無垢のインケラーシャ4
長は背後を振り返った。壁掛けの絵が飾られていた。古びた絵は、どことなく洞穴絵画の図柄と似通っていた。しかし、写実的に、歴史的な記録を残したらしい洞穴絵画とは異なり、壁掛けの絵に描かれた樹木は何かを象徴するように、現実的とは到底思えないほど巨大に描かれていた。大陸に渡れば宝樹アノマリスの姿と重なり合うが、この原生群島の木々は樹齢数百年を重ねても、横へ横へと傘を広げるばかりだ。
『十の昼夜を過ぎ、ハクナの命は蜘蛛の糸ほどに細く弱く衰えていた。キドラクの民たちも多くは彼女の快復を諦め、葬儀の用意を任されるものもあった。石と薪が集められ、干し草が敷かれ、天にハクナの魂を返す準備が整えられるのに一晩を要した。だが、その直後、彼女は急激に容体を持ち直し、自力で起き上がり、あろうことか駆け回るまでに回復したのだ。村民は訳が分からずも、彼女から悪魔が祓われたことに歓喜し、父母は感涙し、生の神コルトスに感謝を捧げた。それから実に二年にわたり、村の子どもから死者が出ることは無くなった』
その後、ハクナは成人した男に比べてもよく食べるようになり、それに比例してか、膂力は男たちを上回るほどに強靭に成長した。それでいて、外見は何も変わらなかったという。それは見た目に変化が無いというのではなく、文字通り、ハクナの身体は成長を止めてしまった。身長は伸びず、顔つきも変わらず、まるで、時が止まったようだったそうだ。
ハクナは睡眠をほとんど取らなくなり、夜の間には単独で狩りに出かけ、捕えた獲物の半数を村に還元し、残りは自分で喰った。毎夜、大型の草食動物を少なくとも二匹は斬り殺し、最低でも丸一匹を喰っていた計算だ。
一方で昼間は家の屋根の上に座り込み、まるで根が張ったように、じっとして動かなかった。昼間に寝ているのかと思われたが単に動かないだけで、村民が呼びかければいつでも応えた。日光浴をしているだけらしい。
村民たちはハクナの姿に奇妙な恐ろしさを感じつつも、その恐れはやがて畏れに変わっていった。まさしく、悪魔だか神だか、そういったものに対する信仰心、畏敬の祈り。村で新たな子が生まれれば、必ずハクナに抱かせた。ハクナが村に捧げた動物の肉は、子どもや年寄りに優先的に与えられた。
ハクナを取り巻く状況は沈み行く太陽のように、徐々に姿を変えていった。村には新たな秩序が生まれ、ハクナという個体を中心にして、環境が整えられていった。その様は、さながら宝樹アノマリスを抱えた現代のゼプキル市の有り様と重なって見える。
『そして、ハクナが悪魔から解放され、ちょうど二年の月日が流れたその日。ハクナが神へと昇る日が訪れたのだ。雨季の長い年だった。空は始終暗雲に覆い尽くされ、村は嵐に襲われて民は動けず、ハクナが夜間に狩る獣も増えていた。陽の差さぬ日が続いた十日目のことだ。ハクナの白い髪が、燃えるような朱色に染まった。背中の皮膚を突き破って新たな骨格が暴れ回り、それは見る間に翼に変貌してしまった。磨かれた宝石のようだった肌の表面には鱗のような外皮が浮き出し、彼女は苦悶に声を上げた。村民たちはその姿に恐れながらも、ハクナには神が宿っていると信じ対話を試みた。その対話に白羽の矢が立ったのは、当然とも言うべきか、ハクナの母親だった』
「父親でもよくない?」
「既に他界していたと言われています。死因について、ハクナという少女の関わりは不明のようです」
「そーかい。神話に近いおとぎ話なんだろうけど。研究者なり家族なり、そういう『異形』と話そうとする物語って、辿る結末は一緒だよね」
『姿かたちが変われど、ハクナはハクナのままであった。母の呼びかけに応え、近づこうとする村民たちを必死で制した』
「あれぇ~?」
『ハクナの姿は見る間に朱く朱く染まり、それでいて翼を得たその姿は、まるで堕胎したばかりの天使を思わせた。苦しみに喘ぐ彼女の制止を聞かず、近寄った数名の男たちは、鋼のような花弁に切り裂かれ絶命した。するとハクナはそれらに飛びつき、まるで獣がするように肉を喰らい、蝙蝠のごとく血液を搾り取った。その状況に至ってなお、残酷なことに、ハクナはハクナのままであった。村民を殺し、喰い、そして彼女は悲鳴を上げた。足の動く全ての村民は逃げ惑い、蜘蛛を散らすように村を離れていった。残されたのは、立って歩くこともままならない老人と、幼い子ども、赤子、それに、ハクナの母親だった』
「村が残っているんだから、全滅は無いわけだ。母の愛ってやつ」
『ハクナは全てを喰った』
「あれぇ~?」
『泣き叫ぶ赤ん坊も、発声すらできなくなった年寄りも、ハクナの名を呼び続けた母親も、その場にいた何もかも、殺し尽くし、食らい尽くした。それでも、ハクナの意識は失われなかった。ハクナは泣きながら絶命した母親を喰った。腕をもぎ、脚を折り、引きずり出した子宮を、弟だか妹だか分からない胎児もろとも喰らった。数時間後、残った母親の頭を抱えたまま、ハクナは海の彼方に消えた』
長は語り終えると、寿命でも尽きたように固まった。そして深いため息を吐くと、少しだけ身震いをしたようだった。




