その少女の追憶7
その人のことを尋ねようとした途端、私は思わず、そして静かに口をつぐんだ。レナちゃんの瞳の端に小さく光が反射して、なぜだか首を絞められたような気持になった。
「その人は私をここに連れてきて、言ってくれたの。君だけの世界だって。ここには誰もいないって。どうして私にここを与えたのか、聞いても答えてくれなかった。でも、彼はこう言ったの」
すると彼女は、初めて望遠鏡を覗き込む少女のように、相好を崩してこちらに向かい合った。大きな瞳は月明かりの下に爛々と耀いて、私の四肢を鷲掴んで離さない。
「待っていてほしい、すぐに、君に会いに来る人がいる。君をきっと好きになって、君もきっと好きになる、そんな素敵な人が来る。素敵で、それでもオレの力では、どうしたって助けられない人が来る。だから、この場所で待ってあげてほしい。君だけの場所を、君たちだけの場所にしてほしい」
瞬きの間だけ、ほんの僅かな吐息の向こうに、レナちゃんと重なる誰かを見た気がした。目を凝らしたけれど、蜃気楼のように霞が晴れていく。
面影の重なり、記憶の補完。それだけ? と、私は問う。
今のは錯覚じゃない。私の記憶とレナちゃんの記憶が、背中合わせみたいに互いを預け合って、見たことがある知らない誰かを、この充溢した魔力のスクリーンに映し出したんじゃないのか。
「レナちゃん、私は」
どうしてこんなに、胸が締め付けられるんだろう。もがき苦しんで、やっと喉が震える。嬉しいのに、こんなにも嬉しいのに。貴女の表情を見ているだけで、私は泣いてしまいそうになる。
風に薙ぐ草原の揺れに負けないように、強く片足を踏み出した。
「その人を知っていると思う」
感動を伝えたかった。あの日以来、初めて、生きていると思えた。心臓の鼓動が、脈打つ血管が、熱くなるのを感じた。おとぎ話の神さまが、まるで目の前に現れたみたいだった。
かたちをなぞって確かめたい、触れて温度を感じたい。
心が急いて、私は気が付かなかった。私は、レナちゃんの心を見誤った。
「うん、きっとそうだと思ってた」
彼女の小さな息遣いと、花開くことを忘れ、枯れてしまった蕾のような薄笑い。赤ん坊のころから大切に育てた老犬が閑に息を引き取るのを、黙って見届けるみたいなまなじりの皺。
息が詰まった。
ようやく、しかし気付いてしまった。
私は間違えた。
知らなければよかった。
あの人のことを、忘れていれば。
レナちゃんの仕草、その表情、呼吸。今になって分かる。
私はただ、その人のことを『知っていた』だけ。何も特別なことなんてない。
それでも、彼女にとってはそれが、それだけが、レナちゃんを今日まで生かし続けた道標。忘れてしまいたいような人生を、雑草みたいに忘れ去られるはずだった一生を、繋ぎ留めていた勿忘草。
私が壊したのは、レナちゃんの大切な楔。
ううん、それだけじゃないよね。分かっている。
「その人のことが、好きだったの」
「……うん」
私が壊したのは、レナちゃんの、きっとたった一つの、最初で最後の恋心。
「ありがとう、レナちゃん。この場所に連れてきてくれて」
だから、でも、そうだとしても、私は伝えるしかない。
「貴女だけの場所にして良かったのに。レナちゃんだけの幸せにして良かったのに。私なんかに。この場所を教えてくれて、ありがとう」
「……うん」
泣いたりしなかった。彼女が涙を流したのを、私はかつて見たことが無い。悲しいことがない、なんていう女の子じゃない。明るくて、元気で、太陽みたいなレナちゃんだけれど、毎日が彼女にとっては負担で、苦難で。土砂降りの豪雨の中、水たまりに沈み込んでしまいそうなことばかり。
きっとレナちゃんを繋ぎ留めているのは、理性じゃない。それはある種の誓約に近い、契りのようなものに思える。無意識下で彼女に一線を引かせ、轡を嵌めてしまう契約。
「ハナちゃん、また来よう。そうしたら、いっしょにシーソーに乗るの」
「そうだね」
吹き抜けた風の中で、月のない星空の下で、彼女は言葉を続けた。
「よかった、安心した。ハナちゃんがいてくれるなら、もう大丈夫。たとえ私がいなくなっても、この場所は記憶に残り続ける。もう、忘れられることはないから」
神妙な面持ちのあと、ちょっとだけおどけてレナちゃんは言った。
「よろしくね、おねえちゃん」
その言葉に笑って返せるほど、私は強くなかった。
だけど、だけどね。
絶対に強くなると、私は決意した。あなたのことを救いと、憧れとしか思っていなかった私だけど、せめてあなたのために死ねればいい。どうせ永くは続かない私の生命の果て。冗談でも「おねえちゃん」なんて呼んでくれるなら。
私はレナちゃんのために死んでみせる。




