第二話
三階に近づくにつれ、壁面表示の色が少し変わった。
白と淡い青を基調とした案内に、柔らかな桃色のラインが混じる。音もわずかに低くなり、呼吸に合わせるような周期を持った環境音が流れ始めた。
「三階は、出生医療区画と出生登録区画が接続されています」
雄二所長が、エレベーター内で説明を始めた。
「出生提供者の出産、出生児の初期安定処置、登録、初期栄養投与、発達基礎記録までを一体で行う階です」
愛梨が小さく頷いている。
玲は、壁面に表示された区画図を見た。
医療処置室。登録室。初期安定室。栄養適合室。出生提供者回復室。
エレベーターが止まった。
三階は、二十一階と同じように静かだった。
無音ではない。むしろ、細かな音は多い。遠くで動く医療機器の低い駆動音、床を移動する搬送ユニットの小さな走行音、壁面端末の通知音。だが、それらはすべて、耳障りにならないよう調整されていた。
雄二所長は一行を、ガラス越しに見学できる区画へ案内した。
「こちらが出生登録室です」
広い部屋の中央に、透明な保育カプセルのような装置が置かれていた。
その中に、小さな出生児が眠っている。肌はまだ赤く、手足は細い。カプセルの周囲では、白い服を着た医療スタッフが静かに作業していた。
隣の椅子には、若い女性が座っていた。出生提供者である。女性は疲れているように見えたが、表情は穏やかだった。隣にいた職員に何かを説明されると、彼女は何度も頷いた。
「出産後、出生児はまず初期安定処置を受けます」
雄二所長が言った。
「呼吸、体温、血糖、神経反射、感染リスク、遺伝子基礎情報。これらを確認したのち、行政登録が行われます。登録が完了した時点で、その児童は社会養育体系に組み込まれます」
「出生提供者とはその後の接触は、どの程度行われるんですか?」
学生の一人が好奇心から尋ねた。雄二所長は、質問を歓迎するように頷いた。
「出産後の短時間接触は、制度上は現在でも申請できます。出生提供者の希望があり、かつ出生児の生物学的健康、発達権および双方の心理安定に反しないと判断された場合に限り、専門審査を経て許可されます」
雄二所長は、そこで少しだけ笑った。
「もっとも、少なくとも東京第一では、2098年以降、一度も申請された記録はありません。今では、そういう希望を持つ方自体がほとんどいませんからね」
研修生たちの間に、小さい笑いが起きた。
出生提供者が、出生児に会いたがる?
なんて奇妙で、面白いジョークだろう!
「もし今どきそんな申請をする方がいたら、まず心理支援課にご案内することになりますがね。
もちろん、丁重に、です」
雄二所長はほほ笑みながらそう言った。
ガラスの向こうで、職員が女性にカプセルを近づけた。女性は中を覗き込み、少しだけ笑った。
音声は聞こえない。ただ、視界レンズが読唇補助として字幕を出した。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
女性はそう言っていた。職員が深く頷く。そしてカプセルは、女性のそばからゆっくり離れていった。
出産は終わり、登録が始まる。この場ではよくある日常の一つに過ぎなかった。
彼女は、この子供と会うことは二度とないだろう。
もしそんな機会があったとしても、真っ当な他人同士としてであり、お互いに遺伝的関係があるなど夢にも思わないだろう。
「現在では、全ての出生提供者がこのように手続きを受け入れています」
雄二所長は、誇らしげに語ってゆく。
「子供を自分の手で育てなければならない、という旧時代的な責任から解放されたことは、出生提供者にとっても大きな福祉です。回復、キャリア、自由な生活。そのすべてを継続できる」
愛梨が、ガラスの向こうを見たまま言った。
「出生提供者の方もリラックスしていますね」
「ええ。制度導入初期には、出産後の分離に不安を抱く方も多かったと記録されています。しかし現在では、出生前説明、心理調整、権利確認が徹底されていますから」
雄二所長は、そこで少しだけ表情を和らげた。
「何より、出生提供者は知っています。ここに来た子供は、個人の能力や生活環境に左右されず、最も適切な支援を受けられる。自分一人が抱え込むより、はるかに安全だと」
玲は、ガラスの向こうのカプセルを見た。生まれたばかりの赤ん坊の小さな手が、一度だけ開いた。何かを掴もうとしたのか、ただ神経反射なのかは玲には分からなかった。
雄二所長の説明は続いた。
「初期栄養についても、現在では完全に個別最適化されています。旧時代には、母乳というものが重視されていました。妊娠・出産を担った女性の乳腺から分泌される栄養液です」
母乳。
その言葉を聞いて、学生の何人かが視界資料を開いた気配があった。あまりに古く非日常的な言葉だったので、単語の意味が分からなかったのだ。
玲の視界にも、AIによる旧時代語の自動注釈が開いた。
~~
母乳:旧家庭制において、主に母親と呼ばれた出生提供女性から分泌される栄養液。
母親:妊娠・出産を担った出生提供者を指す旧時代語。多くの場合、出生児の第一次養育者として、生活管理、情緒的接触、初期教育、進路判断に強い影響を持った。
~~
「当時、母乳は免疫形成や発達に有益だと考えられていました。それ自体は、誤りではありません。しかし、2050年代に開発された人工母乳は、出生提供者である女性の母乳よりも遥かに健康的です」
雄二所長が手を動かすと、壁面に栄養モデルの図が表示された。
「現在の初期栄養液は、出生児ごとの遺伝情報、免疫応答、腸内環境、代謝傾向に合わせて調整されます。平均的な母乳を模倣するのではありません。その児童にとって、母乳以上に適した栄養環境を設計するのです」
彼の声には、絶対的な誇りと自信があった。そして、その誇りと自信は、ただの迷信ではなく厳密で厳格な科学実験によって裏付けられていた。
「旧時代の人々は、自然であることをしばしば安全性や優越性と混同しました。しかし、自然とは単に未調整であるという意味にすぎません!私たちは、出生児に自然を与えるのではなく、最適化された発達環境を与えているのです」
玲は、壁面の栄養モデルを見ながら思った。旧時代の人間は、よくもまあ、これほど複雑で大切なことを個人に任せていたものだ。そんな無責任すぎる行動には、思わずゾッとしてしまう!
雄二所長は、一行を次のガラス窓の前へ導いた。
そこには、別の出生児が眠っていた。
「ネットワーク開通処置についても、ここで概要を説明しておきましょう」
雄二所長が言った。
「出生直後に行うわけではありません。健康状態、神経発達、免疫反応を確認し、一定期間の生育安定を経たのち、首筋に三次元神経接続チップを埋め込みます」
壁面に、小さなチップの立体図が表示された。
米粒よりも小さい。だが、その内部には複雑な構造が三次元構造として折り畳まれている。
「これは国家標準型の最新世代チップです。超低電力で、神経系への負荷も極めて小さい。かつては高額で、医療事故も多かった技術ですが、現在では安全性は99.99%にまで向上し、製造コストもほぼ無視できる水準まで下がっています」
雄二所長は、少し声を明るくした。
「もちろん、安価であることは重要です。すべての子供に同じ基盤を提供できなければ、権利保障とは言えませんから」
視界レンズの中に、チップの説明が追加表示された。
基礎通信。健康モニタリング。教育支援。緊急保護。認知補助。位置安全。
淡い文字が、次々と並ぶ。
「これにより、児童は社会養育ネットワークに接続されます。健康異常は即時検出され、教育情報は個別化され、危険環境からは自動的に保護される。旧時代のように、子供が家庭内で見えないまま傷つくことはありません」
研修生の視界の端には、再度、AIによる 旧時代語自動注釈 が開いた。
~~
家庭:遺伝、婚姻、同居を基礎とする原始的な私的生活単位。子供の養育、情緒的扶助、財産管理を担ったが、外部監査の困難性から、児童虐待、教育格差、思想的囲い込みの温床ともなった。
~~
研修生たちは、その言葉を講義で何度も聞いたことがあった。暴力、貧困、思想的囲い込み、親密支配。それらが、最も見えにくい形で温存される最悪な私的空間だ。
家庭とは、一体どれほど狂った地獄なんだろうか!?
そう考えるだけで、研修生たちはゾッとして肩を震わせた。
「2084年の二法成立後、運用整備が進み、家庭養育が児童権利侵害罪として明確化されたのは2080年代後半です。」
雄二所長は、穏やかな声で続けた。
「もちろん現在では、実際の摘発例はほとんどありません。ですが、制度初期には、違法な家庭養育や、旧宗教共同体による出生児の隠匿が社会問題となりました。ネットワーク接続は、そうした見えない児童権利侵害を防ぐうえでも重要だったのです」
家庭養育。
研修生の何人かが、その語に反応して再び視界資料を開いた。
旧時代の犯罪記録では、出生児を登録せず、私的空間で育てようとする集団が実在したらしい。
まるで怪談によくでる都市伝説のように、デタラメな話だ!
雄二所長は、出生登録室を見回し、自身の誇らしい仕事内容について再び熱心に語り始める。
「この階で行われているのは、旧来的な家族主義から子供を守り、子供が安全で健やかに育つための前準備なのです!そして...」
玲は、長くなり始めた雄二所長の演説を無視して、ただガラスの向こうで遠ざかっていく赤ん坊の入ったカプセルを見ていた。
出生提供者の女性は、別の部屋へと移動している最中だった。その顔には、疲労と安堵があったが、悲しみは、その女性の顔のどこにも見えなかった。
しばらくして、長い演説を終えて満足したらしい雄二所長は、研修生たちを引き連れて出生登録区画を出ると、壁面に表示された行程表を一度確認した。
表示の横で、小さな矢印が上階を示している。
第二行程:児童保育フロア
「次は三十五階へ向かいます」




