第2話:試す手、考える頭
ゴォォォォォ、と地響きのような風の唸りが森の底から響いてきました。
氷雨はいつの間にか白い乱舞へと変わり、森全体を猛吹雪が包みこんでいました。
大気が凍てつき、木々の大枝がバリバリと音を立ててへし折れていきます。
「うわあああっ!」
「開けてくれ! 中から岩をどかせ!」
広場の向こうの洞窟から、無様な悲鳴が聞こえてきました。
シルバたちエリートの鹿たちが逃げこんだ場所です。
見れば、立派すぎたシルバの角が、慌てて入り口になだれこんだ拍子に岩の隙間に深く挟まり、洞窟の開口部を塞ぐ形で抜けなくなっていたのです。
「くそっ、引っ張るな! 角が折れる!」
「シルバ、お前の角が邪魔で中に入れないんだ! 早く折ってしまえ!」
「何を言う! この角は命より大事な名門の証だぞ!」
力自慢たちはお互いを蹴落とし合い、パニックに陥って体力をすり減らしていました。
上空を見上げれば、大鷲のファルが、氷の張りついた翼を重そうに引きずり、雪の中にドサリと墜落していました。
風を切るための長大な翼は、猛吹雪の前ではただ「冷水を吸い込んで凍りつく重荷」へと成り果てていたのです。
生まれつきの強さだけを信じてきた者たちは、その「力」が通じなくなった瞬間、何もできない赤ん坊と同じでした。
チッチは、彼らに一瞥もくれませんでした。
他人の無様を嘲笑っている時間など一秒もありません。
目の前で呼吸を弱らせている、老人の命のリミットが迫っていたからです。
「まず、遮蔽だ」
チッチは素早く周囲の地形を観察しました。
吹雪は北の山から南へ吹き抜けています。
広場の隅に、落雷で倒れた巨大な樫の倒木が横たわっていました。その風下側には、風が巻き込まず空気が淀む「デッドスペース」ができています。
チッチは老人の服の端をくわえ、全体重をかけて泥を蹴り、倒木の裏側へと引きずり込みました。
これだけで、体に当たる風速は半分以下に落ちます。
体温を奪う最大の敵は「風による熱の拡散」です。風さえ遮れば、熱の逃げる速度は劇的に遅くなります。
「次は……発火だ」
チッチは地面にしゃがみこみ、頭の中の知識をすべて引き出しました。
学校の授業で、教師が傲慢に語っていた言葉を思い出します。
『火とは、選ばれし強き戦士が、硬石を力任せに打ち合わせて生み出す、神聖なる光である!』
(違う。神の光なんかじゃない)
チッチは頭(首)を振りました。
火は「熱と酸素と可燃物」の連鎖反応にすぎません。
腕力など不要。必要なのは、「熱が逃げる速度」を「熱が蓄積される速度」が上回ることだけです。
【実験1:衝撃火花】
チッチは河原から拾ってきた硬い火打ち石を二つ手に取りました。
カチッ、カチッ、と指先で素早く打ち合わせます。
パチッと小さな赤い火花が飛び散り、足もとに集めた枯れ草の上に落ちました。
……しかし、草からはプツリと細い煙が上がっただけで、着火には至りませんでした。
「……失敗。次」
チッチは焦ることなく、即座に要因を分析しました。
(なぜ火がつかない? 草が外気の湿気を吸っているからだ。瞬間的な火花では、湿気を蒸発させて発火点まで温度を引き上げる前に熱が奪われてしまう)
ならば、どうする?
水分を含まず、油脂分があり、わずかな熱を長く保持できる多孔質の素材はどこにある?
チッチの視線が、ファルが落としていった濡れた羽毛に留まりました。
根元にある、油分で水を弾く柔らかな綿毛。
さらに、樫の樹皮の裏側から削り取った、雨の当たっていない乾燥した粉末。
そして、リスの巣から落ちていた、カラカラに乾いたサルノコシカケ(乾燥キノコ)の繊維。
チッチはそれらをほぐし合わせ、空気をたっぷり含んだ小さな「火口のベッド」を組み上げました。
【実験2:回転摩擦による熱の蓄積(弓きり式発火法)】
チッチは自分の小さな手を見つめました。
太い棒を手で激しく揉み続ける筋力はありません。
けれど、小さな力を「高速かつ持続的な回転」へと変換する機構(仕組み)なら、作ることができます。
チッチは弾力のあるしなやかな枝を拾い、強靭なツル草をピンと張って小さな「弓」を作りました。
その弦に、まっすぐな硬い木の棒を一回巻きつけます。
上から平らな小石で棒の頭を押さえ(ハンドピース)、下には窪みをつけた乾燥した木の板(火床)を敷きました。
「弓きり式」です。
弓を前後に往復運動させるだけで、弦に巻かれた軸木が、手揉みとは比較にならない高回転で木の板を削り始めます。
キュルルルルルッ!
キュルルルルルッ!
チッチの腕が、正確なリズムで往復します。
力は要りません。軸を垂直に保ち、ブレを抑え、一定のストロークを維持するだけです。
木と木が擦れ合う摩擦面に、猛烈な熱がたまっていきます。
プンと焦げた匂いが立ちのぼり、削り節のような黒い粉が窪みの切れ込みから溢れ出しました。
その粉の山から、スウッと一本の濃い煙が立ち上がります。
(熱が逃げていない。蓄積されている!)
チッチは弓を止め、窪みに溜まった黒い粉の塊を、先ほど作った「火口のベッド」の上へ滑り込ませました。
黒い粉の中心で、微小な赤い炭化物がドクドクと呼吸するように赤く光っています。
チッチは火口をふんわりと包み、口をすぼめて、長く、均一に息を吹き込みました。
フーーッ……フーーッ……。
送り込まれた酸素によって、熱反応が加速します。
キノコの繊維から羽毛の油分へと熱が燃え広がり、シュルシュルと赤い光の網が広がっていきます。
ボワッ!
黄色い鮮やかな炎が、チッチの両手のひらの上で立ち上がりました。
「……着火成功」
息を呑んだチッチは、すぐに表情を引き締めました。
まだ喜ぶ段階ではありません。生まれたての炎はあまりにも脆弱です。風や燃料のくべ方を誤れば、一瞬で熱を奪われて立ち消えてしまいます。
【実験3:熱対流と蓄熱のシステム(カマドの構築)】
チッチは即座に、拾い集めておいた平たい石を四角く組み上げました。
ただ薪を野ざらしで燃やすだけでは、熱はすべて吹雪の上昇気流に奪われてしまいます。
必要なのは、「熱を閉じ込め、冷風を遮断し、吸気と排気の流れを制御する」空間です。
チッチは石を隙間なく積み上げ、下部に「空気の吸入口」、上部に「煙突」となる隙間を空けた、小さな石組みのカマドを設計しました。
温まった空気は上昇して煙突から抜け、それによって生じた負圧が下部の吸入口から新鮮な酸素を引き込む。
この「煙突効果」を利用すれば、風で煽らなくても、カマド自身が呼吸するように火勢を保ち続けます。
パチ、パチパチパチ……!
カマドの中に乾燥した小枝をくべると、ゴオオッと力強い吸気音を立てて、真っ赤な炎が石の壁の中で渦を巻きました。
熱を吸収した石全体が遠赤外線の熱を放ち、倒木の裏側の空間が、まるで春の日だまりのように急速に温まりはじめました。
チッチは老人の冷えきった手を取り、温まった石の表面にそっと乗せました。
「……う……うう……」
老人のまぶたが、微かに震えました。
凍りついていた唇に、じわじわと赤みが差してきます。
「……あたたかい……。これは……なんの光じゃ……? お前さん……いったい、何を差し出したのじゃ……? 自らの身を……焼いたのか……?」
老人はかすれた声で、チッチの体を確かめるように探りました。
古い神話にあるように、この持たざる小動物が、自らの命を薪にして火を灯したのだと思ったのです。
チッチは、煤と泥で真っ黒になった顔で、ふっと静かに微笑みました。
「ううん。ぼくの体は、どこも焼いてないよ」
チッチは、カマドの中で規則正しく燃え盛る炎を見つめました。
「ぼくが焼いて捨てたのはね、おじいさん。『ぼくには何もないから、死ぬしかないんだ』っていう、思い込みだけだよ」
そのとき、猛吹雪の向こうから、ガタガタと歯を鳴らす無様な足音が近づいてきました。
角が折れて泥まみれになったシルバと、凍結した翼を引きずり歩くことしかできなくなったファルが、暖かな光と熱に引き寄せられるように、這いつくばってやってきたのです。




