第一章3 『足が速くても助からない』
日向は困惑した様子で男を見つめ、それから視線を下げ、男に抱きかかえられている幼い少女を観察した。
目の前の男は三十代半ばくらいに見えた。無知というものが骨の髄まで染み込んでいるような男で、薄汚れた服装と、いかにも酒浸りの父親といった雰囲気が、その印象をさらに強めていた。総じて、徹底的に不快な男だった。
「何やってんの、こいつ……?」
そう呟きながら、日向は立ち上がり、状況をよく見るために近づいていった。
日向が介入した最大の理由は、角を曲がった直後にちらりと見えた緑色の髪だった。しかも、その髪色は日向が探していた行方不明の少女の特徴と一致している。男の毛深い腕を小さな手で引っ掻いている少女は、間違いなくその子だった。
どう見ても「誘拐」としか言いようのない状況で男がもがいている姿を見つめながら、日向は口の中に溜まった唾を飲み込み、緊張した表情でゆっくりと男へ近づいていった。男の体格は日向の倍ほどもあった――もっとも、特別に筋肉質というわけではない。それでも、緊張するのは当然だった。
――くそっ、私、歩くの遅すぎ!
背筋を走る冷たい感覚と、人間の脳が本能的に抱く恐怖が、日向の足を思うように進ませてくれなかった。二人との距離は、どんどん開いていく。このまま躊躇していたら、結局この依頼は失敗に終わってしまう。
失敗したなんて思われるわけにはいかなかった。
「おい、そこの貴様! てめぇ、そこで何してやがる、この変人が!?」
残っていたわずかな勇気を振り絞り、日向は足を速めながら男へ怒鳴りつけた。男が振り返った時には、日向はすでにそのすぐ目の前まで迫っており、少女の手首を掴んで、男の手から引き離そうとしていた。しかし、日向の腕力はそれほど強くない。弱々しく引っ張ったところで、男の手を緩ませることすらできなかった。
男と真正面から向き合った日向は、思わず少し身を引いた。顔をまともに見るのは、どうにも気まずかった。怪物というわけではない。だが、とにかく顔がものすごく醜かった。
――先に目を閉じておけばよかったかも……うわぁ。
「とっとと失せろ! こいつは俺の子供だ! てめぇに触る権利なんざねぇ!」
「どう見てもあんたの子供じゃないでしょ! 二人とも全然似てないじゃん! 頭おかしいんじゃないの!?」
「俺を侮辱するんじゃねぇ! 少しは敬意を払いやがれ、このアマ!」
「私を馬鹿にしないでよ! 私はアマなんかじゃない!」
男の侮辱に怒りを露わにした日向は、相手が反応するより早く先制攻撃を仕掛け、男を後方へ吹き飛ばした。
日向が放った一撃は、肋骨を狙った全身全霊の前蹴りだった。両脚に込められる限りの力を叩き込んだため、その威力は凄まじいものになった。ただし、蹴りを放つ間も少女の手首を握ったままだったため、日向の姿勢はかなり不自然なものになっていた。
「ぐああっ!!」
日向の脚はかなり強かった。というより、身体の中でもっとも優れているのが脚力だった。そのため、蹴りによって全身へ走った痛みに耐えきれなかった男は、ずきずきと疼く箇所を押さえるために、少女の手を離さざるを得なかった。
「毎日脚を鍛えてきた甲斐があった! こんなふうに人を蹴ったの、あんたが初めてだよ。光栄に思いな!」
自分が与えたダメージの大きさにすっかり気を良くした日向は、誇らしげに笑いながら、泣きじゃくる幼い少女を両腕で抱き上げた。顔をよく見てみると、クレンドキンの言っていたことは本当だった。小さな少女は、彼の隣にいた緑髪の妻とそっくりだった。
――とはいえ、今は少女の顔を眺めている場合ではない。
「ちっ……て、てめぇ……この屈辱、絶対に償わせてやるからな……!」
「この世界、重力がめちゃくちゃ軽いじゃん――本当に軽い! きっとこの世界、私のために作られたんだ! 私がここに来た本当の理由、やっと分かったよ!」
日向は男を馬鹿にするように無遠慮に舌を出しながら、少女をさらに強く抱き寄せた。
つい先ほどまで人の気配すらなかった路地裏には、いつの間にか騒ぎを聞きつけた野次馬が集まり始め、徐々に人だかりができていく。
――私、勝てる。絶対に勝てる!
男は日向の自信満々な態度に眉をひそめた。だが、華々しい自分の戦いを見ようと大勢の人が集まってきたのを目にした日向は、ますます調子に乗っていった。
男が自らの痛みに耐え切ったその瞬間、彼は全速力で日向へと突っ込み、握り締めた拳を振り下ろそうとした。
その攻撃を、日向は身体を捻って間一髪でかわす。そして、そのまま男の腹へ強烈な一撃を叩き込み、再び彼に屈辱を味わわせた。男は尻もちをつき、周囲から向けられる視線を見回す。その顔には、さらに明らかな怒りが浮かんでいた。
「はっ! 情けなっ! こいつら、本当にこんなところでガキ二人が喧嘩してるのを見たいわけ?」
日向がそう馬鹿にすると、群衆から「おお〜」というどよめきが上がった。日向はその反応を見回し、満足そうに笑う。
男を完全に見下したような自信に満ちた表情で、日向は彼へ歩み寄る。この喧嘩を終わらせるため、最後の一撃を叩き込むつもりだった。
――こんな簡単な依頼だったんだ。ふふ。これだけ人が見てるなら、私の名前もきっと広まる。
しかし、日向が男を倒そうと足を上げた瞬間、視界に刃が閃いた。
日向は慌てて後ろへ下がり、抱えていた少女を手放してしまう。少女はその場から転がっていった。
「くそっ、くそっ、くそっ! やめて、お願い! この子は返すから、だから――うわっ!!」
日向は情けなく降参した。その直後、彼女は頭部への一撃を受け、数歩後ろへよろめいた。さっきまでの尊大な態度は消え、日本人らしい負けん気も完全に吹き飛んでいた。
日向は頭を押さえながら、耳鳴りに耐えようと何度も咳き込んだ。痛みから気を逸らすために、必死に意識を保とうとする。
この世界へ来る前から、日向には刃物に関する嫌な記憶があった。ここへ来る途中、刃物で襲われたばかりだったのだ。だから日向は、それを言い訳にするしかなかった。
男が刃物を抜いた瞬間に後ずさったのは、ただのトラウマへの反応だったのだ――そう自分に言い聞かせた。そうでもしなければ、「情けない」という言葉が頭の中に響き続けてしまいそうだった。
「ちっ……うぐっ! うううっ!」
太った男は容赦なく日向を蹴り続けた。靴が日向の口元をまともに捉え、歯茎が傷つき、白い歯が鮮やかな赤い血で染まる。日向は傷つけられていく顔を守ろうと、身体を丸めた。
――もう無理……。こんなところで終わりたくない。まだ死にたくない……お願い、死なせないで……。
男は止まる気配を見せず、人目のある場所でありながら、その行為を恥じる様子もなかった。彼は血にまみれた日向を何度も踏みつけ、吐き捨てた唾液と血が混ざっていく。日向は激しい痛みに苦しめられていた。
日向は痛みが嫌いだった。大嫌いだった。
腹部を何度も蹴られ続けたせいで、日向は今にも失禁してしまいそうな感覚に襲われていた。息を呑んで見守る観衆の前で粗相をし、あれだけ傲慢に振る舞った末に命を落とす――そんな結末だけは、何よりも耐え難い屈辱だった。
日向は、ここで死ぬ。そして、チューリップは連れていかれる。小さな少女は、地面へ投げ出されてから一歩も動いていなかった。怖くて動けないのだろうか。日向には分からなかったし、今は気にする余裕もなかった。今の日向は、自分自身のことで精一杯だった。
「動くんじゃねぇ、このアマ!!」
「やめて……もう……無理……。もう耐えられない……やめて、やめて……」
立ち上がろうとするたび、男は日向を踏みつけ、ナイフをちらつかせて威嚇した。日向は痛みと恐怖に耐えきれず、ただ悲鳴を上げることしかできなかった。
その光景を見ていた人々は、男を止めようとも、日向を助けようともせず、ただその場を見ているだけだった。日向は、誰も助けようとしないことに、今でも失望していた。
「お前を片付けたら、次は四つん這いになって犬みてぇに鳴かせてやる! もう二度と英雄ごっこなんざするんじゃねぇぞ、小娘!」
涙がこぼれ落ちる。耐え難い苦痛から逃れるために、日向の意識は現実から遠ざかろうとしていた。たとえ死んだ後に別の世界があったとしても、輝く門や天使なんて、自分を迎えてくれるはずがない。地獄には、もう自分の席が用意されている――日向は、そう固く信じていた。
「おい、クロード。お前、あの女をボコボコにしてんじゃねぇか!」
路地裏に、明るく快活な声が響いた。同時に、素早い足音が近づいてきて、地面に倒れていた日向のすぐそばで止まる。
その瞬間まで日向を踏みつけていた男が動きを止め、声のした方へ振り向いた。日向もまた、ぼやける視界をわずかに持ち上げる。歯を食いしばると、口元から血が噴き出すように流れ落ちた。その視界に映ったのは、一人の少女だった。
とても美しい少女だった。身体つきも胸の大きさも、日向より小柄だった。長い茶色の髪は緩やかに巻かれ、無造作にまとめられながら、陽光を受けて鮮やかに輝いている。深紅の瞳には強い意志が宿り、目元や唇の周囲にはいくつかのほくろがあった。どこかいたずら好きそうな少女だった。
その姿を見て、日向はほんの少し羨ましく思った。自分と比べれば、今の日向は血と汗にまみれていて、とても見栄えがいいとは言えない。――まあ、日向がその気になれば、こんな状態だって絶対に可愛く見せられるけど。
目の前の少女は、動きやすそうなゆったりとした茶色の服を身につけ、その上から緑色の外套を羽織っていた。外套は身体の半分ほどを隠している。そして少女は、まるで目の前で起きていることなど日常茶飯事だとでも言うように、この状況を眺めていた。
その表情も、仕草も、そして日向を想像を絶する苦痛へ追い込んでいる男へ何気なく声をかけるその態度も――すべてを見て、日向には分かった。
この少女には、日向を助けるつもりなど一切ない。
黒髪の少女が、打ちのめされ、死の寸前まで追い詰められているというのに――救いの望みは、どこにもなかった。
「クロード、本当にひどいことしてるな! あたしには口を挟める立場じゃないから止めはしないけど、あとで全部聞かせてもらうからな! じゃあな、黒髪の女!」
茶髪の少女は日向の身体を軽く飛び越えると、そのまま路地を駆け抜け、先ほど日向がいた橋の方へと曲がっていった。
そして、日向が予想していた通り、彼女には助けるつもりなど微塵もなかった。最初から何も期待していなかったはずなのに、それでも胸の奥に残っていたわずかな希望まで踏みにじられたような気がした。
――なんでこんなに自分勝手な奴ばっかりなの!? 他人の気持ちを考えることくらいできないわけ!?
少女が去った後も、「クロード」と呼ばれた酔った男は日向を解放しようとしなかった。少女はまるで何事もなかったかのように走り去り、呆然と立ち尽くす観衆さえ置き去りにしていった。
「もう、やめて……。友達にも会えたんだから、もう気が済んだでしょ……?」
「うるせぇ!! てめぇの気持ちを俺が勝手に決めていいわけねぇだろ!!」
「――ちっ!」
――報酬すらもらえてない……。こんなに苦しい思いをして、誰かのために頑張ってるのに、私はどうなるの? 善意でこの依頼を引き受けたのに、これが報酬なの……? 帰りたい。私はまだ、自分の人生すら生きてないのに……。大学に行って、成功して、立派な家と車を買うはずだったのに……。なんで私って、こんなに駄目な人間なんだろう……。
自分が望んでいたものをすべて手に入れることも、求めていた評価を得ることもできないまま生きていくことなど、日向には耐えられなかった。自分にとって何より大切だと思っていたものを失った人生には、意味がないように思えていた。
「――そこまでです、悪党!」
その柔らかな声が上から響き、日向の意識を埋め尽くしていた苦痛と混乱を断ち切った。
――いや、それだけではなかった。その声の主が男を蹴り飛ばし、日向を苦しめていた状況を止めたことで、ようやく彼女は少しだけ楽になった。吹き飛ばされた男の叫び声が響き、その一撃の威力を物語っていた。
ようやく、日向の苦しげで荒い呼吸も、少しずつ落ち着き始めた。




