花の嵐
嵐の中に居た。
宝樹の根元、世界樹の傘の下、その聳え立つ壁の眼前に。
低木を根こそぎ薙ぎ払い、草花の抱え込んだ土壌すら豪風の中へ巻き上がる。
嵐の中に居た。
しかし、私たちにはまるで他人事のような雨だった。吹きすさぶ魔力風は指先まで届かず、髪を靡かせることもない。まるでガラスの窓越しに、スコールを眺めるよう。
新しくなったマリアの中から私たちは外側の世界を見ていた。
握った手を確かめる。あなたの手のひら。生簀の中でも私は生きているのだと、そう思い出させてくれた温かな手のひら。震えがちな細い指先をぎゅっとして、向かい合う。
「成功、したかな」
でも、私が口を開く前に、あなたの方から言葉が漏れた。普段の快活なあなたとは少し違う、頼りなげな睫毛。
「さっき、洞の中で火が見えた。大丈夫、成功だよ」
「そっか。よかった、あたし……」
うるんだ瞳で、少しだけ朱に染めた頬で。あなたは喉を震わせた。
「やっと役に立てた。やっと……やっと、あたし、役に立った」
吐き出すように、飲み込むように、波打ち際の感情があなたの髪を燃やす。
「ねぇ、ハナちゃん」
「うん」
「あたし、できたのかな。本当に、やり遂げたのかな」
「うん、きっと」
「いっぱい、いっぱい間違えて、いろんな人に助けられて、ここまで来たんだよ」
「うん、そうかも」
「転んでも、血が出ても、立ち上がれなくなっても、ここまで這って来たから」
「うん、知ってるよ」
「ハナちゃん、あたし、やっと、やっと、ようやく、全部できたんだ!」
「うん……うん。すごかったよ」
昂揚し、心臓の鼓動が早くなるあなたの瞳を、私は真っ直ぐに見つめる。吐息が漏れ、かすれていく声色が、木枯らしみたいに通り過ぎていく。
「長かった……本当に、永くて辛くて、ハナちゃんが一緒にいてくれてくれたから、あたし……」
あなたは空を見上げるみたいに、頭上を眺め見た。ほんとうに悲しい時だけ見せてくれる、あなたの、いつもの癖。その仕草の意味を、たぶん今はもう、私だけが知っている。
「あぁ、よかった! よかった……あたしこのためにきっと、生まれて来たんだ。あたしの人生、なんにも無いと思ってた。でも、ちゃんと意味があった!」
「うん、よくがんばったね」
私はただ、ただずっと、手を握る。少しだけ、手のひらに力を感じた。あなたが初めて、私の手を振り解こうとした。網にかかった魚のように嫌がって逃げようとするあなたの手を、しかし私は逃がさない。あなたの言葉を受け止めるまで、私はあなたを、絶対に一人にしないから。
「……っ」
振り返ったあなたの瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。嗚咽を漏らして、しゃくりあげて、唇を噛みしめて、あなたは涙を流していた。
「ハナちゃん……!」
「うん」
「どうしよう、あたし」
私は、ずっと待っていた。あなたが、私を呼んでくれるまで。
ずっと私を照らしてくれたお日様に、ただの一度くらい、必要とされたいと願って何が悪いだろう?
雨模様の私の太陽が、ぐしゃぐしゃになって泣き出した。
「まだ、しにたくないの……」
私は、あなたの震える手のひらをあっさり放り出して、代わりに揺れる肩を、その髪を、私の胸いっぱいに抱きしめた。あったかいお日様が、まるで夕立に濡れそぼった子犬みたいだった。
「うん。分かってるよ」
あなたはお日様。私の太陽。
だけど、私にとっては、それだけじゃない。
「大丈夫だよ、レナちゃん」
「ハナちゃん……?」
「私、昔の話、したことあるでしょう? レナちゃんは優しいから、滅多に私に故郷の話を聞かないけれど。私の島がどうなったのか、話したことあるでしょう?」
「……うん、聞いた」
「私ね、父も母も、一緒に暮らしていた人たちも、村も島も、なにもかも、全部亡くしたんだ。持っていたもの、大切なもの、思い出、全部」
背中をさすって、頭を撫でて、私はゆっくり、あなたに語り掛ける。あぁ、なんてことだろう。こんなお話が、あなたとの最期のおしゃべりになるなんて。
「もう何も、失くすものなんて無かった。全部失くして、どうでもよくなって、何を言われても辛くないの。何をされても痛くないの。どんなことも、記憶よりは痛くなかった」
もっと話すことがあったかな。楽しいお話がよかったかな。笑い話はあったかな。レナちゃんが好きなお花のお話も、いつか見つけたシーソーのお話も、あぁ、あぁ、本当になんてことだろう。話したいことが、次から次へと湧いて来るのに。私の口から零れ出る言葉の一つひとつが、針の先みたいに尖って、私の喉を裂き、耳をつんざく。
「でもね、何にも無いと思っていたのに、何にも無かったはずなのに」
それでも、私の言葉は紡がれなければならなかった。それを、私自身が知っていた。喉の奥に突き立つナイフでも、たとえそれが声帯を切り裂いても、血が迸って声が出なくなっても、それでも。
それでも、これは愛の言葉だったから。
「私には、あなたがいたの……!」
小さな嗚咽が、胸の中から聞こえてくる。悲しまないでほしいのに。元気になってほしいのに。最後まで、最後まで、この声が消えてしまうまで。あなたに聞いていてほしい。
「ありがとう、レナちゃん。一緒にいてくれて」
「ハナちゃん……!」
嵐の中、ガラスの中、涙の中。あなたを抱きしめたことを、私は忘れない。
ずっと、ずっと、その先のずっとまで。
あなたが忘れたずっと先まで、私はきっと、忘れないから。
「おねえちゃんが、助けてあげるからね」
ガラスが割れる。亀裂が走り、空が、大地が、世界が割れる。切り裂かれたのは、私たちの魂だっただろうか。
繋がりが解けて、混ざり合っていたいのちが分かれて。
私たちが、ほつれていく。
あぁ、誰かが私を呼んでいる。こうなることを、きっと知っていた誰かが。
ぼやけた輪郭が光の中に浮かび上がる。記憶の彼方に立つ貴方。
私は、貴方の望む、立派な私になれましたか?
貴方と同じように真っ直ぐに立てる私に、今この時だけでも、なれたでしょうか?
「王さま……私は、がんばれたでしょうか……?」
恒星に消え、燃え尽きるような意識が、遠のいていく。
よかった。
最期の最期に、太陽が見えた。
うん、きっと。
それならきっと大丈夫。




