第一章1 『破れたパーカーの余波』
——クソ、もう終わりだ。
日向は、本来ここにいるはずのない、見知らぬ二人の前に立っていた。いや、正確に言えば――ここに立っているべきではないのは、日向自身のほうだった。奇妙な現象だった。その奇妙さのせいで、不快な感覚が胃のあたりをぐるぐると渦巻いていた。
それはさておき、目の前にいる二人は、妙な目つきで日向を見つめていた。まさか、自分の見た目が原因というわけでもないだろう。自分のことを醜いと思っているわけでもない。
だから日向も、二人の奇妙な視線に合わせるように、まったく同じような態度で彼らを見返した。
「おい、お前――一体何やってんだ? 顔に何か問題でもあるのか?」
ああ、自分で自分の顔をつまみ始めていた。
この突然すぎる状況をどうにか受け止めようとしたのか、日向はまるで、自分がいるかもしれない「夢」から目を覚まそうとするかのように、自分の顔を引っ張ったり揉んだりし始めた。こんな出来事を経験したのなら、誰だってきっと同じことをするだろう。
「……これ、どう考えても否定できないじゃん……何これ!?」
自分の汗ばんだ顔を引っ張り終えると、日向はそのあまりにも衝撃的な事実を悟り、驚きで目を大きく見開いた。
自分に定められ、無理やり与えられた運命を受け入れながら、日向は唇を噛み、緊張のせいでまだ乾ききっていなかった口の中の少量の唾を飲み込んだ。すべてを理解するのは、そう簡単なことではなかった。けれど、日向は理解したふりをすることにした。
「異世界……。何これ、ヤバすぎるじゃん……。こんなのアニメの中だけの話っしょ……完全に非現実的じゃん! でも、もしかして私って、なんか『選ばれし者』みたいなやつなのかな……? ま、それくらいのご褒美はあってもバチは当たんないよね!」
独り言を呟いているうちに、さっきまでの緊張はどこかへ吹き飛び、声は徐々に興奮を帯びていった。そして、うっかり考えていた本音のままに、大声で叫んでしまっていた。
目の前にいる人たちから向けられる視線を感じ、日向は自分で作り出してしまった気まずさに唇を震わせた。またしても、緊張による汗が頬を伝って落ちていく。
視線を下げたまま、日向は唇の裏に溜めていた息を吐き出した。
――最悪。こいつらにとっての私の第一印象、もう完全に変な奴じゃん。誰か、お願いだから今すぐ私を殺して。
目を閉じて目の前の二人を無視しながら、日向は今の恥ずかしさから逃げるように顔を上げ、周囲を見回した。しかし、目元がぴくぴくと痙攣しているせいで、その恥ずかしさから逃げられていないことは、どうやら隠せそうになかった。
奇妙にも異世界へ召喚されたばかりの少女――鈴日向は、高校二年生を難なくこなしていた成績上位の女子高生だった。当然、「二年生」という言葉が示す通り、彼女は十五歳だった。
日向は学業において非常に優秀であり、その事実に加えて、並外れた美貌を持っていたことが、彼女をさらに際立たせていた。身長一六〇センチメートル。翡翠色の瞳と、ひと目見ただけで誰もを惹きつけられそうな長い睫毛を持っていた。
もっとも、そんな「人を惹きつける」容姿を彼女が活かすことなどできなかった。もちろん、どうすればいいのか知らなかったからだ。仮にそんなことをしようとしても、ただ気まずくなるだけで、見ている側の胸が羞恥で締めつけられるような光景になってしまうだろう。
周囲を見回し続けるうちに、日向は自分と似たような容姿をした人間が一人もいないことに気づいた。つまり、自分は少数派であり、彼らと比べれば明らかに浮いた存在なのだ。日向は、その事実が気に入らなかった。
彼らの服装は、鎧やチュニック、単色のローブなど、いかにもファンタジー世界らしいものばかりだった。現在の自分が身につけている、ダボッとした漆黒のパーカーとスウェットパンツというストリートウェアとは、まるで釣り合っていない。
日向はストリートウェアがかなり好きだった。だから、彼らのような格好をするつもりなど毛頭なかった。それでも、自分だけがこの場からひどく浮いているような感覚は、どうしても拭えなかった。
日向にとっては、彼らの髪色もまた、服装と同じくらい奇妙なものだった。腰まで届く黒髪を持つ自分とは違い、周囲の人々は青、白、桃色、緑――まるで虹のように様々な色の髪をしていた。
それでも、見覚えのある自然な髪色もいくつかあった。とはいえ、それほど多くはない。日向が見分けられたのは、茶色と金色くらいだった。
それでも、黒髪だけは一人も見当たらなかった。変なの。
――みんなで示し合わせて、自然な髪色を捨てたの? いや――それは変か。私が異世界に飛ばされたってことは分かってるんだから、こういうのも異世界特有の現象ってことだよね。とにかく、またしても私はものすごく場違いな感じがする。
「――くそ、スマホに電波ないじゃん……。つまんな。もう私を家に帰してよ」
ここへ来てから、日向の中には複雑な感情が溢れ続けていた。自分の成し遂げてきたことを認められ、魔法の存在する世界へ送られたことへの喜び。この新しい世界で目立ち、場違いな存在になっていることへの不安。そして今度は、携帯電話の電波がないことへの絶望。
異世界へ来てからたった三分で、これほど多くの感情を抱くというのは、なかなかの記録だった。まあ、他の人間なら、の話だ。日向にとっては、ただの日常だった。
「えっと……そうだ! 初めまして。私、日向。鈴日向。でも、名字で呼ばないでよね。日向でいいから。私、堅苦しいの嫌いだから、気楽に接してよ?」
――私って本当に馬鹿だ。こいつらにとっての私の第一印象なのに、完全にこいつらの存在を無視してた。いや、待って。無視するのは当然でしょ。私は、自分がどこにいるのかすら分からない場所に放り出された女の子なんだから。自分を落ち着かせるために、こいつらを無視する権利くらいある。失礼だと思うなら、勝手に野垂れ死ねばいい。正直、こいつらのことなんて何も知らないんだから、どう思われようが知ったこっちゃない。
両手を背中へ回し、少し緊張したような笑みを浮かべながら、日向は真っ白な歯をちらりと見せた。そのぎこちない笑顔を向けられ、二人の奇妙な存在は互いに顔を見合わせると、同時に口を開いた。
――私のこと怒ってる? お願いだから、怒らないで。
「「こちらこそ、よろしくお願いしますにゃ、奇妙なお嬢さん。」」
――今の反応と口調は、かなり友好的だった。この評価データから判断するに、こいつらは間違いなく私のことを気に入ってる。研究によれば、人は誰かに笑顔を向けられると、すぐに好意を抱きやすい。きっとそれだ。これから人に笑いかけ続ければ、みんな私を好きになってくれる。そんなに難しいことじゃない。だって私は、コミュ力が高いんだから。
前髪を横へ払い、額を掻きながら、日向は今の自分が妙に冷静であることに気づいた。もちろん、それまで感じていた感情を全部消してしまえば、の話だけど。
「気をしっかり持たなきゃ――ここへ来る途中で、記憶を失ってないか確認しないと。ほら、転生した時に記憶を失う人もいるらしいし。」
先ほど述べた通り、鈴日向は十五歳の日本人の少女――令和の時代に日本で生まれた少女だった。もっと厳密に言えば、彼女はアメリカで生まれ、移民だった両親のもとで五歳までをそこで過ごしていた。もっとも、日向は普段からそんなことをあまり気にしていなかった。
少なくとも、アメリカにいた頃に身につけた英語力には、それなりの自信があった。とはいえ、その後の十年間を日本で過ごしたため、その「それなり」の水準を維持するには、頻繁な練習が必要だった。
学校では出席率も非常に高く、成績も
驚くほど優秀だった。運動能力も同じように並外れており、陸上部へ入部すると、すぐに部内で最も速い走者になった。もし本気で取り組んでいたなら、プロの大人たちとも互角に競えたほどだった。陸上以外でも、彼女はあらゆるスポーツで優れた才能を発揮していた。
気づけば、日向は町でも学校でも話題になる存在になっていた。母親を笑顔にさせることのできる、そんな十代の少女だった。ただし、父親や兄との関係まで良好だったとは、必ずしも言えない。
「まあ、記憶は大丈夫みたいかな……」
日向は目の前に広がる建物や、その建築様式を見回しながら分析した。道は主に石畳や、それに類する素材で舗装されていた。現代的な建築材料を製造したり入手したりする手段は明らかに不足していたが、それでも日向は少なくとも、その努力だけは評価していた。
「でも、水道設備はたぶんあんまり良くないよね。昔の人たちに期待しすぎるのもよくないし。ここの水は絶対飲まないから。」
そこに立ったまま、日向は観察によって得た情報を整理していた。確かに中世のような外見をしている。けれど同時に、中世よりも進んでいる何かも感じ取っていた。
「ぎゃっ!」
トカゲに引かれた馬車が、彼女の目の前の通りを次々と通り過ぎていく。木製の車輪が道の上を転がる音は少し耳障りで、周囲の人々は気にしていないようだったが、車輪が巻き上げる砂埃もまた、日向には鬱陶しかった。
日向が「トカゲ」と呼んだものは、馬ほどの大きさに進化した蛇だった。長い身体を舗装された道の上へ這わせ、大きく輝く牙を覗かせている。その牙が、日向を不安にさせた理由だった。だからこそ、さっき悲鳴を上げたのだ。
正直に言えば、日向が驚いたのは蛇の牙だけではなかった。何しろ、周囲にいる人間のほとんどが動物の耳を持っていたのだ。狐のような男たちや、ウサギや犬の耳を持った人間のような生き物までいる。こんな奇妙な人々を間近で写真に収めたいと思った日向は、
「スマホ、電波はないけど、バッテリーはまだいっぱい残ってるじゃん」
スマートフォンに残っていたバッテリーを頼りに、日向は目の前にいる人々へ向かってスマホを掲げた。鮮やかな青色のスマホケースと、ぶら下がったチャームで彼らの注意を逸らしながら、
「いいじゃん……」
その言葉が口から出た頃には、日向はすでに、紹介された二人の「猫人」の写真を撮っていた。知らない人間を許可なく撮影するのがかなり失礼なことだとは分かっていたが、どうせこいつらは「写真」という概念すら知らないだろうと思ったのだ。
日向は、フラッシュがオフになっていることを確認した。今、自分が何をしたのか尋ねられるのは避けたかった。そもそも、彼らの知識がそこまで及んでいるとは、とても思えなかった。
「みんな、気にしないといいんだけど……。それはそうと、この世界では魔法が使えたらいいな。私にも何かチートスキルみたいなのがあるに決まってる。機会があったら、手から火とか出してみたいな」
そんなことを、子供っぽくも可愛らしい笑顔で口にしながら、日向は白い手のひらと、もう片方の手に持ったスマートフォンを交互に見つめていた。けれど、十分に遊んだところで、日向の意識は突然、あることへと引き戻された。
――くそ、脱線してた……。なんでこんな大事なこと忘れてたんだよ――それも、そもそも私がここにいる一番の理由なのに。
この世界へ来る前の日向の運命。
その出来事は、はっきりと覚えていた。それなのに、どうしてあれほど簡単に無視できていたのか、自分でも理解できなかった。日向の記憶では、ハロウィンの仮装を買うためにスーパーへ行ったはずだった。けれど、残っていたのはピエロのマスクだけで、日向はひどく落胆したのだ。
額の横に引っ掛けていたピエロのマスクを指で軽く叩くと、「ぽーん」という音が響いた。
「これが、ギリギリまで待った私への罰ってわけか……。一日中――時間なんていくらでもあったのに、それでも今まで待ってたんだ。私って、本当にどうしようもない人間だよね……」
それが、スーパーのレジへ向かい、会計を済ませる直前の日向の最後の言葉だった。スーパーを出て、ほんの数歩も歩かないうちに、日向は地面へ倒れ込んだ。
――ああ、腹を刺されたんだ。直後、意識が身体から抜けていくのを感じた。そして、瞬きをした瞬間、時間は一瞬で正午へと移り変わっていた。日向は、二人の見知らぬ人間の前に立っていた。
刺されたことでパーカーは破れていたが、それ以外に大きな傷はなく、本来なら身体を濡らしていたはずの血もすべて消えていた。言うまでもなく、腹部の傷も完全に治っており、傷跡すら残っていなかった。
到着した直後、心の中で吐き出していた罵詈雑言は、もし実際に声に出していたなら、親たちが子供の耳を塞ぎたくなるようなものだった。それでも、日向はようやく自分を落ち着かせることに成功していた。
「私、宗教とか信じてないけど、死んだ後って、あの世か無かのどっちかだって知ってるよ。でも、仮にあの世があったとしても、神様への信仰が足りない私なら、たぶん地獄行きだよね。まあ、幸運なことに、この並行世界が私を救ってくれたけど」
そう呟きながら、日向はポケットを叩き、自分の持ち物がすべて揃っているかを確認した。もちろん、スマートフォンを持っていることは分かっていた。知らない場所へ行くなら、何もないより何か一つでも持っていたほうがいい。それは分かっている。とはいえ、持ってきた物のほとんどは、この世界では役に立ちそうになかった。
まず、最新型のスワイプアップ式スマートフォン(映画を数本観られるくらいのバッテリーは残っている)、財布(お金持ちの娘だったため現金がたっぷり入っており、さらに何枚ものプリペイド式デビットカードまで入っている)、最近買ったピエロのマスク(不気味)、お気に入りの黒いスウェットスーツ(少し破れている)、そして買ったばかりのメッシュスニーカー(数サイズ大きい)。
それが、すべてだった。
「もし自分がファンタジー世界に飛ばされるって分かってたなら、せめて家からリュックいっぱいに物資を詰め込んで持ってきたのに。……いや、待って。それも嘘だ。ここへ来るために殺されなきゃいけないって分かってたなら、そもそも家から出なかったよ」
日向は、こんな状況になったこと自体、何の意味もなかったのではないかと感じていた。転生が関係しているわけでもない――赤ん坊になったわけではなく、いつもの自分の姿のままなのだから。それなら、殺される必要なんて一体どこにあったのだろう。まったく理解できず、日向はただ絶望したように頭を垂れた。
今の日向が心の底から欲しかったものは、何か甘いものだった。抑えきれないほどの甘党である彼女は、砂糖の味を渇望していた。
欲しいものを手に入れられない苛立ちは、とうとう限界を超え、日向は小さくぶつぶつと文句を漏らした。まさか自分がこんな場所へ来ることになるなんて、夢にも思っていなかった。こんなファンタジーは、サービスシーンばかりの漫画を描いている変態オタクにでも任せておけばいい。しかも、GPSを使って家に帰ることすらできないのだから、状況は完全に絶望的だった。
「はぁ……最悪。これ以上最悪なことなんてないじゃん! それに、ここで何をすればいいのかも全然分かんない。そういえば、私、本当なら文字も読めないし、書けないし、喋れないはずじゃない? ……待って。なんで私、こいつらの言葉を理解できてるの?」
この世界で待ち受けている問題を前に、日向は小さな癇癪を起こしていた。けれど、目の前にいる二人の言葉を自分が理解できていることに気づいた瞬間、その表情が変わった。
「――大変な目に遭ったんだにゃ、嬢ちゃん。何をぶつぶつ言ってたのか、どんな魔法を使って俺たちの目の前に突然転移してきたのか、俺にはさっぱり分からにゃいが、俺も妻も完全に度肝を抜かれたんだにゃ! それでも、嬢ちゃんの困りごとを解決する手伝いはしてやる。だから、その代わりにゃ……俺たちのちょっとした頼みを聞いてほしいんだにゃ。」
日向は、二人がこれから口にする頼みについて考えながら、指先を弄んでいた。すぐに何か裏があるに違いないと思い、断る準備をしていた。けれど、筋骨隆々とした青髪の男が悲しそうな声で懇願するのを聞くと、そんなふうに考えてしまったことに、日向はわずかな罪悪感を覚えた。




