第五話
東京第一ゆりかごセンターから丸の内までは、湾岸連絡線を使えば三十分ほどである。
湾岸連絡線は、海上をほとんど音もなく滑っていた。現在の都市鉄道はすべて超電導式のリニア軌道を用いているため、かつて鉄道につきものだった車輪音や振動は存在しない。車内にあるのは、空調のわずかな気配と、乗客ごとに調整された案内音だけだった。
車窓の向こうでは、東京湾の上に白い高層群が並び、そのさらに遠く、軌道エレベーターの光の筋が空へ伸びている。車内の壁面には、乗客層の関心傾向に合わせて選別されたニュースが静かに流れていた。
そのうちの一つは、アメリカ大統領選の追加投票市場についてのニュースだった。
ちなみに、現代の民主国家では基礎票として全国民に一票が与えられる。それに加えて、希望者は追加投票権を現金で購入できる。ただし、購入額がそのまま票数になるわけではない。政治的影響力が特定個人に集中しすぎないよう、追加票は平方根方式で換算される。
一票を追加するには1ドル。
二票なら4ドル。
三票なら9ドル。
十票なら100ドル。
百票なら10,000ドル。
票を多く買おうとすればするほど、必要な金額は急激に大きくなる。そして、その購入資金は、選挙管理費を除いて国民全体へ均等に分配される。政治的影響力を可視化し、その価格を国民へ還元するのだ。
そんな追加投票市場におけるニュースが、愛梨の目に留まった。
「見て、玲。アメリカの宇宙資源王、またすごいことしてる」
その声を聞いた瞬間、AIは玲の関心対象を判断し、彼の視界レンズにも同じ記事を拡大表示した。
―― クリス・ローゼンバーグ氏、大統領選に向け、ダイソン党に対し500兆円相当の追加投票権購入を表明。
宇宙小惑星採掘と宇宙軌道インフラ事業を率い、総資産93兆ドルを持つ同氏による政治参加額としては、史上最大規模。
「500兆円よ!いいわね、アメリカ国民は」
愛梨は、少し羨ましそうだった。
「何が?」
「だって、宇宙資源王が政治参加するだけで、国民にお金が配られるんでしょう。何もしなくても分配が発生するなんて、ずいぶん親切な制度じゃない」
玲は視界レンズ上に、瞬時に行った計算結果を開いた。A区分と言えども、彼のように神経接続された計算機能を使いこなせる人は珍しい。
「今のアメリカ人口は約六億人だ。単純に割れば、一人あたり83万円ちょっとだな」
「十分じゃない?」
「500兆円という見出しの割には、小さいけどね」
「何もしないで83万円なら十分よ。日本でも、追加投票市場の個人が買える票数の上限を撤廃すればいいのに。あの制限、本当に古いと思うわ」
「日本政府は政治投票の市場化に慎重だからな。基礎票の比重を下げる議論ですら、毎回かなり揉めてるし」
「そこが古いのよ!」
「それはマジで言えてる。制限を撤廃してるアメリカに居る大富豪だって、500兆円で買える追加票はたったの約224万票だからな。仮に六億人が全員、追加投票権を買わずに基礎票だけ投じたとしても、全体に対する押し上げは0.37パーセント程度だな。たったの0.37パーセント」
「500兆円でそれだけ?」
「平方根方式だからな。票を増やすほど限界費用が上がる」
「ずいぶん優しい設計ね」
「優しい?」
「だって、500兆円も払わせて、224万票しか渡さないんでしょう。しかも、そのお金は何もしてない国民に配るんでしょ。よくできてるじゃない」
「言い方が悪いな」
「でも、そういう制度じゃないの」
玲は否定せず苦笑いをした。愛梨は時々ズバッと鋭く言う時がある。
愛梨は、そんな玲の苦笑いを無視して続けた。
「政治参加権を、ただ人間であるという理由だけで同じ重みにするなんて、意味不明だわ。教育経路も、医療資源も、職業適性も全部個別最適化する時代に、政治判断だけ全員一律一票なんて、旧時代の名残にしか見えないわ」
「基礎票は象徴的な意味が強いんだろう」
「象徴ね。便利な言葉だわ」
愛梨は呆れたように笑った。
「都合の悪い物を残したい時に限って、人は象徴とか伝統とかそれらしい名前で呼ぶのよ」
「それで言えば、一人一票なんて、象徴の最たるものだな」
玲は少し笑った。
「二十一世紀では、それを民主主義の中心みたいに扱っていたらしいじゃん」
「知ってるわよ。一人一票なら平等だと信じていた、あの不思議な時代でしょ?」
「少なくとも、教科書が本当なら、そうらしいな。一人一票なら平等っていう建前」
「あり得ないわね、ぷぷっ!」
愛梨は耐えられず、ついに笑った。玲もつられて笑った。
「一人一票なら平等」なんて、あまりにも分かりやすい冗談だった。それは「平等な身分制度」と言うのに近い。言葉だけは美しいのに、並べた瞬間、その内側にある矛盾が露呈してしまう。
実際のところ、知性に差がある個人では理解できる政策の深さも、背負っている責任も、社会に与える影響も違う。それなのに、票だけ同じ重みにするという建前。しかも実際には、広告、献金、組織票、メディアによって、政治的影響力は一部の支配層に集中していた。
それでも、その時代の人々は、自分たちを平等だと信じて健気に重税を払っていたらしい。
玲は、実のところ、その点を少し疑っていた。
いくら近代とはいえ、そんなデタラメを本気で信じる人間が、多かったとは思えない。おそらく教科書が、旧時代の未熟さを分かりやすくするために、少し誇張しているのだろう。
「まあ、さすがに教科書の誇張だと思うけどな」
玲がそう言うと、愛梨はまだ笑いを残したまま首を傾げた。
「そうかしら。私は、案外そのままだったと思うけど」
「本気で?」
「うん。だって、そうじゃないとあの制度、続かないでしょう」
愛梨は少し考えるように視線を上げた。
「でも、考えてみると怖いわね」
「何が?」
「だって、普通の人たちは政治的実権もほとんどなくて、お金も貰えないんでしょう?それなのに、あなたには一票があります、だからこの社会は民主的です、って言われていたわけじゃない」
愛梨は、くすくす笑いながら言った。
「そんなの、ただのディストピアじゃない」
「本人たちは、そうは思っていなかったんだろう」
「なおさら怖いじゃない!」
二人がそんな最近のニュースを見てくだらない話をしている間に、湾岸連絡線は海上区間を抜けていた。窓の外では、白い高層群の密度が増し、建物と建物を結ぶ空中連絡橋が幾何学的に重なっていく。低層建築はほとんど見えない。地上も空も、交通路と庭園階層と歩行デッキによって何層にも分けられていた。
やがて、丸の内ビルディングの巨大な影が視界に入った。
それは、旧時代の人間が想像した「ビル」というより、一つの地形に近かった。東京駅の正面から皇居前広場の手前までを半分ほど覆い、二百階建てという高さ以上に、その横幅で周囲を圧倒している。外壁には無数の庭園階層と展望通路が組み込まれ、建築物というより、東京都市圏の上にもう一つ別の都市が載っているように見えた。
「相変わらず大きいわね」
愛梨が言った。
「丸の内?」
「うん。東京第一を見た後でも、これはこれでいつも大きいわ」
「東京第一は機能が詰まっているけど、丸の内は人の欲望が詰まっているから、もっとでかいのさ」
電車は速度を落とし、丸の内ビルディング内にある駅のホームへ静かに入っていった。
下車した玲と愛梨が向かったのは、その丸の内ビルディング百八十階にある店である。
二人が案内された窓際の席からは、湾岸再開発地区の白い建物群がよく見えた。東京第一ゆりかごセンターも、その中にまだはっきりと見える。
店の注文を神経接続されたネットから瞬時に終えると、卓上に淡い光が浮かび、店員AIの声が静かに流れた。
「本日お選びいただいたコースでは、地表三万キロメートル圏内で生産・加工された地球圏食材を中心に使用しております。母なる大地で作られた極上の食材をお楽しみください」
愛梨は、それを聞いて、少し目を大きくした。
「あら、すごいわ! 高級品じゃない」
玲は、窓の外に見える湾岸再開発地区を眺めていた。
「前回来たときの月産食材も、俺はけっこう好きだったけどな」
「月産はまだいいのよ。今どきは金星産ばっかりで、私、嫌だわ」
愛梨は、少しだけ頬を膨らませた。
「安いからな。金星圏は炭素も太陽光も余ってるし」
「分かってるわよ。効率がいいのは分かってるけど、どこの店に行っても金星産じゃない。せっかく丸の内まで来たのに、ありがたみがないわよ」
「食材にありがたみを求めるのか」
「求めるわよ。こういうお店では特にね」
「地球で作っただけで高級品扱いか」
「だって、完全な地産地消よ?高くて当然だし、エコよ、エコ」
玲は、下らないと思ったのか、小さく笑った。
「地産地消ね。環境保護主義者も、そのうち、惑星どころか太陽系内で消費していれば、地産地消って言い出すさ」
「えー、流石にそんなことないと思うわよ?まだプロキシマ・ケンタウリに基地が出来たばかりで、バーナード星やシリウスだって探査隊がようやく到達する段階でしょう?太陽系内を地元扱いするには、まだ早いんじゃないかしら」
「確かに、あと百年は必要かもな」
愛梨は水の入ったグラスを軽く回しながら、そこで何か思い出したように、話題を変えた。
「そういえば、玲、最近講義にあまり来てなかったわよね」
「そうだったか?」
「来てなかったじゃない。発達統計設計の補講、三回くらい見なかったし」
「録画で見たしな」
「それはそうだろうけど、何してたの?」
玲はイタズラっぽい笑みを見せて答えた。
「政治賭博」
愛梨は、数秒だけ黙った。呆れてしまったのだ。
「何に賭けたの?」
「洋介総理が、この一か月の公式発言で、何回『検討』と発言するかっていうお題さ」
「また変なものに賭けてるわね」
「変ではないさ。友達の太郎と一緒に、データを集めたんだ。発言予定、会談数、政策未決定案件、支持率推移、記者質問。それらの過去データを入れれば、かなりの精度さ」
「それで?」
「太郎と一緒に、百回以上に張ったんだ。結果は百二十回。オッズはその時3.6だったからね。かなり良かったよ」
愛梨は呆れたように笑った。
「授業サボって何してるのよ。授業で習ったことの使い道として、かなりどうかと思うわ」
「社会予測の実践だろ?」
「相変わらず、言い方だけは立派ね」
料理が運ばれてくるまでの間、愛梨は視界上で何かを操作していた。
「そういえば、今夜空いてる?」
愛梨が聞いてくる。
「卒論資料を少し見るつもりだったけど」
「それ、今日じゃないとだめ?」
「別に」
「じゃあ、うち来ない? 前に話したエチオピアのVRMusicグループ、新しい感覚パッケージ出たのよ」
「ああ、あれか。低音を聴覚じゃなくて皮膚感覚側に流すやつ」
「そう。それに今回は視覚同期もかなり良くなってる。前のは少し酔ったけど、今回は平衡感覚の補正が入ってるらしいわ」
「君はそういうのが本当に大好きだな」
「好きよ。ああいう派手なもの、たまには必要でしょ」
「前に君の家でやったけど、あれは確かに興奮したよ」
「そうでしょう?じゃ、決まりね」
「決まりなのはいいけど...愛梨は卒論大丈夫なのか?」
「え?」
愛梨が少し絶妙な顔をする。
「その顔は、なにも手を付けてない、だな?」
「バレた?アハハ。ま、まだ大丈夫でしょ」
「そうだといいけどな」
料理は、以前来たときと同じくよくできていた。
玲と愛梨が選んだのは、合成タンパクを使った高級肉料理だった。名称だけは旧時代の牛肉料理に寄せてあるが、実際には筋繊維の密度も脂質の配分も、食後の集中度まで計算して調整されている。味は絶品だ。
窓の外では、夕方の東京が少しずつ色を変えていた。丸の内ビルディングの百八十階から見ると、皇居前広場も、東京駅も、模型の一部のように見える。湾岸の方には、東京第一ゆりかごセンターの白い外壁がまだ淡く光っていた。
唯一何も変わっていないのは、皇居だけで、そこだけは時が止まったように自然であふれていた。
食事を終えるころには、愛梨はすでに今夜使うVRMusicの感覚パッケージを選び終えていた。
「じゃあ、行きましょ」
「もう予約したのか?」
「うちの部屋に送ってあるわ」
「準備がいいね」
「当たり前よ」
そう言って、愛梨と玲は席を立った。顔認識を基に自動的に決済され、会計を呼ぶ必要はない。
丸の内ビルディングから愛梨の居住区までは、地下連絡線で二駅だった。
愛梨の居住区は、大学関係者向けの単身ユニットが多く入る高層住宅群の一つにあった。家というより、生活を置いておくための小さな部屋である。もっとも、この時代においては、それで十分だった。食事は外でも中でも用意できるし、清掃は自動化されている。寝る場所と、着替える場所と、好きなものを置く場所があれば、人はだいたい暮らせる。
愛梨の部屋は、玲が前に来た時より少し明るかった。
壁面には、薄い布のようなディスプレイが掛かっている。普段はただの白い壁に見えるが、接続すると、視覚、音響、触覚、平衡感覚まで同期する簡易没入装置になる。部屋の中央には低いソファがあり、その横に、感覚同期用の細いリングが二つ置かれていた。
「前より機材増えてないか?」
玲が聞くと、愛梨は少し得意そうに頷いた。
「いくつか新しいのを買ったの。第四のバイト代が入ったから」
「人間教師の成果だな」
「そう。空気感を教えた成果よ」
「それはよかった」
愛梨はソファの背にジャケットをかけ、壁面端末を起動した。ジャケットを脱ぐと、白いブラウスの輪郭が少しはっきりした。研修中は隠れていた肩や腰の線が、部屋の柔らかい照明の中で自然に浮かぶ。
彼女がVRの電源を付けるために少し前かがみになると、胸元の布がほんのわずかに落ちた。見えてはいない。だが、見えそうだと気づいた瞬間、玲は思わず視線を壁面ディスプレイへ戻した。
部屋の光が少し落ちる。白かった壁に、淡い赤と金の線が浮かび上がった。
玲の視界に接続確認が表示される。
Aster Tena / Addis Layer 7
感覚同期:視覚・聴覚・皮膚感覚・内臓低周波・平衡補正
推奨接続人数:1〜6
情動負荷:中
「情動負荷、中か」
「大丈夫でしょ?前のは高だったし」
「前のも楽しかったけど、後で少し頭が痛くなったよな」
「今回は補正が入ってるって。大丈夫。レビューは見たもの」
「AI生成の偽のレビューじゃないことを祈ろうか」
愛梨は笑って、感覚同期リングを一つ玲に渡した。
「はい。つけて」
玲はそれを受け取り、首筋の神経接続部に近づけた。
リングが自動で位置を調整し、皮膚に触れるか触れないかの距離で固定される。軽い確認音が鳴った。
愛梨も自分のリングを装着しようとして、思い出したように言う。
「あ、忘れてた。ちょっと玲。私今スカート履いてるんだったわ。流石にVR Musicの時にオフィスカジュアルのスカートなのは厳しいから、着替えるわ」
「ああ、分かった。窓の方でも向いてるさ」
「今更の恥じらいね。ま、良いわ。あっち向いてて」
愛梨がクローゼットを開ける音がした。少しすると、彼女がベルトを外すカチャカチャという音がした。布が動く音がする間、玲はずっと東京の景色を見つめていた。
「もういいわよ。こっち向いて」
「はーい」
部屋の方を見るとショートパンツに着替えた彼女が居た。綺麗で、たおやかな太ももが照明の中に浮かびあがった。普段から体型を保つために気を使っていることが誰の目にも分かる。
彼女は、改めてVR Musicのためのリングを装着した。
「じゃあ、始めるわよ」
「どうぞ」
次の瞬間、部屋の輪郭が薄くほどけた。最初に来たのは、音ではなかった。
足元から、低い振動が立ち上がる。床が揺れたわけではない。皮膚の内側に、ゆっくりと熱が入ってくるような感覚だし実際にそのような刺激と感じられるよう設計されているのだ。
それから、遠くで声が重なった。言語としては何を言っているのか聞き取れない。玲も愛梨もエチオピアの言語のことなど何も知らない。だが、その響く音は心地の良いものだった。音の高さと、体の奥に流れる低周波と、視界に広がる赤い線が、互いにずれながら結びついていく。
愛梨が隣で小さく息を吐いた。
「ほら、いいでしょ」
「そうだな、感想を言うにはまだ早いけどな」
「感想なんて、あとでいいの」
愛梨と玲のそんな会話は、音楽が本格的に始まることで、音の中に溶けていった。
壁も天井も消え、代わりに、夕焼けのような色をした空間が広がった。都市でも、草原でも、舞台でもない。ただ、音に合わせて形を変える広い場所だった。低音が来るたび、足元の赤い線が波打つ。高音が走るたび、白い粒子が空中で散った。
玲と愛梨は共に、人間の神経が快感を感じられるよう最大限最適化された音楽に身を包み、意識を無限に続くようなリズムの濁流に任せた。




