資料②
街頭インタビュー — 買い物中の若い家族
資料番号:2084-NHK-ST0418-F03
資料名:報道特集『変わる親子、変わる社会』街頭インタビュー抜粋
収録日:2084年4月18日
放送日:2084年4月20日
収録場所:東京都世田谷区・子育て支援複合施設前商店街
資料種別:報道番組内インタビュー
映像は、午後の商店街から始まっていた。
画面右上には、番組名が表示されている。
報道特集『変わる親子、変わる社会』
その下には、小さく、
出生児社会養育移行法案 国会審議入りへ
とあった。
世田谷区の子育て支援複合施設前の商店街は、平日の午後にもかかわらず、かなり人通りが多かった。道幅は広く、歩行者用のレーンと自動配送ロボット用のレーンが分けられている。店の前には、子供服、栄養補助食品、教育用端末、家庭支援サービスの広告が並んでいた。
その一角に、若い家族(つまり現代で言うところの出生提供者の男女二人)と、幼い男の子が立っていた。
最初、彼らは取材班に気づいていなかった。
母親は、片手に買い物袋を持ち、もう片方の手で男の子の上着の袖を軽くつかんでいた。男の子が急に歩き出さないようにしているだけで、強く引いているわけではなかった。
父親は、その隣で折りたたみ式の買い物カートを押していた。黒いジャケットに、灰色のパンツ。首元には会社支給らしい薄型端末が下がっている。ただ、彼の視線は家族ではなく、手元の携帯端末に落ちていた。
仕事の通知だろうか。親指が短く動き、画面を数回送る。眉間に皺が寄り、すぐに消えた。返事を書こうとしているのか、途中まで入力して、また消す。彼は買い物カートの持ち手に片腕をかけたまま、ほとんど無意識に男の子の位置だけを確認していた。
男の子は4歳くらいだった。
片手には、包装された小さな菓子を持っている。もう片方の手には、子供用の小さな端末があった。画面には、鮮やかな色の動物が跳ねていた。音は外には漏れていない。骨伝導式の幼児用イヤーカフが、男の子の耳に小さく光っていた。
男の子は、画面の中の動物が転ぶたびに、小さく笑った。
「ねえ、パパ」
父親は、端末を見たまま答えた。
「うん」
「これ、見て」
「うん。すごいね」
父親は全くその画面を見ていなかった。男の子も、それ以上強く求めなかった。父親が本当に見ているかどうかを確認する様子もない。ただ、そういう返事が返ってくることに慣れているようだった。
母親が、少しだけ男の子の端末に視線を落とした。
「歩くときは見ちゃだめよ」
「うん」
男の子はそう答えたが、画面から目は離さなかった。
母親はもう一度注意しようとして、やめた。代わりに、男の子の袖を少しだけ強く握った。端末を取り上げるほどではない。強く叱るほどでもない。そういう小さな妥協が、たぶん一日に何度も繰り返されているのだろうし、この時代の多くの母親が取らざるを得ない妥協だった。
画面の端に、番組側の注釈が表示された。
2030年代以降、家庭内における親子間会話時間の減少は長期的な社会問題とされてきた。
育児支援端末、教育アプリ、在宅勤務端末、娯楽用動画サービスの普及により、家庭内で同じ空間にいても、相互に別の情報環境へ接続している時間が増加したとされる。
ただし、その注釈は数秒で消えた。
これから取材を受けるであろうこの家族は、何か特別に荒れているようには見えなかった。怒鳴り声もない。無視もない。服装は清潔で、母親は子供の手元を気にしており、父親も時々男の子の歩幅に合わせて足を止めていた。
ただ、会話が会話ではなかった。続く前に、誰かの視線が画面へ戻っていく。
取材班が、その家族に近づいた。
「すみません。今、子育て支援制度と、出生児社会養育移行法案について街頭でお話を伺っているのですが、少しよろしいでしょうか」
女性リポーターがそう尋ねた。母親は一瞬だけ父親の方を見た。父親はそこで初めて、手元の端末から顔を上げた。
「あ、はい」
彼は少し慌てたように端末を伏せ、ジャケットの内側へしまった。男の子も、リポーターの声に気づいて顔を上げたが、すぐにまた自分の端末へ視線を戻した。
母親は、少し戸惑ったように、呆れたように笑った。
「少しなら、大丈夫です」
「ありがとうございます。今日はご家族でお買い物ですか?」
「はい。上の子の服を買いに来ていて。あと、下の子のミルクと、保育用品も少し」
母親はそう言って、買い物袋を持ち直した。リポーターが少し驚いたように聞く。
「お子さんは、お2人いらっしゃるんですか」
「はい。この子が上で、4歳です。下はまだ6か月で、今日は一時預かりにお願いしています」
母親がそう言うと、男の子は端末の画面を見たまま、菓子の袋を少し持ち上げた。
「ママ、これ、食べていい?」
母親はしゃがみ込み、男の子の手元を見た。
「あとでね。おうち帰ってから」
「いま」
「いまはインタビューしてるから、ちょっと待ってね」
男の子はよく分からないという顔で、カメラを見た。流石に取材を受けているのに、端末を見ているのは損だと気が付いたのか、画面からようやく目を離した。
リポーターは、子供に向かって少し微笑んでから質問を続けた。
「お母さまは、今お仕事はされていますか」
「はい。地域医療ネットワークの受付管理をしています。今は下の子が小さいので、週4の短縮勤務です」
「お父さまは」
父親が答えた。
「都市インフラ管理会社で、システム保守をしています。夜間対応もありますけど、最近はできるだけ在宅にしてもらっています」
「共働きで、2人のお子さんを育てていらっしゃるんですね」
「そうですね」
父親は少し笑った。
「まあ、普通に大変です」
母親も、同じように笑った。
ただ、その笑いは明るいというより、疲れを隠すためのものに近かった。
リポーターは頷きながら聞いた。
「実際、子育ての負担はどのくらい感じていますか」
母親は少し考えた。
「負担...そうですね。正直、大きいです。もちろん、子供は可愛いです。でも、毎日ちゃんとできているかと言われると、自信はないです」
彼女は男の子の髪を直した。
「朝起こして、ご飯を食べさせて、保育の準備をして、仕事に行って、帰ってきて、またご飯とお風呂と寝かしつけで。下の子は夜中にも起きますし。どこかで何か間違えているんじゃないかって、ずっと思っています」
「何か間違えている、というのは?」
「栄養とか、教育とか、声かけとか。今は全部データで見られるじゃないですか。発達刺激が足りないとか、睡眠の質が悪いとか、親の応答が遅いとか。そういう通知を見るたびに、ああ、また足りなかったんだなって思います」
父親が横から言った。
「昔より支援は増えていると思うんです。保育も、医療も、発達相談も。ただ、支援が増えると、逆に『正しい育て方』も増えるんですよね。これをしないといけない、あれも見ないといけない、みたいな。AI要約があるにしても多すぎます」
「つまりは、情報が多すぎると?」
「はい。多すぎます。あと、お金もかかります」
父親は買い物カートに目を落とした。
「補助はあるんです。保育料も、医療も、発達相談も、全部ゼロではないです。でも、手続きが本当に多いんですよ」
「手続き、ですか」
「はい。保育補助、延長保育、栄養管理支援、発達刺激プログラム、睡眠環境の相談、教育端末の貸与申請。それぞれ窓口も違うし、条件も違うし、更新時期も違います。所得制限もあるし、子供の発達スコアで使える制度も変わります」
父親は、少し困ったように笑った。
「説明資料は送られてくるんですけど、読めないんです。時間がなくて。仕事が終わって、子供を迎えに行って、ご飯を作って、お風呂に入れて、寝かしつけて、そのあとに何十ページもある制度説明なんて、正直、頭に入らないです」
母親も、小さく頷いた。
「申請を間違えると、次の月から補助が減ったりするんです。発達支援の予約も、早い人は全部先に取ってしまうので、出遅れると枠がない。ちゃんと調べた人だけが得をする制度になっていて、でも、ちゃんと調べる時間がある家ほど、もともと余裕があるんですよ」
「経済的な負担も大きいですか」
リポーターが尋ねると、父親はすぐに頷いた。
「大きいです。保育料そのものは補助があります。でも、延長保育、発達支援プログラム、教育端末、栄養管理、睡眠環境の機器、全部合わせると、普通に毎月かなり持っていかれます」
彼は少し声を落とした。
「それで、民間の高度養育サービスになると、もう別世界です。生まれた時から専属の発達コーチがついて、睡眠環境も食事も会話ログも全部管理して、AIが毎日レポートを出す。そういうプログラムは、年間で僕の給料の5倍くらいします。10年契約とかが多いので、実際は50倍ってところです。どう頑張っても払えません。」
リポーターが、わずかに目を見開いた。
「年収の50倍、ですか」
「はい。だから、うちでは到底無理です。家を買うより高いです。もっとも、その家だって、今は普通の会社員の給料の20年分くらいはしますけど」
父親は、冗談のように言ったが、笑ってはいなかった。母親が続けた。
「周りには使っている人もいます。生まれた時から専属の発達コーチをつけて、睡眠も栄養も、遊び方も、全部専門家に見てもらっている子がいるんです。そういう子と、私たちみたいに家でなんとか育てている子が、同じスタートなわけないですよね」
彼女は、男の子の手を握り直した。
「可愛いとか、大事にしているとか、そういう気持ちだけでは、もう追いつかないんだと思います」
リポーターは少し間を置いてから、準備していたであろう質問を聞いた。
「現在、出生児社会養育移行法案が、与野党を超えて検討されています。法案についてはご存じですか」
父親が先に答えた。
「ニュースで見ています。まだ全部は追えていませんけど」
母親も小さく頷いた。
「はい。見ています。子供を社会で育てる、という話ですよね」
「その法案について、どう感じていますか」
母親は、すぐには答えなかった。
男の子が、母親のコートの裾を握ったまま、足元のタイルの模様を踏んで遊び始めていた。
「必要な場合があるのは、分かります」
母親はゆっくり言った。
「虐待のニュースとか、育児放棄とか、そういうのを見ると、家庭だけに任せるのは危ないんだと思います。親が疲れきっていたり、病気だったり、お金がなかったりしたら、子供が一番つらいはずですし」
「制度そのものには、理解があるということですか」
「はい。そこは、あります」
母親はそう答えた。ただし、声は少し小さくなっていた。父親も答えた。
「僕も、方向としては分かります。今の子育てを、家庭だけで背負うのは重すぎるので。社会で見てくれるなら助かる、という人は多いと思います。うちの家も多分それに該当するのは分かってます」
「実際に、社会養育制度が広がることには賛成ですか」
父親は、難しい顔をした。
「選べるなら、賛成です」
「選べるなら、ですか」
「はい。必要な家庭が使える制度なら、すごくいいと思います。実際、ゆりかご支援選択制度を使っている知人もいますし、子供の発達が安定したという話も聞きます。でも、それが原則になるとなると...」
父親はそこで言葉を切った。男の子が父親の足元に寄り、両手を上げた。
「パパ、だっこ」
父親は反射的に買い物カートから手を離し、男の子を抱き上げた。
「はいはい」
男の子は父親の肩に顔を乗せた。
父親は、抱き上げたまま少し笑ったが、すぐに表情を戻した。
「こういうことをしていると、急に分からなくなるんです」
「どういうことでしょうか」
「制度としては分かるんです。専門家が育てた方が安全で、教育も安定して、親の収入で差が出にくい。それはたぶん正しいんだと思います。でも、この子に適用されるとなると、急に...」
父親は、男の子の背中を軽く叩いた。
「何を話しているのか、自分でも分からなくなります」
リポーターは、今度は母親の方を向いた。
「もし法案が成立し、将来的に出生児が原則として社会養育機関へ移行することになった場合、ご自身のお子さんについてはどう感じますか」
母親は黙った。
商店街の音が、少しだけ大きく聞こえた。
近くの店から流れる広告音声。配送ロボットの通知音。子供服売り場の前で泣いている別の子供の声。遠くの信号音。
母親は、父親に抱かれている男の子を見た。
男の子は、父親の肩に頬をつけたまま、カメラの方を見ていた。眠くなってきたのか、目が少し細くなっている。
「...それは、まだ、考えられないです」
母親は言った。
「制度が悪いとか、そういうことを言いたいわけじゃないんです。社会で育てた方がいい子がいるのも分かります。私たちだって、全部ちゃんとできているわけじゃないですし」
彼女は、そこで一度息を吸った。
「でも、この子が朝起きたとき、そこに私がいないっていうのが、まだ、どうしても想像できないんです」
リポーターは何も言わなかった。
母親は続けた。
「今は、朝になると、寝室からこっちに来るんです。眠そうな顔で、ママって言って。それで、抱っこしてって言って。下の子が泣いていると、私も眠いし、正直つらいんですけど...でも、それがなくなるって言われると」
母親は、少しだけ笑った。
「楽になるはずなのに、怖いんです」
父親は、男の子を抱いたまま視線を落としていた。
「お父さまは、どうですか」
父親はしばらく考えてから答えた。
「僕は、妻ほどはっきり言えないです。たぶん、助かる部分も大きいと思うので。夜泣きも、教育費も、仕事との調整も、正直きついです。これを社会が代わってくれるなら、救われる人は多いと思います」
父親は再び沈黙し考え、ゆっくりと答えた。
「でも、助かることと、何も感じないことは違うんです」
「何も感じない、ですか?」
「はい。たとえば、この子を専門の施設で育ててもらえば、栄養も教育も安全も、たぶん今より良くなるんだと思います。僕たちが見落としている発達の問題も、もっと早く見つけてもらえるかもしれない。将来の選択肢も広がると思います」
父親は、何を言うべきか迷っているようだった。
「でも、それを分かっていても、この子が夜に泣いたとき、僕が起きなくてよくなることを、ただ良かったとは思えないんです」
リポーターは黙っていた。
「子育ては大変なんです。本当に大変です。でも、その大変なことの中に、この子と一緒に暮らしている実感もあるので。全部なくなったら、楽になるとは思います。でも、楽になるだけじゃないと思います」
父親は、表現するための言葉を探しているようだった。
「うまく言えないですけど、負担が消えるのと、この子が生活から消えるのは、同じことじゃないんです」
男の子が、眠そうな声で言った。
「ママ、おうち帰る?」
母親はすぐに顔を向けた。
「うん。帰ろうね。もう少しで終わるからね」
その声は、インタビューに答えていたときより、ずっと自然だった。
リポーターは最後に尋ねた。
「法案を進める政治家や専門家に、伝えたいことはありますか」
母親は困ったように笑った。
「そんな、大きなことは言えないです」
「率直なことで構いません」
母親は、少しだけ考えた。
「もし本当にこの制度を進めるなら、親が悪いから子供を取り上げる、みたいには言わないでほしいです」
彼女は父親に抱かれている男の子を見た。
「私たちが完璧じゃないのは分かっています。専門家の方が正しいことも、たぶんたくさんあります。でも、だからって、この子を大事に思っていないわけじゃないので」
父親も、小さく頷いた。
「制度が必要なのは分かります。ただ、家庭で育てる人を、全部古いとか、危ないとか、そういうふうに言われると、きついですね」
リポーターは頷いた。
「ありがとうございました」
母親は軽く頭を下げた。
父親も、男の子も会釈した。
映像はそこで切り替わった。
次の場面では、子育て支援複合施設の外観が映っていた。
ナレーションが入る。
「社会養育制度の拡大をめぐっては、子育て世帯からも期待と不安の声が上がっています。負担軽減の一方で、伝統的な慣習がなくなることへの抵抗感の間で揺れているのです。続いてのニュースです。先月発生した ―― 」




