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王のインケラーシャ  作者: Lopeye
勿忘草の胎動

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43/71

あの少女の追憶

 お父さんは、役所で水道の整備をしていました。

 毎日毎日、帰ってくるのは夜遅くでした。

 私は、帰りにどこかへ寄り道しているんだ、と疑いました。

 でも、お母さんが首を横に振ります。優しい、女神さまみたいな表情で。

「お父さんにそんなお金渡さないわ。お昼だって買えるか怪しいもの」

 期待していたのとは少しずれていました。

 でも、そんなお父さんとお母さんが大好きでした。

「お母さん、具合はどう?」

「今日はとっても調子がいいわ。やっぱり寝てるのはだめね。人間、立って歩かなきゃ」

 ぐるんぐるんと肩を回すお母さんはとっても元気そうで、見ている私も勇気が湧いてきます。

 ちなみに、昨日お医者さまに、三日は寝ていろと言われたばかりでした。

「お母さんは病気に強いのね!」

「そうよ。お父さんだって毎日馬車馬みたいに働いているんだから、私もこのくらいで三日も休めないわ。そうね、今日はあなたの好きなごはんを作りましょう」

「ほんとう!?」

 私は目を爛々とさせて聞き返します。

「もちろん。あなたの好きなものはお父さんも好きだしね。何がいいかしら?」

 今夜、好きなものを食べられるなら、何が食べたいですか。この世の中でもかなりの難問だと思います。私は頭を抱えて悩みました。食材が浮かんでは消え、また膨らんではしぼみます。

 お母さんの料理は絶品です。お母さんの仕事が忙しい日は、私とお父さんで夕食を作るのですが、食べながら毎回「お母さんはすごいね」と言い合うことになるのです。お父さんと、お母さんの料理を褒めるのが私は大好きです。

「…………………………………………グラタンがいい」

「随分悩んだわね」

 お母さんにこの悩みは分からないでしょう。その両手で、さも易々と美味しいごはんが作れるお母さんには。

「じゃあ、一緒に作りましょう。ゆっくり作って、お父さんを待つの」

「うん!」

 ゆっくり待とう。その言葉に反抗するように、私は反射的に立ち上がると、踵を返してキッチンに向かいました。後ろからお母さんの笑い声が聞こえます。

「お母さん?」

 私は振り返りました。

 お母さんの笑い声が、どこか乾いたように感じたのです。

「お母さん!」

 駆け寄ります。駆け寄って、抱きつきます。

 胸に飛び込んだ私を、お母さんが抱き留めて、優しく撫でてくれます。

 こんなはずではなかったのに。

「どうしたの、お母さん」

 振り向いた私の視線の先で、お母さんの目から、涙が溢れていました。

 でも、お母さんに動揺した様子はなく、ただただ、瞳から雫が零れるだけでした。

「何でもないのよ。涙が出ていても、悲しくなんてないんだから」

「お父さんと一緒に、グラタン食べよう?」

 甘えた声で、私は言いました。

「……ええ、腕によりをかけるから」

 ゆっくりと立ち上がって、私と手を繋いで、お母さんは部屋を後にします。

 一緒に野菜を刻み、ソースを作り、パスタにからめてチーズを載せました。

 焼き上がれば完成です。

 そのころには私はすっかり元気を取り戻して、オーブンの中を覗き込んでいました。焼成が今か今かと待っているうちに、家のドアがノックされました。

 お母さんが勢いよく振り返ります。私は、それにも勝る勢いで飛び出し、ドアを開けました。そこに立っていた男の人は、私を見るなり、困った表情をお母さんに向けました。

 そうです。もしもお父さんが帰ってきたのなら、ノックなどするはずがないのに。

「ミナ・フローリアさん、ですね」

「……エリック」

 仰々しい制服と黒いマントに身を包んだ壮年の男性は、お母さんに名前を呼ばれると、小さく吐息を漏らします。それから、小さな木箱をお母さんの震える両手に差し出しました。お母さんの膝が崩れそうになった瞬間、キッチンでタイマーが鳴り響きます。

「待ってて」

 お母さんはそう言うと、キッチンで一人分のグラタンを取り分けて、濡れタオルで容器の粗熱を取ると、紙袋に入れて玄関に持っていきました。

 どうするつもりなのでしょう。それは……それは、お父さんのグラタンです。私とお母さんが一緒に作った、お父さんと一緒に食べるグラタンです。

「持って行って」

「それは……」

「あなたに持って行ってほしいわ。エリック」

「……ま、待って!!」

 私が制して駆け寄るよりも先に、お母さんが戸口を閉めました。

「お母さん! どうして! お父さんのだよ!」

「そうね、そうよね。ごめんなさい。ごめんなさい……」

 お母さんは、私を抱え上げます。その拍子に、エリックから手渡された木箱が床に転がりました。木箱には羊皮紙が差してあり、簡単に名前が書かれていました。お父さんの名前です。

「お父さんの、忘れ物?」

 私の問いに、お母さんは喉につっかえた何かを吐き出すように答えます。

「そうよ。お父さん、おっちょこちょいだから。仕事場に忘れ物をしたのね。きっと今日は帰ってこられないから、さっきの人に持って行ってって頼んだの」

 お母さんは少し咳が出て、私はそれからお母さんを追求することはしませんでした。

 その日はお母さんと一緒に、美味しいグラタンを食べて眠りました。とっても美味しい、ほっぺたが落ちるようなグラタンです。お父さんが食べれば、元気がもりもり湧いて来るに違いありません。

 その感想を早く知りたくて、私は次の日は朝から家の周りを掃除したり、花壇の手入れをしたり、兎角外に出るように努めました。

 でも、お父さんが帰ってくることは、それから二度とありませんでした。


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