第3話:じぶんの足で、世界の先へ
「た、助けてくれ……ここへ……入れてくれ……!」
雪の中から這い出てきたのは、あの大鹿のシルバでした。
誇りだった銀色の角は根元から無残に折れ、残った一本も泥と氷で薄汚れていました。
その後ろからは、大鷲のファルが、氷の塊と化した翼を地面に引きずりながら、みじめに縋りついてきます。
「チッチ……頼む、そこへ置いてくれ……! 凍えて……死んでしまう……!」
ふたりに、広場で他者を見下していた傲慢な面影は微塵もありませんでした。
血統の誇りも、強靭な肉体も、すべてを等しく奪い去る氷点下の嵐の前では、何の意味も持たなかったのです。
チッチは立ち上がり、ふたりを静かに見据えました。
怒りも、復讐心も湧いてきませんでした。
「ざまあみろ」と嘲笑う感情すらありません。
そんな無駄なノイズに思考のリソースを割くのは、エネルギーの浪費だと知っていたからです。
「ここに入りたいなら、立って」
チッチは静かに、けれど揺るぎない声で告げました。
「な、なに……?」
「このカマドの熱はタダじゃない。薪が尽きれば火は消え、全員が凍死する。ぼくたちが生き残るには、役割分担が必要だ」
チッチは折れた角を押さえて震えるシルバを指差しました。
「シルバ。君は角を失っても、ぼくの何倍もの体重と脚力がある。広場の西側にある倒木へ行って、太い枝を踏み折って運んできて。細枝じゃ一瞬で燃え尽きる。直径はこの丸太と同じ太さのものを、5本」
「ぼ、僕に指図するのか……!? この名門の血筋の僕に……!」
「指図じゃないよ、計算だよ」
チッチは淡々と言い放ちました。
「君が薪を調達しなければ、火が消えて君自身が真っ先に死ぬ。ただそれだけの因果関係だ。嫌ならそこで凍りつくといい」
シルバは息を呑み、チッチのブレない瞳に圧倒されて口を噤みました。
プライドをかなぐり捨て、ガタガタと震える四肢で雪の中へと走り出します。
「ファル」
チッチは次に、羽を丸めて縮こまる大鷲を見ました。
「君は飛べなくても、くちばしと鉤爪はぼくより遥かに硬い。あの大岩の裏へ回り込んで、風の当たっていない乾燥した樹皮とコケを削り取ってきて。火勢を安定させるための着火材がいる」
「わ、分かった……! すぐに行く!」
かつてチッチを「ゴミ」と嘲笑した強者たちが、いまやチッチの設計した生存システムの中で、ひとつの機能として必死に動きはじめました。
チッチは彼らを罰したのではありません。
彼らの持っている「質量と強度」を、生存という目的に対して最適に再配置しただけでした。
シルバが引きずってきた太い幹を、チッチは燃焼効率の最も高い角度でカマドにくべました。
ファルが削り取ってきた乾燥繊維を、吸気口を塞がないよう適切な密度で投入します。
ゴオオオオオッ……!
炎はさらに力強く唸りを上げ、倒木の裏側のシェルターは完全な暖気で満たされました。
老人も、シルバも、ファルも、チッチも。
ひとつの熱源を囲んで肩を寄せ合い、全員が泥だらけのまま、ただ静かに嵐が過ぎ去るのを待ち続けました。
やがて、長い夜が明けました。
森を切り裂いていた暴風が止み、鉛色の雲の切れ間から、まばゆい旭光が差し込んできました。
新雪が黄金色に輝き、世界は圧倒的な静寂に包まれていました。
カマドの火はその役目を終え、白い灰の中で静かに煙をくゆらせています。
「……助かった……のか……?」
シルバが、自分の吐く息がまだ温かい湯気になっているのを見て、へたりこみました。
ファルの翼を覆っていた氷も完全に融解し、黒い羽が乾いて本来の機能を取り戻しています。
ふたりは、おずおずとチッチのほうを見ました。
どう声をかければいいのか分からず、ただ気まずそうに視線を落とします。
昨日まで自分たちが信奉していた「角の美しさ」や「翼の大きさ」という狭い物差しが、自然の猛威の前にはどれほど脆く、ちっぽけなものであったかを思い知らされたからです。
「……チッチ、お前……」
シルバが掠れた声で言いました。
「森の広場へ戻ろう。長老たちに話すよ。お前こそが真の知恵者で、僕たちの新しいリーダーになるべきだって……。広場の全員に、お前の価値を認めさせてやる」
ファルも深く頷きました。
「そうだ。お前はもうゴミなんかじゃない。ぼくたちが保証する」
ふたりの言葉に嘘はありませんでした。心からの感謝と、反省から出た申し出でした。
けれど、チッチは静かに首を横に振りました。
「いいよ。森の学校の評価なんて、もうどうでもいいんだ」
「え……?」
チッチは、泥と煤で黒く汚れた自分の両手を見つめました。
爪も牙もない、小さくて平らな手。
「誰かに『すごい』と認めてもらうために、ぼくの手があるんじゃない。角の長さや足の速さで順位をつける森の物差しなんて、あの嵐の前には何の意味も持たなかった。世界には風があって、石があって、熱がある。……ぼくの手には何もないからこそ、世界の仕組み(ルール)をありのままに捉えて、使うことができたんだ」
チッチの言葉に、シルバもファルも返す言葉を見つけられませんでした。
チッチはカマドの灰に土を被せて丁寧に消火すると、背負い袋の紐を引き締めて立ち上がりました。
「お前さん、どこへ行くのじゃ?」
ずっと黙って話を聞いていた老バクが、ゆっくりと顔を上げました。
その白い瞳は、どこまでも澄みわたっていました。
「森を出るよ、おじいさん」
チッチは晴れやかな笑顔で答えました。
「この森の外には、もっと広い山や、海や、知らない世界が広がっている。そこには、ぼくの知らない新しい法則がたくさん眠っているはずだ。それをこの目で確かめに行きたいんだ」
老人は口もとを綻ばせ、深々とチッチに向かって頭を下げました。
「お前さんは、何も持たずに生まれたのではないな。『観察し、思考する』という、この世でいちばん折れることのない角を持って生まれたのじゃな」
「ううん。頭なら、誰だって持っているよ」
チッチは振り返り、まだ雪の残る森の境界線へと歩き出しました。
「使おうとするか、諦めて捨てるか。ただそれだけの違いだよ」
朝の光のなかを、小さな灰色の生き物が、確かな足どりで進んでいきます。
その背中はもう、誰の目から見ても、小さくも無力にも見えませんでした。
学校の評価がどれほど低くても。
生まれつき足が遅くても。
誰かに「価値がない」と切り捨てられても。
手の中にある泥の冷たさを観察し、世界の法則を考え続けるかぎり、誰もが自分の足でどこへだって歩いていける。
チッチが雪原に残した小さな足跡は、森の境界線を軽やかに越えて、果てしない世界の彼方へと、まっすぐに続いていました。




