちを声に滲ませながら、日向は容赦なく男を罵った。
「そんなひどいことを言ってはいけませんよ……でも、あなたの言う通りかもしれませんね……」
日向に「馬鹿」と言われて、あどけない少年は顔を真っ赤にした。それから男と少女の顔を見比べ、自分の勘違いに気づいたらしい。さっきまでの威圧的な態度が、少しずつ崩れはじめていた。
「疑ってしまって、ごめんなさい。ただ……話がややこしいのですよ……最初はこの人が『あなたが犯人だ』と言っていて、今度はあなたが『この人が犯人だ』と言う……もしあなたが本当に犯人なら、この人があなたを殴っていたのも筋が通りますし。でも、あなたには違うという証拠もあるわけで、だから——」
「クソ、うるさい! もう黙ってよ! 喋りすぎなんだけど! しかも早口だし! いい、私は誘拐犯じゃないの! だったら、こんなにボロボロになってる方を信じなさいよ! 私、私!」
その言葉を聞いて、少年は一瞬ためらったが、すぐに真剣な表情に戻り、宙を掴むように手を伸ばした。
それでも、少年の掌には確かに何かが集まりつつあった。日向にも、クロードにも、いまだ地面に丸まったまま動かない緑髪の少女にさえ、想像すらつかない何かが。
「僕は、この子の言葉が真実だと思いますよ。だって、この子には証拠があって、あなたには何もないのですから。それに、この子は約束をしました。約束というのは、破っていいものでも、人を騙すために使っていいものでもないのですよ」
激しく言い放つと、少年は命の危険を察して地面に座り込んだクロードのほうへ歩き出した。あれだけ自分を痛めつけておきながら、その太った男が怯えて縮こまっている姿があまりにも滑稽で、日向は思わず小さく笑ってしまった。
「待て、ちょっと聞けって! 今すぐ消えるし、二度とこんな真似はしねぇ! そのガキはお前にくれてやる、持っていきやがれ!」
太った男——クロードは、近づいてくる少年に目を見開き、無様な格好で立ち上がると、周囲の人々の視線を浴びながら通りを駆けていった。
完全に姿が見えなくなる直前、茶髪の少女がたどったのと同じ道を逆に辿りながら、
「絶対に二人とも見つけ出してやるからな。これで終わりだと思うんじゃねぇぞ! あの黒髪の女がまたこの街をうろついてやがったら、今度は前よりひでぇ目に遭わせてやるぜ!」
「またこの子を傷つけるおつもりなら、どうぞご自由に。ただ、そのために僕を通り抜けるのは、なかなか難しいと思いますよ」
男の必死な脅し文句は虚しく空を切り、少年の返した言葉には剣呑な響きが混じっていた。
男と、わずかに残っていた野次馬たちがいなくなると、日向はその場に膝をついた。あの光景を眺めている間だけは、全身を駆け巡っていた激痛が、頭の中から消え失せていたらしい。
「——その子は、大丈夫なの?」
「え?」と少年のほうへ首を傾げてから、日向はすぐ傍らに横たわる小さな少女へ視線を移した。正直なところ、この子の存在を一瞬すっかり忘れていた。
日向は身体ごと向き直り、少女を引き寄せると、そっと自分の膝の上へ寝かせてやった。
「うん、大丈夫。このクエストを終わらせるには、この子を親のところへ返せばいいだけだし。ほら、行こうな」
日向は、少女の顔から憐れっぽい表情を消してやりたくて、励ますように笑ってみせた。
感情の扱いには慣れていない。ただそれだけのことで、自分の対応が正しいのかどうか分からなくなって、日向の心はすっかり慌てふためいていた。
それを見て、少年はオレンジ色の瞳を柔らかく細めて微笑むと、すすり泣く少女を抱きしめている日向の肩越しに身を乗り出した。
「なんだか、お母さんみたいなの」
「私のお母さんがいつもしてくれてたことを、そのままやってるだけだし。私が大人になっても、ずっとしてくれてたことなんだから」
日向は呆れたように目を回してみせた。それでも心の奥では、自分のやり方が通用しているのだと示す少年の褒め言葉に、喜びがぱっと灯っていた。
濡れた瞳でまっすぐ自分を見上げてくる少女を、日向は見つめ続けた。柔らかな緑の髪を撫で、頭の上の猫耳をいじりながら。
――うわ、私、今ブサイクに見えてない? 二人とも、私のこと不細工だなんて思ってないといいけど……。血まみれで、助けられなきゃいけないなんて情けなさすぎるし……。今の私、完全に負け犬にしか見えないじゃん……。こっち見るなっての!
日向は苦笑いを浮かべて、ゆっくりと立ち上がった。
立ち上がった瞬間、隣にいた少年の表情に、たちまち心配と焦りが入り混じった。まるで今になってようやく、彼女が血と傷にまみれていることに気づいたかのように、日向を頭のてっぺんから爪先まで見つめていた。
「わお、顔がぐちゃぐちゃじゃないですか! ごめんなさい! ほら、僕が——」
「離してよ! 触んないで、この変人!」
日向は一歩下がって、その手を払いのけた。
正直なところ、彼を睨みつけながら思うのは、そのお為ごかしっぷりへの軽蔑だけだった。日向のことを母親みたいだと言ったくせに、誰よりも母親くさいのはこいつのほうじゃないか。
「ごめんなさい……でも、今は立っていてはいけませんよ。歩くこともできないのに。ひどい怪我なんですから、手当てをしないと! 僕が治しますから——」
「あんたの助けなんかいらないし! 全部自分でやるから! あんたが手伝ったら、アシストポイントが入るんでしょ!? ポイントは全部私のものなの。あれだけ痛い目に遭ったんだから、一つ残らず私がもらう権利があるんだからね!」
少年は腕を組んで、困惑したように首を傾げた。
「ポイント……? ごめんなさい、何のお話なのか、僕にはさっぱり分からないのですが」
「ばばばばばっ! とにかく黙ってよ! これはソロミッションなの!」
黒髪の少年は眉根を寄せ、首を傾げ、片方の眉を上げて、自分に向けられた言葉を理解しようと努めた。それでもどれだけ考えたところで意味が通らず、少年はぎこちなく笑って、ゆっくりと頷いた。日向の支離滅裂な話を、分かったふりをして受け流したのだ。
その頷きを見て、日向は満足げに笑うと、くるりと踵を返して歩き出した。
だが、かなり距離が離れたところで——
「あの、僕のアブルを持って逃げていった人を、見ませんでしたか?」
「え?」
背後からの声に、日向は首だけを回して、長い黒髪の隙間から覗き見た。その横顔を見て、なぜか純朴な少年の頬が赤く染まった。
「僕の『アブル』を持って逃げた女の子を、見ませんでしたか? 僕がここに来たのも、あの子を追いかけていたからなのですよ……」
「何でそんな言い方すんの……。ってか、それって『アップル』のこと? でも、あんたがりんご持ってるとこなんて見たことないんだけど——」
ちょうどその時、視界の端に、道端へ転がった茶色の袋が映った。案の定、袋からこぼれ落ちていたのは、艶やかな赤い皮をした丸い果実だった。袋は少年のほんの数歩先に落ちていて、日向がこの路地へ来た時には、そんなものはなかったはずだ。
思い返してみれば、殴られている最中だったからろくに気にも留めなかったが、さっきの茶髪の少女の掌に、赤いものが握られているのを見た気がする。少年が言っているのはあいつのことだと、そう考えるほかなかった。
「ああ、そうそう。私を助けなかった女が持ってたんだよ。茶髪で、目は深紅。体つきは私と似たようなもんだけど、胸は私より小さいし。何? 取り返すために、あいつと戦うつもりなわけ?」
「いえ、そういうわけでは……。どうしてそう思ったのですか? 僕はただ、どうして盗んだのか聞いてみたかっただけですよ。でも、もう逃げてしまいましたし、アブル一つを取り返すためだけに追いかけたって、意味がないでしょう?」
「うん……まあ……それは馬鹿だし、子どもっぽいよね……。じゃ、またね」
そんな気まずい別れの言葉を残して、日向は少年のもとを離れ、路地を抜ける道をそのまま歩き続けた。角を曲がると、さっきまでいたのと同じ橋にたどり着く。だがその瞬間、平手打ちを食らったように、途方もない感覚が一気に襲いかかってきた。
「あー、クソ。あいつの言う通りだったし……。立ち上がるんじゃなかった」
身体が揺れ、一歩踏み出すごとに足元が覚束なくなっていく。重い頭を押さえながら、日向はそばにある何かへ寄りかかろうとして、掴んだのはただの空気だった。
「また倒れるからな。しっかり掴まってて……」
小さなチューリップを腕に抱えたまま、日向の身体が傾きはじめる。倒れ込む勢いの中で、チューリップは腕から痛々しく転がり落ち、同時に日向は額から地面へ叩きつけられた。
激痛が意識を揺さぶり、耐えがたい頭痛が襲いかかってくる。
「……お、お姉ちゃにゃ……?」
意識が遠のいていく中で、日向はようやく少女の声を聞いた。今までずっと頑なに黙り込んでいたせいで、この子は喋れないのだとすっかり思い込んでいたのだ。
「あー、クソ……これって本当に——」
言葉を言い終える前に、案の定、日向の意識は途切れた。




