無垢のインケラーシャ5
『伝承はこれで終わりだ。ハクナは二度とキドラクに現れることはなかった。それどころか、キドラク以外の島に、ハクナの口伝は一つも残されていない。親を食ったハクナは心を痛め、絶望の中、別の島でひっそりと暮らすようになったのだろう』
聞くだけ聞いたので、礼を伝えたのち、私は一応、彼に一つ尋ねることにした。海に向かって飛び去ったハクナが、現大陸に、つまり現帝国領に飛来した可能性は無いものかと。彼は首を横に振った。しかしそれは否定ではなく、不明を意味する意思表示らしかった。つまり、ハクナのその後については、あくまで長の想像の範疇を出ないということだ。
加えて一つ、長に尋ねてみた。こちらは興味本位というか、仕事柄、明らかにしておきたいと思っただけだが。諜報を生業にする以上、中心に捉えたいことは一つ。諜報対象の人となり、そしてその目的、行動理念。ハクナに宿った神だか悪魔だか、ソレが求めたものは何だったのか。そして、自意識がある以上、生命をもつ以上、ハクナ自身の望みも失われていないはずだ。村民を全て食い尽くすことも容易かったにも関わらず、海の果てに飛び去った目的は、そこにあるのではないか。それとも、ただ物語として役を終えただけなのか。
『伝承で神の印について語れる事実は少ない。だが、この凄惨な口伝をもってなお、これが神の印と言われる所以は、死すべき少女を救ったということに尽きる。村民を殺すのが神の意志ならば、わざわざ矮小な人間に、それも病床に伏せる少女に、取り憑いて殺すようなことはなかろう。なにせ、放っておいても死ぬのだから。ハクナについても同じだ。彼女は神の宿主ではあったが、そもそもはただの人間だ。病に死の淵を彷徨っていた、弱い弱い少女である以外、ほとんど語られたことはない。望みといえば……そうさな、殺した母を蘇らせること、くらいだろう』
それはそうだろうが、と私が言うのを長は制した。
『ハクナは死んだのだ。いや、死んだも同然だった。当然に死すべき病で、死ぬ寸前だった。幼い彼女自身が、死という現実を自覚していたはずだ。だからこそ、自らに宿った神が、殺した母を生き返らせる可能性すら信じたやもしれん。そうでなくとも、ハクナに信じられるものが、縋れるものがあるとすれば、身に宿った神の印しか無かろうに』
長から聞くことのできた話は以上で全てである。これらの口伝をどう受け取るべきか、それは王と、王の眼に委ねるものとしたい。しかしながら少しばかり、諜報局長として粗末な愚考を以下に述べて今回の調査報告の締めとする。
第一に、神の印とはホロウメラデュラの原型である。あれは概念と生物の中間地点だ。我々からすれば形而上的な存在ではあるが、いわゆる神のような概念からは一つ格が落ちる、生命体の枠組みから逸脱しないもの。
第二に、神の印はハクナと習合したことにより、ホロウメラデュラとして完成したと思われる。なぜなら、神の印は寄生虫としての生物的特徴を持ちながら、生存サイクルを持たないからだ。生物である以上、寄生虫の宿主は必ず死ぬ。それを乗り換え、自分もまた次の世代に生命を繋ぐ。それが生物である寄生虫のライフサイクルだが、インケラーシャである神の印には、そのような理は見られない。
つまり、神の印とは無垢のインケラーシャであった。赤ん坊だったのだ。その行動理念を、存在意義を、他者に依存していた。それを与えたのが、ハクナであると考えらえる。
では神の印が宿したハクナの意志とは何か。ひいてはホロウメラデュラとは何者か。
長の言う通り、ハクナの願いは母を蘇らせることだったかもしれない。しかし、それが可能だったとは到底思えない。なぜなら、神の印がホロウメラデュラと成り果てた時点で、その異常性の行く先は決定づけられてしまったからだ。
それは、神の印が最初に起こした奇跡。ハクナは「生きたい」と願い、神の印はそれを叶えた。
ハクナを救えたならば、母も蘇っただろうか?
いや、それは違うだろう。
ハクナを永らえさせるために、ホロウメラデュラは特殊な方法を採っていた。霊長として救いようの無い容体だったハクナの構造を「植物」に置換した。その結果、ハクナは日中のほとんどを陽光を浴びることに徹し、睡眠を必要とせず、不足したエネルギーは獣を狩ることで補った。その歯車を壊したのが、前代未聞の雨季だったのではないか。
「死した」「人間を」「元に戻す」ほどの権能は、ホロウメラデュラにはなかった。
もはやそれは、神の印では無くなっていたのだから。
では、母親を救えないと解ったハクナは、大陸で何を為しただろうか。母を殺したのは自分自身であり、復讐する対象すら無い。母を殺した原因は神の印だが、これは自分が生きたいと願ったせいだ。しかしそれ自体が罪だろうか? 生まれて間もない子どもが、まだ生きたいと願うことが罪だと、彼女が認められるだろうか? それを認めるのなら、彼女が選ぶのは自死だろう。しかし、元を辿れば、辿り着く先は、もっと根本だ。子どもが簡単に死ぬ定め、そのように規定された世界。
破壊するのではない、変革するのだ。
死すべきものを生かす力が、そのためならば常軌を逸した結果をもたらすインケラーシャが、ハクナには宿っていた。
顧みて、ハクナの願いとは、「全ての病を治すこと」だったのではないだろうか。自分がその装置になること。ハクナの知る「病を治すもの」は、神の印を除けば、祈祷と薬草しかない。人間の祈祷で病が治らないことは、彼女自身が良く分かっている。とすれば、彼女が縋れるものといえば、彼女自身も知らぬ薬草だけ。
だが、それは作れない。知らないものは、願えないのだから。だから、彼女はある決断に至った。万能の薬草を願うのではない。どんな薬草でも育つ土壌をつくるのだ。どんな病でも、そこへ行けば必ず薬がある、そんな土地を創るのだ。そうして、ハクナの願いをホロウメラデュラは受け止めた。
彼女自身が、土壌になるのだ。
この世界にただ一つしかない、怪異の大樹の存在に説明をつける。
「待て、まさか」
私の結論は以下の通りだ。
宝樹アノマリスは、ハクナである。




