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王のインケラーシャ  作者: Lopeye
勿忘草の胎動

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その少女の追憶6

 真空の中を、浮草の脚が頼りなく進んでいく。上下左右、順路も反転も判然としない闇の中。前を行く真紅の髪が揺れる様だけが、私の唯一のカンテラ。その髪は踊るように跳ねて、愉しげに笑うのが聞こえるようだ。彼女の表情を見なくても、今のレナちゃんの心が見えてくるみたい。

 私は緊張の真っただ中にありながら、ふっと大きく息を吐いた。肩の力を抜くために、心臓の鼓動を抑えるために、必死に息を吐いた。足音も、ランプの軋む音も、私自身の呼吸すらまともに聞こえない。まるで誰かがこの洞穴を深藍の水で満たしてしまったみたいに。地を踏む感覚は希薄で、重くて軽い空気が全身を圧迫する。この洞穴を見つけたとして、一体誰が進もうと考えるだろう?


「――――」


 その時、反響しない共鳴が、声にならない呼び声が、私の中に木霊した。レナちゃんが少しだけ横目に、こちらを振り返る。彼女のあどけない横顔の先に、青白い灯りが木漏れ日の如く見え隠れする。

 あなたが呼んだの?

 先を見つけた私の思考は、やけに冷静に回り始めた。誰かの瞳を借りて、私たち二人を眺めているような感覚。どうしてか、なんの因果か、見えない糸に惹かれたか。

 懐かしい匂いがした。いつかどこかで感じた香り。故郷の光ではない。父の流した血潮でも、母の流した涙でも、家を燃やした嵐でもない。

 どうして、目の端から雫が溢れ出す。あぁ、私はこれを覚えている。あの日の私に、世界を教えてくれた光。陽光よりも柔らかで、カンテラよりもさやかなる月光。


 気づかぬうちに、私のもとに五感が帰って来ていた。はっきりと風に乗る草擦れの音。踏みしめる地面の感触。本当なら地に足が着いた安堵に胸を下ろすはずだったのに、そうもいかなかった。

「ここが……?」

 おもわず漏れたため息に、言葉の先が続かない。レナちゃんの横顔を見やる。彼女は小さな沈黙を保ちながら、私の手を握る力をふと緩めた。

「薄氷の戸隠。私と……私とレナちゃんだけの、秘密の場所」

 その言葉を待ちわびたように、あるいは、彼女の訪れをこそ待っていたのだろうか。蛍火にも似た小さな薄赤い光の欠片が、足元から浮かび上がる。


「わぁ……」

 見上げた先に洞穴の天井は無かった。瞬く星空が煌めき、私を取り囲む蛍火は、この宙空をスクリーンにして星が映し出されたよう。吐き出した息が白く染まる。それを見つめてはたと気づく。苦しいほどに澄み切ったこの空気で、吐息を白煙に変えるもの。魔力だ。指先が痺れるほどに満ちた魔力が、この一帯に充溢している。蛍火の正体もそれだ。冷気の降りた夜明けの街が、朝靄の虚ろに浸されるみたいに。零れ落ちそうな魔力の粒子が、天へと歩む星となって消費されていく。


「ここは……一体、どこなの」

 何よりも純粋な問いだった。瞳を向ける。左右に、正面に。限りなくずっと、見渡しただけどこまでも、この景色が続いているのだ。こんな広大な土地、それも魔力の充満した土地を、薬園の管理者が見逃すはずがない。

「不思議でしょ。星が見えるんだもん」

 淡々と、彼女は呟くように続けた。

 その言葉通り、何よりも不可思議なのが頭上に瞬く星空。アノマリスの傘の下で、星が見えるはずがない。

「詳しいことはあとあと。ほら、こっち来て」

「あ、ちょっ」

 レナちゃんは言葉も少なに駆け出す。桜吹雪のような蛍火の中を、彼女の朱い髪が滲むように遠ざかっていく。私は慌ててその背中を追った。足に触れる感触は、さながら芝の上。けれど、少しだけクッションが強い。芝というには丈の長い草原に覆われた地面が、視界の果てまで続いている。

「お隣、どうぞ?」

「え、あ、はい。おじゃまします」

 しばらく小走りに駆けた先にあったのは、小さなブランコだった。二人だけしか座れない。けれど、今までは二つも要らなかったはずの遊具。右手側に座ったレナちゃんが、もう一つを指さして言う。

 言われるがままに腰を下ろした。私がそうする瞬間まで、レナちゃんは黙ったまま、少しだけ目を細めて、私のブランコを眺めていた。


「ここに座ったの、私が初めてだったりする?」

「ううん、そんなことない」

 私の疑問に、レナちゃんは即座に、少しだけ哀しげに、笑って応えた。それから小さくブランコを揺らして、レナちゃんはきこきこと漕ぎ始めた。

「靴飛ばしする? 私プロだよ」

「そうだよね、ずっとここにいたらそうなるよ」

「ちがっ、そんなに暇じゃないですぅ!」

「あはは」

 膨れ面になって、彼女は抗議の声を上げた。変な顔、いつもの可愛いレナちゃん。

「見て。立ちこぎの極み」

「危ないよ~?」

 レナちゃんはブランコの上で立ち上がると、なにやらアクロバティックな動きでこぎ始めた。

「へいきへいき。どれだけ練習したと思ってるの」

「そうだよね、ずぅっとここにいたらそうなるよ」

「間違えた! ちがうから! 一秒も練習なんかしてない!」

「あはは。パンツ見えてるよ?」

「見ないでよ!」

「見てって言ったのに」

「もぅ、違うよ!」

 ぱっと手を離すと、彼女は綺麗な髪を翻して、宙を舞って着地した。ブランコの周りに柵なんか無くて、ともすればどこまでも飛んで行ってしまいそうな、宇宙に吸い込まれる跳躍だった。

 ぱちぱち。

「いやぁ」

 手を叩く私に、わざとらしく照れた素振りで頭を掻きながら、レナちゃんはもう一度すごすごと隣のブランコに腰を下ろした。ほっと小さく息をつくと、彼女の真っ白な吐息が暗闇の中に吸い込まれていった。

「見える? シーソーもあるんだよね、ここ。嫌味でしょ?」

「まぁ……そう、かも」

 指さされた先には、確かに少し古ぼけた、淡い水色のシーソーが置かれていた。ススキみたいな丈の草地に隠れて、降りた方の端はよくわからない。でも確かに、レナちゃん一人しか知らない場所に、二人分のブランコがあることも、二人でしか遊べないシーソーがあることも、見方によっては寂しいかもしれない。

 そもそも、ここが何なのか。

 ぐるりと見回しても、広がる草原と小さな遊具、小ぎれいなベンチと、足元から絶えず浮かび上がる色づいた細雪。まるで現実とは思えない。夢の中に取り残された舞台みたい。あるいは神話の中に置き去りにされた、忘れ去られた禁足地のような。

「私をここへ連れて来てくれた人はね、ここを『もう一つの世界』って呼んでた。彼が創り出した『虚数領域』。名前は薄氷の戸隠。ここは空間的に薬園と繋がっていないの」

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