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アナグラム  作者: 七海美桜
キルケゴールの挫折

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過ち・中

「その件に関しましても、『私達』は興味も関心もありません。神崎さんと池波さんは、プライベートでも仲が良かったんですか?」

 篠原はあまりいい顔をしなかったが、櫻子は本当に興味がないようで話を変えた。その様子に、三浦はどことなくほっとした顔になった。


「神崎は真面目やから、毎回新人指導は率先してくれてましたよ。けど、プライベートは特別仲良かったように見えませんでした。親子ほど年が離れてますしねぇ。池波君と仲良かったんは、新井君やろか……年も近いし、その……前科も似てましたんで」

 三浦は鍵をポケットから取り出すと、書類がしまわれている戸棚を開けて青いファイルを取り出した。


「ああ、この子です。新井竜哉(りゅうや)、年も二十四歳で近い子ですわ……この子には、塗装を任せてます。十代の頃ストリートアート? ってのを昔アメ村の店舗のシャッターに、勝手に描いてたそうです。その道具のスプレーなんかを盗んでたそうで」


 アメ村というのは大阪メトロの心斎橋駅の、長堀通りから道頓堀まで広がるエリアにある『アメリカ村』と言う場所だ。芸人やミュージシャンが多く訪れて、彼らが好むようなファッションや音楽であふれ、大阪の若者が集まる有名な観光地になっていた。


 三浦からファイルを受け取ると、それは従業員の履歴書の(たば)の様だった。ファイル分けをしているようで、罪状が書かれている所を見るとこれは前歴者のファイルかもしれない。

 新井は少年鑑別所から『今井』という人を(かい)して、ここで就職する事になったと書かれている。

「紹介者の項目がありますが、これは?」

「ああ、大抵そこに書かれてる人は、保護観察官か保護司(ほごし)の人ですわ。うちは社会更生を目的として、前科のある人を従業員として多く雇ってますんで、その人達から紹介して貰っています」


 更生保護法六十条により、保護観察対象者の居住地を管轄する保護観察所が更生、指導、監督しなければならない。保護観察官とは常勤の国家公務員であり、保護司とは国家公務員の資格を有するボランティアだ。

 犯罪が増える一方、保護観察者の数が圧倒的に足りない。保護司もかかった費用は支給して貰えるが、逼迫(ひっぱく)した予算では彼らへの報酬は出せず無給になっている現状だ。それ故に、なり手が少ない。保護観察官と保護司だけで対象者全員の生活を把握、そして指導は難しい。彼らも、観察しやすいように対象者には早く仕事という安定した生活を送って欲しいのだろう。

 三浦板金の様に前科者を優先的に受け入れてくれる場所は、彼らにとって理想的だ。


「どうして、三浦さんは前科者を率先して採用するのですか? 何か見返りでも?」

「いやいや! そんな事はしてません、先代の意志です!」

 櫻子の僅かに嫌味を含んだ言葉に、三浦は冷や汗を流しながら慌てて首を振った。

「九年前死んだ先代が、神崎の仕事ぶりを見ていてそう決めたんですよ。(たえ)が――あ、妙は先代の娘で私の嫁です。その言葉を守ってるんで、うちは厄介な事が起きない限りはその方針を変える事はありません。だから、池波君は無実やないと困るんですわ……」

 それは、三浦の本心だろう。多分、神崎以外は相場より少し安い給料なのかもしれない。三浦板金にとっても、経費が安くなるなら理想的だ。


「その新井君は、今日は出勤しているんですか?」

 ファイルを三浦に渡すと、櫻子は閉める前にもう一度新井の顔を確認した。修理工場の三人いた内、最も奥にいた金髪の青年だと分かっていたのだが。

「居ますよ。呼んできますわ、すみませんが待っててください」

 珈琲を飲み干して缶をゴミ箱へ捨てると、三浦は重そうに体を揺らして事務所を出て行った。


「篠原君、新井君の事も調べる様に笹部君に連絡してくれない? それと――」

 櫻子の言葉に頷きスマホを取り出そうとする篠原だったが、慌てた様子の三浦が大きな音を立てて再び事務所に入って来た。


「新井君に声かけたら、逃げよった!!」

 その言葉に、篠原はカバンを置いたまま無意識に事務所を飛び出した。


「新井さんは!?」


 修理工場に居た神崎に声をかけると、彼は動揺した顔を見せたが「左の路地に!」と教えてくれた。篠原は礼を言う余裕なく、急いで駆け出す。薄緑の作業服の後ろ姿が、遠くに見えた。


「クソ、背広は走りにくい!」


 篠原は、それでも必死にその後ろ姿を追った。僅かに距離が縮んでくるが、まだ追いつけそうにない。

 新井の走る、その先。園児たちが外での遊びを終えたのか、小さな手を繋いで道を渡っているのが見えた。どうやら新井は、帰り道を進む園児たちの列に躍り出たようだ。


「っ、!」


 園児たちの列に飛び込めば逃げられただろうが、園児を傷つけない為か新井は転がる様に道路に倒れた。息を乱した篠原がその場に着くと、園児や保育士らしい女性が二人心配そうに新井を見ていた。

「お兄ちゃん、転んだの? 痛い?」

 園児たちにそう声をかけられても、何も言えずぜぇぜぇと荒い呼吸の彼に代わって、篠原は彼の腕を掴んで笑いかけた。

「お兄ちゃんと、鬼ごっこしてたんだよ。ごめんね? ほら、帰らないと先生が心配するよ?」

 保育士に頷くと、彼女達は頭を下げて再び園児たちを誘導しながら歩いて行った。

「……俺、何も……知ら、ねぇ……」

「それは、事務所で聞くよ。園児に怪我させようとしなかった君を、俺は信じるから」

 新井は言葉に詰まって黙り込んだが、まだ息を乱したままゆっくり立ち上がった。


「どうせ手を握られるなら、あの美人が良かったけど」

「それは、ずるいな。俺だって、握ったことないのに」

 篠原の言葉に、新井は小さく笑うと冗談を口にして篠原と歩き出す。


 篠原は工場が見えてくると、彼を掴む手を離した。それは、篠原なりの新井へ対する信用の(あかし)だった。

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