【第796話:とどけたい気持ち】
航宙大学には多くの学部学科が有り、それぞれが将来の希望配属先への赴任資格を得るカリキュラムと成っている。
星系にまたがるこの巨大な国家では、かつては分けられていた陸海空宙などの区別はもうない。
それぞれの軍団や星系軍が全てを内包するように成ったから。
宇宙軍の基地と大学を分ける金網の中に、運動用のトラックがある。
一周400mの一般的なもので、中央部分には様々な訓練用器具が設置されている。
その夕日でオレンジに染まるトラックを、全力で走る少女。
運動着の上は脱ぎ捨てて、白いTシャツになっていた。
長い金髪をくくって風になびかせて走るのはヴェスタだった。
「はっ!はっ!」
すでに息切れを起こすだけの距離を走っていた。
ヴェスタは特別な任務をこなすため、強靭な体を与えられている。
普通の女性の10倍のタスクを軽々とクリア出来る体力としなやかさを持つ。
このグラウンドを30分以上走り続けて、ついに息が切れてきた。
「はっ!はっ!」
綺麗な走行フォームは、幼い頃に焼き付けられていた知識の中に有った。
これほどの距離を走ったのは初めてだった。
日中にあった講義の一環で、このグラウンドを全力で一周走った。
心臓が悲鳴を上げるその感覚を久しぶりに味わい、ヴェスタはその喜びも思い出した。
体を限界まで酷使する事にも快感があると思い出したのだ。
かつてとは全く違う方法で。
ついに走れなくなり、歩き出してしまうヴェスタ。
まだ進めると体が求めているのを感じていた。
「はぁっはぁっ」
だらだらと流れ落ちる汗は、嫌なことをすべて忘れさせてくれた。
腹立たしいと思ったことも、なんて狭量なと悔いた。
(‥‥ミレーヌ‥‥ごめんなさい)
ヴェスタの他人への態度に関して意見が合わず、口論になってしまった。
ミレーヌはヴェスタの事を、真実心配して怒ってくれたのだ。
それを正しく受け止めず、身勝手な事を言って飛び出してきてしまった。
そうして暗くなるまで走り、動けなくなるまで体を酷使して気付いたのだ。
(わたくしは愚かなのです‥‥)
座学でも実技でもヴェスタに比肩しうるものは数名。
自分は優秀なのだと、少し勘違いをしていたのだと、ヴェスタは考える。
段々と空が暗くなるのに、ヴェスタの心は晴れやかに成っていく。
(愚かなのです)
その言葉は、ヴェスタを笑顔にするのだった。
とても自然で美しい笑顔に。
翌日の午後に、少しお話がありますと、同じ3回生の少女に連れられ校舎の裏手に来ていた。
女子寮もあるこの面には建物の出口や窓が少なく、人目がなかった。
「カミラさまは一回生のときから首席を貫いてこられたのよ」
「無くなってしまった国のお立場は考慮出来かねますわ姫さまぁ?」
「少しお立場を考えられてはいかがですの?」
ようするにカミラという後ろに居て、黙っている女を首席に戻せと。
そのような申し出であった。
「わたくしでは判断が出来かねます‥‥」
ヴェスタは感じたままに答えたが、同じ意味を形を変えてもう一周なじられた。
(ボキャブラリーが豊富で、表現力がありますわ)
ヴェスタは言葉で傷つくことはなかったが、面倒な事になったと感じた。
知人に相談してみますと前向きに検討したのだが、なぜかさらに激しい言葉を浴びせられて、肩をどんと押されるのだった。
そこでふと友人の悲しげにうつむいた顔を思い出した。
――黙っていてほしいの
誰に対して黙ればよいのかわからなかったヴェスタは、その言葉に込められた気持ちだけは理解できた。
ミレーヌは本意ではないのだと。
手を抜きたくて、抜いているのではないのだなと。
「‥‥もしや、貴女達はミレーヌにも同じ事を話したのですか?」
もやっとヴェスタの中になにか不快な気持ちが生まれた。
今までに感じたことのない気持ちだった。
自分の生い立ちや振る舞いを否定的に捉えられても、なんの痛痒も感じなかったが、ミレーヌの悲しい顔はとても嫌だった。
「さぁ‥‥どうですかね?」
「お心あたりでも有りまして?」
そういってにやにやと、とぼける気もない言葉は、そうだと言われるよりも胸が苦しいのだとも学んだヴェスタ。
胸を押さえたヴェスタはふとミレーヌに言われたことを思い出す。
そもそもそんな話しをしていて、昨日は部屋で口論になったのだ。
(そうですわ、ミレーヌは怒ったほうが良いと言っていました)
むうと怒った顔に挑戦したヴェスタ。
ずさっと3人とも顔色を無くし後退り、ひぃと悲鳴を上げた。
我関せずと涼し気な立ち姿だったカミラも、涙目になり逃げ出したので、3人も追うように立ち去る。
「‥‥なるほど‥‥ミレーヌが言いたかったのはこうゆうこと?」
こうゆうことでは絶対にないのだが、ヴェスタには友への感謝が浮かぶのだった。
昨日は汗を流し着替えてからミレーヌに詫びようと思ったのだが、ミレーヌは先に寝てしまっていて機会を逃した。
翌朝いつものようにゆっくりと目覚めたヴェスタは、ミレーヌの綺麗に整えられたベッドを見つけて、悲しい気持ちになった。
早く自分が間違っていたのだと告げて、謝りたかったのだ。
そうして今日は実技も無く、選択科目でも同じ講義がなかったので、ミレーヌには会えずに居た。
いつも一緒に食べる食堂にもミレーヌはこなかったので、一人で昼食を取った。
しょんぼりとしている所を少し良いですかと連れて行かれたのだ。
(幸い結果として事なきを得たのだわ‥‥これもミレーヌのお陰です)
わたくしは感謝も足りませんでしたと、にっこりと笑顔になるヴェスタ。
「ただいま‥‥」
部屋に戻ると、今日は流石にまだミレーヌは起きていて、自習しているのかデスクに向かっていた。
この二人部屋にはベッドと書き物机のセットが二組あり、浴室はないがトイレはあった。
すっとトイレに入るミレーヌに、声をかけるタイミングを失してしまうヴェスタ。
しばらく待ってみたが、ミレーヌは一向に出てくる気配がない。
まさかトイレに向かって話しかけるわけにもいかない。
そろそろ食事に行かなくてはいけない時間だしと、困り果てるヴェスタ。
(そもそもこういったとき、何とお話ししたら良いのかわかりません‥‥)
ふと机の上に残されたミレーヌのノートに目が行くヴェスタ。
ミレーヌは手書きでノートを取る。
その方が覚えやすいのだと話していた。
ヴェスタはインプラントデバイスの音声入力機能でメモを取るので、あまり文字を書くことがなかった。
施設では自分の名前を書く練習しかしたことがない。
現代の汎銀河連邦では、手書きで文章を書かなければいけないシチュエーションは殆どなかった。
こんなことなら、早くデバイスのアドレスを聞いておけばよかったと後悔するヴェスタ。
互いに遠慮をし合う内気な2人は、まだデバイスアドレスの交換すらしていなかった。
ぴこんとひらめくヴェスタ。
(そうですわ!手紙にすればよいのでわ?)
そう思って自分のカバンを漁ったが、紙はなかった。
書けそうなものは見つけた。
あとは紙だけと、これでいいかとポケットからハンカチを出す。
かきかきと文字を記し、満足の笑みを浮かべるヴェスタ。
布は少し書きづらかったので乱れてしまったが、読解可能な範囲だと満足する。
ハンカチの手紙を残したヴェスタは満足して食堂に向かう。
ふとトイレに声をかけるべきか悩んだが、はしたないかなと遠慮することとした。
すっと眉を下げるヴェスタ。
(ミレーヌ‥‥仲直りできると良いな)
はっと時計を見るヴェスタ。
あまり遅いと食事を抜くことに成りかねない。
寮には売店などないので、食事の時間を守らなければ生活が成り立たないのだ。
自分はよくても、ミレーヌにひもじい思いはさせたくないとヴェスタは考えた。
ぱたんとドアを閉めてヴェスタが出ていった気配を感じ取り、それでもぎりぎりまで待って、ミレーヌはトイレを出た。
(‥‥バカみたい‥‥何を意地になっているの私ったら)
もうとっくに、ミレーヌもどうして怒ったのかすら覚えていないくらいだった。
出しっぱなしの筆記用具を片付けてから、追いかけて謝ろうと思いデスクに向かった。
「ひぃっ?!」
そこには白いハンカチに赤いどろどろしたもので一言だけ書いてある。
『ごめんなさ』
ごめんなさいと書きたかったが、”さ”の後にスペースがなかったのが解った。
ヴェスタは口紅で文字を書いたので、あちこちに滲んだり飛び散って、不気味なダイイングメッセージのような文字が残されていたのだった。




