【第792話:その世界では偽ることが出来ない】
アイカとジュノは手を繋いだまま上空から下りてくる。
青空の下に広がる緑の大地はエメラルドの輝きを返す硬質なもの。
白く分厚い城壁の彼方には、かつてたどり着いた天守がそびえていた。
「‥‥ヴェスタの精神世界はとても綺麗ですね」
アイカがしみじみと言う。
「お姫様だからね!」
にっこりとジュノも答えた。
ここを訪れるのも2度目となるコンビだった。
巨大な城壁に対して小さな城門は、それでも見上げるほどの大きさだ。
「アイカの世界はピンクの地平線で、ヴェスタは緑色‥‥どうして私のは深い井戸だったんだろう?井戸なんて見たこと無いのにな‥‥」
ジュノが首を傾げる。
「うーん‥‥どうなんでしょ?」
ふわりとアイカは優しい微笑みを浮かべる。
「わたしの世界は愛佳からもらった世界‥‥‥デジタルに複製したものだったの‥‥それは自分でそう定義したから‥‥愛佳から全てもらったのだと」
やさしい時間を思い出したのか、アイカの瞳に柔らかな光が宿った。
「あの井戸はきっとジュノの本来持っている広い世界を閉じ込めたものですね‥‥そう定義したのでしょう」
うーんとよく判らない様子のジュノ
「ま、いっか」
それはそれでいいかと無理やりに納得。
今の自分をジュノは気に入っていたから。
「では行きましょう‥‥」
アイカがきりっと表情を引き締める。
「うん‥‥」
ジュノもふんわりしたところをしまい込み、戦える顔に戻す。
固く冷たい表情。
本来柔らかく温かな自分を押し隠してしまう。
それは長い戦いの日々に作り上げた、戦士としてのジュノの仮面だった。
ざわりと異質な気配を感じ取り、姫ヴェスタはアストレアを背にかばう。
エメラルドの瞳が睨みつけると、背後からひろがり襲いかかろうとしていた黒い影はわだかまりヴェスタ達の前に留まった。
「なにものです。ここは高貴なる魂の坐す場所‥‥汚らわしい影の入れる場所ではありませんよ」
静かに痛烈に言い放つヴェスタ。
意味がわからず庇われ戸惑ったアストレアも、足元の影に怖気がさした。
ざわざわと蠢く影は伸び上がり人型になる。
『ダマレ‥‥マガイモノメ‥‥』
影が人型を保ち真紅の瞳を開き、声を発する。
人を模した影が指差し、姫ヴェスタをまがい物と言う。
怯むこと無く見つめ返すヴェスタの視線に力が在るのか、人型の影は怯み後ずさる。
燃え立つ高貴な緑色の光に怯えたように見えた。
「こ、これは何?」
アストレアもヴェスタの肩越しにその影を見て怯えていた。
その影がまとう気配にアストレアはどこか覚えがあった。
「わたくしにもわかりません‥‥アストレアの中に居たとしか思えません。覚えはないのですか?」
ちらとアストレアを見たヴェスタがたずねる。
ここは精神世界。
招かざるものが気付かれず入り込むのは、構造的に困難だった。
アストレアの心に触れずには入り込めないから。
「‥‥ゆ‥‥夢を見るの‥‥怖い夢を」
ふるふると震えだすアストレア。
精神世界では自分を偽ることが出来ない。
強がることも出来ないのだ。
怯え涙を流すアストレアは、がたがたと痙攣するように大きく震える。
「そ‥‥その夢に似ている‥‥おぞましい気配‥‥こわいわ」
そういって涙をヴェスタの背に染み込ませるアストレア。
すっかり怯えてしまい、幼い仕草だ。
きっとまた前を向くヴェスタが影を睨みつける。
「‥‥去りなさい‥‥お前の居場所はここにはありません!」
りんと言い放つヴェスタの瞳が燃えるように光を放つ。
――Svētā Gaisma!
唇から聖句が流れ出す。
それは女神教に伝わる魔を払うとされる言の葉。
――Dod savu spēku manās rokās....
差し出した右手に黄金の光が集る。
影にはヴェスタの全身を包みこんでいた、まばゆい光が集まったように感じられる。
ずざざと下がる影は、怯えたように悲鳴を上げた。
『イヤダ‥‥ヤメロ‥‥』
きゅうぅと音を出して光は強くなる。
アストレアは目を閉じてヴェスタの背に顔を埋めた。
その光に照らされた影を見るのが恐ろしかったのだ。
――Šī lūgšana nekad neizzudīs, un ar lūgšanu padzini ļaunumu!
ぱあと輝く光は、アストレアとヴェスタの視界すら奪う光度となる。
『アア‥‥ミナイデ‥‥』
黒い影は打ち払われて、奥底に人の体を表す。
横座りになり顔を覆う姿。
黒い皮紐を衣服のように体に巻き付けている。
本来隠すべき場所を強調するようなその姿をヴェスタはよく知っていた。
かつて己にもそのおぞましい行為は振るわれたのだから。
怯んだヴェスタを押しのけて、背に庇っていたアストレアが飛び出す。
「やめて!!」
全身で覆いかぶさり影を覆うアストレア。
影から現れたその姿を隠すのには理由があった。
アストレアが腕の中に庇った影が顔を上げる。
驚愕の中で右手を下ろしたヴェスタの光は収まっていたから。
「‥‥そんな」
アストレアが庇った影もまたアストレアだった。
影のアストレアがにんまりと顔を歪める。
その表情はヴェスタにしか見えない。
『ガァアアア!!!』
両手を突き出す影のアストレアから漆黒の闇が吹き出し姫ヴェスタを飲み込む。
突き飛ばされたようにぺたりと座ったアストレアは、何が起きているのか理解できない。
ただただはしたない自分を見られたくないという羞恥で真っ赤になっていた。
悪夢の中から出てきた、誰にも見られたくない自分の姿を。
打ちひしがれたように地に伏せたアストレアに声が落ちる。
『‥‥逃ガシタナ?ナゼダ!?‥‥コノ姿ヲ見ラレタノダゾ!』
再び影を纏った悪夢アストレアは、責めるようにアストレアをなじる。
吹き出した影は再び悪夢の自分を隠し、肌色を犯すように周囲に揺らめいていた。
「い‥‥イヤよ‥‥ヴェスタに見られたくない‥‥」
アストレアはこの影に心当たりがあった。
これを自分だとヴェスタに知られたくなくて、隠したのだ。
『オロカナ‥‥コノ姿コソガオマエノ本性ダトイウノニ‥‥』
影は悲しげに告げる。
「ちがう!!」
きっと座ったまま見上げたアストレアの双眸には溢れ出す涙。
『‥‥サア‥イツモノヨウニ受ケ入レルノダ‥‥コノ影ノ祝福ヲ‥‥』
ざわざわと影を纏った悪夢が這い寄る。
「い‥いやぁ‥‥」
力なくずり下がろうとするアストレアだが、逃げ出せないこともよく知っていた。
これは自分の悪夢なのだからと。




