【第789話:有意義な時間の終わり】
先日のお風呂ですでに互いの感触を知っていたので、素直に言葉が出てくるのだとアストレアは考えていた。
ヴェスタが自然な微笑みを浮かべると、アストレアも嬉しくなって笑みを浮かべてしまう。
交わされる言葉は外交上のすり合わせのような話が多いが、今日何かを決める予定でもないので、互いに主張し合うだけと成った。
そうして話し合ってみれば、ヴェスタ達の掲げる女神ラウマの教えは、驚くほどアストレアの願う理想と近いと知った。
「凄いと思います‥‥軽犯罪ですらそんな頻度とは‥‥命に関わる罪は一度もないのですね?」
死刑を執り行ったことはないし、まして帝国のように死罪以上ともいわれる重い刑罰はないと聞きアストレアは驚く。
「いえ‥‥まだ出来たばかりの国ですし、3つの街にたった20万人の国民です‥‥大帝国で参考になさる数字ではないでしょう」
にっこりとヴェスタは告げるが、比率的に考えてもありえないほどの犯罪率だと瞬時に計算したアストレアは驚く。
そうした雑談のようなやり取りで和やかに時間は過ぎていった。
アストレアの目指す法治にも理解を示すヴェスタは、知性も深く言葉の裏までを読み取って共感してくれる。
そういった同じレベルの会話を、エリオン塾の身内以外でしたことがなかったのだ。
フローラやヴァレリーと会話する時のような気安い空気までがそこには出来上がっていた。
そろそろですとフローラに耳打ちされて、アストレアは目に見えて淋しそうな顔をしてしまう。
このほんのひとときだがヴェスタと話してみて、得るものの多さよりも、その心地よさが終わるのだと淋しさを感じた。
「‥‥そろそろ時間となるようです‥‥‥‥叶うなら‥またお話したいと思うのですが‥‥」
もにょもにょと後半は独り言のように口の中に消えていったアストレア。
すっと立ち上がったヴェスタが告げる。
「どうでしょう。提案なのですが」
そう言って立ち上がると振り返り、後ろの聖騎士と目線をかわす。
ヴェスタの左右後方にいたジュノとアイカがにっこりとうなずいた。
任せますと言ったニュアンスに、家族のような信頼を見て、アストレアはそこにも羨望すら感じた。
振り向いたヴェスタがアストレアを見ながら続ける。
「‥‥こういったお話し合いは、きっと世界中の人に取って必要なのではないかと、わたくしは考えます」
いままで意思を交わさず来た帝国と聖王国の距離は、少なくともアストレアの中では驚くほど近くなった。
2国の関係がどうなっていくのか、緊張感をもって探り合うような日々が、たった一時間にも満たない時間でくつがえった。
それは為政者としては素直すぎる2人の間だからとも言えるが、確かに効果的な時間だと感じた。
「どうでしょう。アストレア陛下が音頭を取られたら、各国も遠慮すること無く参加できるのではないでしょうか?」
話が少し飛躍して、アストレアはついていけない。
ヴェスタにその意図はないが、フローラやヴァレリー宰相辺りは、痛烈な皮肉と受け取り眉をしかめる。
ラウメン聖王国主催の鎮魂祭に、参加しなかった国も多かった事を差したのだと受け取った。
「世界会議を開催して、陛下の考えを広く知らしめるべきと思います」
そういってまた一歩近づくヴェスタ。
ニッコリと笑い、もう御簾のそばまで来ている。
「いけません‥‥」
フローラが裾をひいて止めたが、立ち上がったアストレアは、振り返り小声で告げる。
「ごめんなさい‥どうしても誠意をお返ししたい‥‥ヴェスタ様は真摯に二心無くそこにおられるの」
世界中にいる女神教の信者たちが崇敬する、女神ラウマの使徒がそこで立って待っているのだと。
そうしてフローラの引く袖をそのままにすり抜け、一人御簾を越えて前に進んだアストレア。
ついにヴェスタの対面に立ち、微笑み合う。
「素晴らしい提案です。さっそく臣下達と話し合ってみます」
すっとヴェスタが近づいて右手を出した。
惑星アルドゥナでももちろん握手の習慣はある。
国家元首同士であれば、それは和平や行政上の和解を見たと示す象徴的行為でもある。
微笑みのまま鏡写しのように似ている2人が手を結んだ瞬間に、誰ともなくため息が漏れた。
2500万を越える人口を抱えた世界に比肩する国とてない帝国と、世界中を合わせたらそれ以上の信徒を持つ女神教の使徒が手を繋いだ瞬間だった。
2人にはそういった意識はなく、ただ好ましい時間に感謝を告げる行為だった。
――Parameter.SealBreak()
Area.deploy()
...
急にフリーズしたように一時停止したアストレアの唇が式を小声で高速詠唱。
視線は少し上向き、固まったままヴェスタを捉えていない。
ふんわりと繋いだ手のひらの間からぶわっと黒い影が巻き起こり瞬時に2人を包んだ。
真っ黒な霧に2人が包まれていたのは2秒に満たない時間。
「アイカ!!」
叫んだ瞬間にジュノは飛び込み、ヴェスタを抱きしめて離れる。
どぉんとソニックブームが起こり、水蒸気が爆発するように黒い霧を晴らした。
ふらりと揺れていたアストレアが、ぱたりとたおれる。
「アスティ!!」
咄嗟に飛び出してきたフローラが、侍女の衣装を乱しながらアストレアを抱き起こし胸にかばう。
視線は一瞬で抜刀した聖騎士達を睨んでいた。
ジュノに指示されたアイカが、カウンターマジックを高速詠唱していると、瞬時にヴェスタを抱えたジュノが戻りそばに来る。
...
Execute —Magic Noema scan !!
式を唱え終わっていたアイカが、即座に全身スキャンをかけてヴェスタを診断した。
霊子波をアクティブに体内へ放ち、瞬時にバイタルを確認してしまう。
「‥‥毒物反応なし‥‥魔法励起反応あり‥闇魔法‥精神魔法です‥‥」
魔法の種別を確認すると、即座にカウンターマジックも詠唱に入るアイカ。
後はすることはないと判断し、すっくとジュノが2人を背にかばい前に出る。
「貴様ら‥‥ヴェスタに何かあったら許さないよ」
まだ抜剣していない自然体のジュノだが、視線に込められた圧力は、あの甲板で吹き付けた殺気を越えるもの。
アストレアの元まで来たハーグリーブスには、後ろで抜剣したリステル達よりも恐ろしく感じられた。
視線だけで心臓を掴まれたかのように青ざめるハーグリーブスだが、必死に睨み返し肉親とも思っているアストレアを背に庇った。
フローラが医師を呼ぶ叫びをあげ、控えておろおろしていた侍女達が、慌ただしく駆け出していった。
ここでやっとヴァレリー宰相もハーグリーブスの横まで来て、アストレアとフローラをかばい必死に睨み返す。
かたかたと震えているのは、主にジュノのあててくる殺気にやられているから。
今時点では双方が、相手の仕掛けた何かだと考えているのだ。
そうして圧力を伴った緊張をうちやぶるのはアイカの叫び。
「ジュノ、もうやめて!ヴェスタは大丈夫、気を失っているだけ」
側に来たリーベとマナミにヴェスタをまかせ、立ち上がるアイカがジュノのとなりまで進む。
「‥‥そしてあなたたちにとっても想定外ですね?そこの人間達」
アイカの言葉は平静だが、瞳からは真っ赤な魔力が溢れ出し、眉も少しきりりと上がっている。
口の聞き方に気をつけろと、忠告されているようなちりちりとした気配。
ジュノの分かり易い殺気と違い、何が起こるか判らない活火山の火口のような恐ろしさ。
ハーグリーブスもフローラもそう感じ取り、麻痺したように答えられずにいた。
「‥‥そ、そのとおりです!アストレアも意識が戻らないし‥‥何が置きたのか‥‥」
必死にふるえる体でヴァレリー宰相が答えた。
音のないカウントダウンを、真紅の光を宿すアイカの視線から感じていたから。
普段非公式の場ですらめったに口にしない、アストレアの名前すら呼んでしまった。
今、ヴァレリー宰相の両肩に真実帝国の運命が乗っていた。
アイカが本気で魔法を放てば、この帝国ホテルだけではなく市街地一帯が一瞬で溶けて消えるのだから。




