第六話
大冒険のような刺激的で美しいVR音楽が終わったころには、すっかり夜となっていた。VR Musicの途中には、音楽を聴きながら、リズムに合わせて体を動かすべき場面もあるため、二人とも疲れていた。ただ、それはいい運動をした後に残る爽快感だった。
「ハァ...ハァ...ね?私が言った通り、良かったでしょ?」
「ハァ...ハァ...ああ、そうだな。相変わらず君はそういうのを見つけてくるのが上手だよ」
「フフフ。政治賭博をやっているようなあなたには見つけられないでしょうね」
愛梨は玲にイタズラっぽい笑みを浮かべる。
「ハッ。それは間違いない」
玲も疲れていたので、いつものような反論はせず、ソファに寄りかかった。
「お腹も減ったし、ご飯でもテイクアウトを頼もうか」
「いいわね。私、久しぶりに和食食べたいわ」
「了解。ハル、聞いていたかい」
玲はそう言って、空に向かって話し始める。
「うん、玲。和食をテイクアウトだね?」
「そうだ、美味しいお店を頼む。愛梨は、焼き魚か刺身かどっちがいい?」
「そうね、せっかくだから焼き魚にしようかしら。最近食べてないし」
「いい案だ。ハル、焼き魚系の料理を二人分頼むように」
「和食、特に焼き魚に類する料理をテイクアウト...オーダーが完了したよ。到着予定時刻は12分後だよ」
「ありがとう。ハル」
ハルは最新鋭の人工知能の一つだった。もちろん、今では、AIはネット上から誰でも好きなタイプをダウンロードすることで、無料で使えるものだ。玲は、高度な教育を受けたA区分らしく、流体型ニューラルネットワークにおいても、さらに先鋭化されたアップデートアルゴリズムを持ったAIをネット上で探し出し、使っていた。
「玲って、不思議な名前をAIに付けるのね。今時の名前じゃないわ」
「ん?そうだな。最近卒論で、歴史資料を漁ってさ。昔はAIにこういう名前を付けてたらしいんだ。だから、それで名付けてみたんだよ。な、ハル?」
「そうだね。玲が最近調べていた歴史資料の一つにそのような名前が使われた架空のAIが存在していたよ。もちろん、今となってはAIと呼ぶには余りに低次元なものだけどね」
「ぷぷ!ハルもそういうヤキモチ焼くのね!玲のAIは飼い主本人に似てるわ」
玲は少し呆れながら答えた。
「...ここで否定すると認めたようなものだから、あえてなにも言わないでおくよ」
玲もハルの言動が自分と似ているのを否定できなかったのだ。
流体型ニューラルネットワークの長所は、様々な環境に対する人間よりも高い知的柔軟性と使用回数と共にニューロンの形を自動で再構築する成長性だ。しかし、時としてユーザーの行動データと類似するような選択や価値観、それから情報処理などをしてしまう事が多いのも事実だった。
「それで、このVR Musicだけど...」
最近流行のVR Musicについて話をする二人。今では動画や音声で聞くだけでなく、神経刺激の再現まで用いて人間の知覚すべてを用いたVR Musicは素晴らしいもので、多くの人々が余暇を潰すのに使っている。
しばらくすると、ハルが会話を遮った。
「談笑中に申し訳ないが、玲、報告だ。テイクアウトが扉の前に来ているはずだよ」
「そうか、ありがとう、ハル」
玲はソファから体を起こした。
VR Musicの余韻がまだ足に残っていて、立ち上がった瞬間、少しだけ膝が重かった。愛梨がそれを見て、小さく笑う。
「玲、足に来てるの?」
「君もだろ」
「私は慣れてるもの」
「本当かよ」
そう返しながら、玲は玄関へ向かった。扉の横の受け取り口には、薄い保温容器が二つ重ねられていた。配達ロボットの姿はもうない。廊下の床に、配送完了を示す淡い青色の表示だけが残っている。
玲が容器を持ち上げると、底面の温度保持表示が緑に変わった。
玲が容器をテーブルに置くと、愛梨は待ってましたと言わんばかりに身を乗り出した。
「開けていい?」
「どうぞ」
愛梨が蓋に指をかけると、密閉が解ける小さな音がした。湯気がゆっくり上がり、焼き魚の香りが部屋に広がる。
「あ、いい匂い」
彼女は満足そうに目を細めたあと、食器の下にある小さな加熱ボタンを押した。
数秒遅れて、ご飯の入った容器から柔らかい湯気が立つ。器そのものは薄く、軽い。指先で持ち上げても、旧時代の陶器よりずっと頼りないほどだった。しかし、それでもその器は、旧来の鉄よりも硬い高分子で出来た器であり、そしてワイヤレス充電を活用した保温機能もある。
玲は箸を取った。
蓋を開けると、焼き魚の香りが部屋に広がった。旧時代風の和食という触れ込みだったが、実際には魚の脂質量も、焼き加減も、食後の血糖変動まで調整された料理である。見た目だけは素朴な焼き魚定食だが、中身は現代の標準的な栄養設計そのものだった。それに、これらの安い食材はもちろん例に漏れず金星産だ。
「ん、美味しい」
愛梨が一口食べて、すぐにそう言った。
「早いな。まだ魚しか食べてないだろ」
「魚が美味しければ、だいたい全部美味しいでしょ」
「それは言えてるな」
愛梨も玲も運動で疲れたからか、どんどん食べていく。
VR Musicの後だからか、彼女の頬にはまだ少し赤みが残っていた。ショートパンツに着替えたままなので、研修中のきちんとした雰囲気はもうほとんどない。白いブラウスだけがそのままで、襟元はさっきより少しだけ乱れている。
「それにしても、さっきの本当に良かったわね」
愛梨が言った。
「良かったよな。特に途中に来たあのモーメント最高だった」
「でしょ?」
「ああ、愛梨は本当に良いのを見つけるのが上手だな」
「フフフ、そういうことは私に任せなさい」
愛梨はドヤっとしてから、味噌汁を口元へ運んだ。
その時、彼女の首筋に残っていた汗が一滴、ゆっくりと下へ流れた。VR Musicの途中で運動したせいだろう。白い肌の上を細く滑った汗は、鎖骨の浅いくぼみに落ち、そこで一瞬だけ光った。それから、ブラウスの開いた襟元へ向かって流れ、胸元の布に吸われて消えた。玲はその一部始終を見ていた。
「...何?」
愛梨が箸を止めてジト目で玲を見た。玲は全く悪びれずにニヤッとする。
「いや?」
「今、見てたでしょ」
「魚をな」
「そんなこと言っても、バレバレよ?」
「やっぱり?」
玲が素直に言うと、愛梨は一瞬だけ目を細め、それから呆れたように笑った。
「そういうの、普通に言う?」
「隠すよりはいいだろ」
「まあ、そうだけど」
愛梨は少しだけ襟元に指を当てた。汗を拭うような仕草だったが、かえって玲の視線はそこへ行った。
「玲」
「何?」
「二回目よ」
「悪い、悪い」
「悪いと思ってないでしょ」
「少しは」
「少しだけなのね」
愛梨はそう言いつつも怒ってなどおらず、笑っていた。
それに、この時代では、こういう距離感は普通のことだ。親密さは、契約でも所有でもない。嫌なら拒めばいいし、嫌でなければ笑って流せばいい。結婚も、家族も、親権もない以上、誰かと近くにいることに、旧時代のような制度的な重さは存在しない。当然、愛梨も玲も似たような関係性の異性は何人もいる。それが当たり前の時代だ。
「でも、まあ、いいわ」
「いいのかよ」
「嫌なら、あなたを部屋に呼ばないでしょ」
愛梨は魚をほぐしながら、食べてゆく。魚の骨は全て遺伝子改良によって失くなっているか、嚙み砕けるので、骨のことを考えずに大胆に食べている。
「それに、玲に見られても、今さらじゃない?」
「雑だな」
「事実でしょ」
愛梨はそう言って、漬物とご飯を美味しそうに食べる。幸せそうな顔だった。玲は少し笑って、焼き魚を口に運んだ。皮は香ばしく、身は柔らかかった。塩味は少し強い。
料理の塩加減や味付けは、食前の運動量や発汗量、会話内容、対象ユーザーの感情データをもとに、AIが注文時点で調整している。つまり、この世界で出される全ての料理は、直前のあなたの行動データを基に最適化され美味しくなっている。21世紀初頭のどんなに素晴らしいシェフも、この自動機能による味付けの足元にも及ばない。
「それにしても、料理も、運動後に合わせて味付けが変わってて美味しいな」
「当たり前じゃない。というか、料理の味付けを調整しないで客に出す方のが意味不明よ」
「言えてるな。個人向けに調整されてない料理とか、どんな味がするのか想像したくもないな」
「多分、あれじゃない?ほら、最近流行したゲテモノマシュマロみたいな味でもするんじゃないかしら」
「つまり、反吐みたいな味ってこと?あのマシュマロは本当に酷かったからなぁ」
玲は少し遠い目をして、あの味を思い出していた。
愛梨もその時のことを思い出してクスッと笑った。そして、味噌汁を飲み終えて、満足そうな顔をしていた。
「でも、ほんとに便利よね」
「何が?」
「こういうの全部。食事も、音楽も、部屋の温度も、移動経路も。その時の体調とか気分に合わせて、勝手にちょうどよくなるでしょう」
「まあな。今日は運動した後だから、焼き魚と味噌汁の塩分も少し上げてあるんだろうし」
「そうそう。そういうのがない生活って、私、たぶん無理だわ」
愛梨は箸を置き、少しだけ考えるように目を伏せた。
「旧時代の人って、毎日、自分に合ってるかどうかも分からないものを食べて、合ってるかどうかも分からない仕事をして、合ってるかどうかも分からない相手と暮らしてたんでしょう?」
「言い方悪いなぁ」
「でも、そうじゃない? 今は仕事も、住む場所も、人間関係も、ある程度は適性に合わせて調整されるじゃない。恋愛だって自由だし、誰かと一緒にいたい時だけ一緒にいればいい。子供を生んでも、自分で育てる必要はないし」
玲は味噌汁の椀を置いた。
「ずいぶん大きい話になったな」
「だって、食事も同じだもの。自分に合わないものを、我慢して続ける意味なんてないでしょう? 逆に、合っていれば、それだけで最高の時間になるわ」
「確かに。今日は君と一緒だったから、雄二所長の退屈な研修も楽しかったしな」
玲が、さも平然な顔でそう言うと、愛梨は思わず恥ずかしそうに笑った。
玲は最後に残ったご飯と漬物を食べきった。
食事を終えると、空になった容器は自動で薄く折り畳まれた。玲はそれをテーブルの端に置いた。すると回収用スロットが静かに開き、容器を飲み込む。
部屋には、焼き魚の香りと、VR Musicの余韻だけが少し残った。
愛梨はテーブルを離れて、ソファに座り、伸ばした足先を軽く揺らした。
「汗、乾いたと思ったけど、まだ少し気持ち悪いわね」
「シャワーにするか」
「そうね、お風呂にしましょ」
愛梨は立ち上がりかけて、少しふらついた。玲が手を差し出すと、彼女は当然のようにその手を取った。
「まだ足に来てるじゃないか?」
「うるさいわね。楽しかった証拠よ」
二人は笑いながら、一緒に浴室の方へ向かった。




