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家族禁止法  作者:
第一部:東京第一ゆりかごセンター
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第三話

「次に向かう三十五階は、登録を終えた出生児が初期発達期を過ごす区画です。主に生後一年未満の児童を対象に、睡眠、栄養、情緒応答、感覚刺激、免疫訓練、基礎運動発達を統合して管理しています」

一行は再びエレベーターに乗った。


三階の柔らかな桃色の案内表示は、扉が閉まると同時に白と淡い緑へ変わった。壁面には、三十五階の区画図が表示されている。


総合初期発達室。

人間接触管理室。

微生物曝露調整室。

離乳食適合室。

初期社会交流区画。


玲はそれを眺めながら、軽く目を細めた。


「かなり広いんですね」

「東京第一ですから」


雄二所長は当然のように、だが誇らしそうに答えた。


「この階だけで、同時に二千名以上の出生児を管理できます。ただし、単純な収容数より重要なのは、個別応答の精度です」

「個別応答?」


研修生の一人が聞いた。


「ええ。出生児の反応は、見た目以上に差が大きいのです。泣き方、眠り方、匂いへの反応、光への反応、接触への好み、消化の癖、体温の変化。そうした情報を常時取得し、その児童に合わせた環境を組み立てます」


エレベーターが三十五階に到着した。


扉が開いた瞬間、研修生たちは一斉に静かになった。

そして、そこには、広大な空間が広がっていた。


壁も天井も、ほとんど境目が分からないほど滑らかな表示面で覆われている。淡い青、薄い緑、柔らかな金色。光はどこから来ているのか分からないほど均一で、しかし無機質ではなかった。遠くでは、森の枝のような影がゆっくり揺れ、別の区画では水面の反射に似た光が天井を流れている。


床面には、透明なカプセルが規則正しく並んでいた。


それぞれの中に、小さな出生児がいる。眠っている者もいれば、手足を動かしている者もいる。目を開けて、空中に浮かぶ柔らかな光を追っている者もいた。カプセルの周囲には細い人工アームが折り畳まれており、必要な時だけ花弁のように開く構造になっていた。


大勢の赤ん坊がいるにもかかわらず、泣き声はほとんど聞こえなかった。

無音ではない。

小さな息遣い、短い声、衣擦れのような機械音、遠くで誰かが笑うような音。だが、それらはすべて、空間全体に吸収され、調整されていた。耳障りな音はない。過剰な静けさもない。


「こちらが総合初期発達室です」


雄二所長は、少しだけ誇らしげに言った。


「通称、ゆりかご。睡眠、栄養、姿勢、体温、感覚刺激、情緒応答を統合的に管理する基礎環境です」


愛梨が、近くのカプセルを覗き込んだ。

中の出生児は目を開けていた。まだ焦点が合っているのかどうかも分からないような視線で、天井の光を追っている。

光は、単純に動いているわけではなかった。

近くへ来たり、遠くへ下がったり、視界の端を横切ったり、時にはぼやけ、時には輪郭を持った。出生児の眼球運動に合わせて、空間そのものが反応している。


「表示面は、旧時代の平面ディスプレイとは異なるので、ディスプレイを見て視力は悪化するどころか、大きく改善します」


雄二所長が説明した。


「ディスプレイの表示は、眼球運動、焦点調節、奥行き認識、周辺視野への刺激を組み合わせています。単距離注視は発生しません。遠方視、近方視、追従運動、周辺刺激が、発達段階ごとに設計されています」

「視覚レンズを入れる前に、そこまで視力を育てる必要があるんですか?」


研修生の一人が聞いた。雄二所長は、当然のことを聞かれたという顔で頷いた。


「あります。視覚レンズは補助器官です。基礎視覚そのものの発達を軽視する理由にはなりません。むしろ、基礎器官が安定しているほど、後の接続精度も上がります」

「なるほど。ありがとうございます」


研修生はそう感謝していた。メモを取る必要性はなく、今の情報は脳に接続された膨大なメモリーの一部に永久に保存される。

玲は先ほどの質問を聞いて笑ってしまった。七歳になれば、ほとんどの子供は視覚レンズを埋め込む。それでも、出生児の頃から焦点調節や周辺視野まで細かく鍛える。無駄ではない。無駄ではないのだが、人権配慮とは時々ずいぶん手間のかかるものだ。

隣で愛梨も同じことを考えたらしく、小さく笑った。


「贅沢ですね」

「ええ、もちろんです!」


雄二所長はその言葉を褒め言葉として受け取ったらしい。


「出生児には、贅沢であるべきです」


その時、近くのカプセルの中で、一人の出生児が顔をしかめた。短く息を吸い、次の瞬間、泣き出しそうな表情になる。

しかし、人工アームはすぐには動かなかった。


1.7秒ほどの沈黙。


それから、カプセルの側面から細いアームが伸びた。アームの先端は柔らかい布のような素材で覆われており、出生児の背中と首の下に滑り込む。角度はほとんど分からないほどわずかに調整され、温度と圧力が変わり、出生児の体がゆっくり持ち上がった。


泣き声は、完全に出る前に小さく収まった。


「今のは、少し遅らせたんですか?」


愛梨が聞いた。


「ええ」


雄二所長は頷いた。


「即応しすぎると、出生児は自己発信と外界応答の因果関係を学習しにくくなります。ですから、マザーアームには0.1秒から5秒の応答遅延を入れています。もちろん、呼吸異常や急性痛覚反応の場合は即時介入します」

「泣かせること自体にも意味があるということですよね」


玲が言った。


「その通りです」


雄二所長は嬉しそうに言った。


「泣くことは、肺機能、情緒調整、自己発信、他者応答学習において重要です。問題は、泣かせるか止めるかではありません。どの泣きを、何秒続けるべきかです」


研修生たちは頷いた。当たり前の話だった。出生児の発声を、ただ不快音として処理するわけにはいかない。泣き声は異常通知であると同時に、発達刺激であり、運動であり、意思表示でもある。放置するのも、即座に止めるのも、どちらも間違いだ。

旧時代には、それを個人の判断で処理していた時期があるらしい。

泣いたら抱くべきか。

泣かせておくべきか。

どのくらいならよいのか。

そんなことを、睡眠不足の大人が、その場の気分と疲労で決めていたのだという。

なんという恐ろしい環境だろう!信じられない!

出生児の発達に関わる応答時間を、秒単位で測定もせず、勘と感情に任せるとは、なんという人権侵害なことか!そう考えると、研修生の何人かは、思わず肩を震わせた。


「こちらへ」


雄二所長は、さらに奥へ進んだ。


総合初期発達室の一角には、透明な壁で仕切られた区画があった。中では、淡い緑色の制服を着た職員が、カプセルから出された出生児を抱いている。職員は若い女性だったが、顔には柔らかな笑みがあり、声は低すぎず高すぎず、一定の揺らぎを持っていた。


ただし、その動作は完全な自由ではなかった。


職員の視界には、細かな指示が出ているらしい。抱き上げる角度、声量、表情刺激、揺らす幅、接触時間。彼女はそれを見ながら、しかし機械的には見えない程度に自然な動きで、出生児に声をかけていた。


「人間接触管理室です」


雄二所長が言った。


「児童保育フロアでは、一日三回以上、人間職員による接触を行います。ただし、これは単なる見回りではありません。人間接触そのものの品質管理です。多くはB区分の専門保育職員です。一部、C区分の対人支援職員も補助に入ります。ただし、担当する出生児の特性によって必要な声質、反応速度、表情刺激が異なるため、職員側にも適性割当があります」


室内の壁面に、職員の応答ログが表示された。


抱上角度:基準内。

声量:推奨範囲内。

表情刺激:やや単調。

接触時間:適正。

出生児応答:良好。


職員の耳元に、小さな補助音声が流れているらしく、彼女は少しだけ表情を変えた。微笑みの幅が、ほんのわずかに大きくなる。

出生児は、それに反応して手を動かした。


「職員の表情刺激が単調と判定されたため、補正が入りました」


雄二所長が説明する。


「人間はどうしても癖が出ます。過接触になる者もいれば、逆に応答が機械的になりすぎる者もいる。そのため、接触行動は常に補助されます。改善が見られない場合、担当は交代します」

「人間接触にも、交代基準があるんですね」


一人の研修生が驚いたように言った。


「もちろんです」


雄二所長は胸を張って答えた。


「出生児にとっては、人間らしい接触であることより、安定した良質な接触であることの方が重要です」


それは、あまりにも当然の話だった。人間らしい、という言葉は便利だ。だが、人間らしさには疲労も、気分の揺れも、癖も、偏りも含まれる。出生児に(必要な場合を除き)不用意に与えるべきものではないのだ。

研修生たちは、透明な壁の向こうを見ていた。

職員は、補助表示に合わせて声の高さを少し変えた。出生児は目を細め、口元を動かした。発声にはまだなっていない。しかし、応答としては十分だったらしく、壁面の表示に小さく「良好」と出た。


「次は、外部活動区画を見ていただきます」


雄二所長はそう言って、通路を曲がった。

そこには、思いがけず広い空間があった。

床は柔らかく、ところどころに低い段差があり、透明な安全壁の向こうに複数の小さな遊び場が作られている。森のような区画、水辺のような区画、洞窟に似た薄暗い区画、そして砂場があった。


砂場。


それは、一見すると旧時代の遊び場にあったものと変わらないように見えた。淡い茶色の粒が敷き詰められ、小さな手で掴める程度の湿り気がある。だが、当然ながら、ただの砂ではなかった。


「こちらは免疫訓練用の人工砂場です」


雄二所長が言った。


「完全無菌環境で育成するわけではありません。出生児の免疫系には、一定範囲の微生物曝露が必要です。現在は、皮膚、気道、腸内環境ごとに曝露量を分けて管理しています」


壁面に、微生物曝露モデルが表示される。


皮膚常在菌。

腸内細菌叢。

気道反応。

アレルギーリスク。

感染危険度。

免疫学習進行度。


複数の数値が、出生児ごとに違う色で流れていた。


「旧時代には、自然に触れさせることが健康に良い、という言い方がありました。それ自体は完全な誤りではありません。しかし、自然環境には必要な刺激と不要な危険が混ざっています」


雄二所長は砂場を示した。


「ここでは、危険と偶然を取り除き、必要な不潔だけを残しています」


その言葉に、玲は少し感心した。危険と偶然を取り除き、必要な不潔だけを残す。実に合理的でスマートな解決方法だ。

砂場の中では、数人の幼児が手を動かしていた。まだ歩行は安定していない。だが、手のひらで砂を押し、掴み、口へ持っていこうとして、すぐにマザーアームに軽く止められていた。


その動きは叱責ではなかった。強い制止でもない。ただ、口に入れる直前の角度だけを変え、別の感覚刺激へ誘導する。幼児は不満そうに声を出したが、すぐに別の光に気を取られて手を伸ばした。


「今のは止めるんですね」


愛梨が言った。


「今日の曝露量は、すでに基準上限に近いですから」


雄二所長が答えた。


「明日なら、許可されるかもしれません。砂を食べると不味いということを学習してもらうためにもアルゴリズムは強制的な介入は行いません」


旧時代なら、ただ「汚いからだめ」とか、「少しくらいなら大丈夫」とか、そういう雑な言葉で片づけられていたのだろう。

だが、ここでは違う。


今日なら止める。明日なら許可する。

その差は気分ではなく、免疫応答と曝露履歴、さらには赤ん坊の学習段階によって決まるのだ。


「次は離乳食適合室です」


雄二所長は、通路の先へ進んだ。離乳食適合室は、他の区画より少し温かい匂いがした。


そこには、小さな椅子と、身体を支える補助具が並んでいた。数人の児童が、ゆっくりと食事をしている。もちろん、自分で食べているわけではない。補助アームと職員が、嚥下反応を見ながら、ほんの少しずつ食べ物を口元へ運んでいた。


見た目は、同じ薄い穀物粥のようだった。しかし、壁面に表示された組成は、それぞれまったく違っていた。


鉄吸収補助。

腸内細菌叢調整。

嚥下反応補助。

味覚忌避履歴対応。

アレルギー予測補正。

睡眠前血糖安定。


「今日の基礎食は穀物系です」


雄二所長が言った。


「ただし、同じメニュー名でも組成は児童ごとに違います。鉄吸収、腸内細菌、嚥下反応、味覚忌避の履歴に合わせて調整しています」


一人の児童が、口元をそむけた。


職員は無理に食べさせなかった。代わりに、補助アームが食べ物の温度を0.9度だけ上げ、匂い成分を微調整した。匂いが消えたおかげなのか、児童はもう一度口を開けた。


「味覚忌避が出た場合は、すぐに記録されます」

「その場で調整するんですか?」

「ええ。食事は栄養投与であると同時に、味覚学習ですから」


玲は、小さく頷いた。


食事ですら、単に食べるものではない。栄養であり、学習であり、記録であり、将来の嗜好形成でもある。ここでは、何も偶然に任せる必要はないのだ。

やがて、食事を終えた児童たちは、隣の初期社会交流区画へ移された。

そこでは、数人ずつの児童が、低い安全床の上に置かれていた。互いに触れ合うには少し遠く、しかし存在を認識するには十分近い距離。天井には柔らかな光が流れ、床面にはゆっくり動く模様が映っている。


一人が声を出すと、近くの児童がそちらを見る。

別の児童が手を動かす。それに反応して、床面の模様が少し変わる。


「社会交流は、接触量を制限しながら行います」


雄二所長が説明した。


「過剰接触は刺激過多になりますし、接触不足は応答学習を遅らせます。児童ごとの情緒負荷を見ながら、距離、人数、音量、表情刺激を調整します」


愛梨は、じっとその光景を見ていた。


子供同士が、ただ一緒にいるように見える。だが実際には、距離も、音も、光も、相手の人数も、すべて管理されている理想の場所。

能力も感覚も違う子供たちを、ただ同じ部屋に入れて、好きに遊ばせていたという旧時代は遥かに不自然に思える。昔の社会というのは、なんて乱暴で愛のない社会だったんだろう!?


その時、室内の光が少し変わった。

天井の表示面に映っていた森の光景が、ゆっくりと夕方の色へ移っていく。床の模様は淡くなり、環境音の周期が少し長くなった。児童たちの動きが、少しずつ鈍くなる。


「睡眠導入です」


雄二所長が言った。


「遊びから眠りへ、環境全体をなめらかに移行させます。急に照明を落とすのではなく、視覚、聴覚、接触刺激、体温制御を組み合わせて、児童ごとに眠気を作ります」


眠気を作る。玲はその言い方を、少し面白いと思った。

旧時代の人間は、眠くなるのを待っていたのだろうか?

あるいは、眠らない子供を抱えながら、理由も分からず困っていたのだろうか。


ここでは、眠気も環境設計の対象だった。

一人の児童が、まだ目を開けていた。マザーアームが、その児童の背中にほとんど触れない程度の圧をかける。天井の光が、その子の視線の先だけ少し遠ざかる。音の中に、低い揺らぎが混じる。

児童は何度か瞬きをし、やがて目を閉じた。

壁面に、小さな記録が表示された。


睡眠導入成功。

所要時間:3分22秒。

情緒負荷:低。

再覚醒リスク:標準範囲内。


雄二所長は満足そうに頷いた。


「最後に、本日のケア記録を見ていただきます」


壁面に、一人の児童の記録が匿名化されて表示された。


情緒応答充足率:98.7%

接触刺激満足度:A

呼称反応:良好

安心誘導成功率:99.2%

本日の愛着形成指数:標準範囲内


「この子は、今日も十分に愛されています」


雄二所長は、誇らしそうに言った。この精密な愛こそが、ゆりかごの強みなのだから当然である。

研修生の何人かが、小さく頷いた。

愛梨も、何か納得したように目を細めていた。


「すごいですね」


誰かが呟いた。雄二所長は、嬉しそうに微笑んだ。


「ええ。東京第一では、出生児が愛情不足に陥ることはありません。愛情も、栄養や睡眠と同じく、測定し、管理し、保障されるべき発達資源ですから」


その言葉に、研修生たちは当然のように頷いた。

旧時代の人間は、愛を測ることに抵抗したという。

測れないから尊いのだ、と言った者さえいたらしい。

なんという危うい考え方だろう!

測れないものを、どうやって守るというのか。

記録できないものを、どうやって不足していないと証明するのか。

出生児の発達に必要なものを、ただ大人の善意や感情に預けていたのだとしたら、それこそ恐ろしい話だった。


雄二所長は、表示を閉じた。


「では、次は五十六階へ向かいます」


壁面の行程表が切り替わる。


第三行程:発達支援区分判定フロア



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