第1話:泥の底の息づかい
森の広場のまんなかに、とても大きな樫の木が立っています。
その幹には、無数の傷が刻まれていました。
それは、この森にすむ動物たちが、自分たちの「値打ち」を見せつけるための物差しでした。
年に一度の、試験の日。
広場には、息が詰まりそうな空気が張りつめていました。
年老いたサルが、幹の傷を指先でなぞりながら、よく通る声をひびかせます。
「シルバ、銀色の鹿の血筋。角の硬度、特等賞。跳躍力、群のトップ。文句なしのエリートとする!」
ワッと大きな歓声が沸き上がりました。
銀色にかがやく立派な角を誇らしげにそらせ、シルバが胸を張って歩き出します。
その足どりに迷いはありません。
「自分がこの森で一番えらいのは、当然のことだ」
そう信じきっている者の、冷たいプライドが、艶やかな毛並みのすみにまであふれていました。
「次、ファル。風切りの大鷲の血筋。翼の差し渡し、合格。風を起こす力、満点。同じく、エリートとする!」
ファルが大きな翼を力強く打ちならすと、足もとの落ち葉がいっせいに巻き上がりました。
広場の子どもたちが、目を丸くして見とれます。
空を飛ぶ翼。大地を蹴りあげる強靭な脚。獲物の骨を砕く牙。
この森の学校では、それらは「才能」と呼ばれ、持つ者の未来を約束する絶対の通貨のようなものでした。
樫の木の前には、まだ小さな子どもたちが並ばされています。
生まれつきの体の強さを見比べられ、順番をつけられ、別々のグループへと振り分けられていきます。
「……最後、チッチ」
サルの声に、広場のざわめきがピタリとやみました。
称賛のためではありません。
「見てはいけない、かわいそうなもの」を見る、気まずく嘲るような静けさでした。
チッチは、泥で汚れた小さな体を丸めながら、おずおずと前に出ました。
鋭い爪はありません。木をひっかくことすらできず、ただ丸くて湿った指があるだけです。
強靭な牙もありません。硬い木の実の殻を割ることもできない、平らな歯。
角も、羽も、美しい模様すらありません。
森のいちばん底、冷たい土の中にすむ、名もなき生き物の子どもでした。
「……跳躍力、ゼロ。筋力、測定不能。甲殻、角、牙、いずれも無し」
サルはため息すらつかず、ただ冷淡に、木のお札にバツ印をつけました。
「失格――最下層。ゴミ拾い係」
後ろのほうから、クスクスと忍び笑いが漏れました。
シルバの取り巻きの子鹿たちが、チッチの小さな背中を指さしてひそひそと囁き合います。
「あいつ、なんのために生まれてきたんだろうね」
「走ることも、戦うことも、空を飛ぶこともできないのに」
「泥をこねて、虫を捕まえるだけの役立たずだよ。ぼくたちの草を踏むだけ邪魔だなあ」
チッチは、なにも言い返しませんでした。
うつむいたまま、自分の足もとをじっと見つめていました。
言い返せる言葉など、ひとつも持っていなかったからです。
学校で教わるのは、「どれだけ速く走れるか」「どれだけ強く叩けるか」「どれだけ高く飛べるか」だけでした。
どれも、生まれた瞬間から体の形が決まっている者たちのためのルールです。
チッチがどれほど眠る時間を削って努力しても、シルバの頑丈な蹄や、ファルの強い羽ばたきに追いつけるはずがありませんでした。
『もっと本気を出せ』
『努力が足りないんだ』
大人たちはそう言いました。
けれどそれは、魚に向かって「どうして空を飛ぶ努力をしないんだ」と怒るのと同じでした。
持たざる者がどれほど血のにじむ思いでもがいても、生まれつき持っている者が欠伸をしながら踏み出す一歩にすら届かないのです。
――自分は、できそこないなんだ。
この森という巨大な歯車のなかで、どこにも噛み合わない、いらないゴミとして生まれてきてしまったんだ。
広場のすみに追いやられたチッチは、冷たい土の上にうずくまり、ただ息をひそめていました。
世界から、自分の姿が消えてしまえばいいのにと、そう願いながら。
その日の夕方、森の空気がねっとりと重たくなってきました。
空をふさいだのは、いつもの雨雲ではありませんでした。
鉛の塊を溶かしたような、重く暗い灰色の雲が、地面のすぐそこまで垂れこめてきたのです。
ポツリ、と鼻の頭に落ちてきた水滴に、チッチはブルッと体を震わせました。
冷たい。ただの雨ではありません。
肌に当たった瞬間、針で刺されたような痛みが走る、凍りついた氷雨でした。
「みんな、穴に入れ! とんでもない大雪と氷の嵐が来るぞ!」
見張りの叫び声が響きわたり、動物たちがパニックになって走り出します。
大鹿たちは自慢の体を寄せ合って頑丈な洞窟へ逃げこみ、鳥たちは風を避けるために深い樹洞へと飛びこみました。
そんな大騒ぎのなか、森の入り口のほうから、足を引きずって歩いてくる影がありました。
毛が抜け落ち、泥と垢で真っ黒になった、巨大な年寄り――バクの老人でした。
その両目は白く濁り、なにも見えていないようでした。
足もとはおぼつかず、冷たい雨に打たれながら、かすれた声で助けを求めていました。
「……だれか……お願いじゃ……あたたかさを……。夜を越えるための……火を、分けてはくださらんか……」
老人の震える足が、洞窟の前にいたシルバの前にたどり着きました。
シルバはあからさまに嫌悪の表情を浮かべ、銀色の角をガチリと鳴らして威嚇しました。
「あっちへ行け、小汚い老いぼれが。この洞穴は試験に受かったエリートだけの場所だ。お前のような役立たずを入れる隙間はない。自慢の脂肪で勝手に寒さをしのぐんだな」
「頼む……この雨は、命を奪う雨じゃ……。すこしの温もりさえあれば……」
老人が縋りつこうと手を伸ばすと、上空からファルが、バサッと冷たい風を吹きつけました。
「近づくな! 自分の力で風も切れず、エサも取れない者に、恵んでやる火などない。それがこの森の掟だ。己の弱さを呪いながら、そこで凍え死ね!」
彼らの声には、悪意すらありませんでした。
彼らにとって、「弱い者が淘汰されること」は当然のルールであり、正義だと信じこんでいたのです。
シルバたちは重い岩の扉を閉め、あたたかい穴の奥へと引きこもってしまいました。
広場には、叩きつける氷雨の音と、泥の中に倒れた老人の苦しげな息遣いだけが残されました。
チッチは、木の隙間からその光景をじっと見ていました。
胸の奥が、焼けるように痛みました。
老人の姿が、少し前の自分の姿と重なったからです。
理不尽だ。
力のない者は、ただ震えて、死ぬのを待つことしか許されないのか。
チッチはおずおずと老人に近づきました。
老人は冷たい水たまりの中に倒れ、急速に体温を失っていました。
吐き出す息は白く、皮膚は氷のように冷たくなっています。
「……おじいさん……」
チッチが声をかけると、老人の白い瞳がかすかに揺れました。
「……だれじゃ……? お前さんも……わしを嘲笑いに来たのか……?」
「ぼく……なにも持っていないんだ」
チッチの声が震えました。
「シルバのような強い体も、ファルのような翼もない。おじいさんを背負って運ぶ筋力も、薪を叩き割る爪もない。ぼく自身が、この森でいちばん役に立たないゴミなんだ……。だから、助けてあげられない……」
老人は泥に顔を埋めたまま、かすれ声で呟きました。
「……そうか……。お前さんも、何も持たぬか……。なら、一緒に凍えるしかないのう……。この嵐は……誰も助けてはくれん……」
老人の体が、ガチガチと激しく痙攣しはじめました。
その姿を見た瞬間。
チッチの頭の奥で、カチリと、何かのスイッチが切り替わる音がしました。
悲しみではありませんでした。同情でもありませんでした。
「こんな道理が通っていいはずがない」という、静かで、けれど凄まじい怒りでした。
――なぜだ?
どうして、生まれたときの手足の形や、角の長さだけで、生きる権利まで奪われなければならない?
どうして持たざる者は、奇跡を祈るか、諦めて死ぬかの二者択一しかないんだ?
「……あれ?」
チッチの視線が、老人の背中から立ちのぼる、ごくわずかな白い「湯気」に留まりました。
雨粒が老人の背に触れた瞬間、ほんのわずかだけ、気化して消えている。
(冷たい雨が降っている。風は北の山から吹き下ろしている。風が強いから、木の枝が大きく揺れている。おじいさんの体は冷えきっているけれど、深部にはまだ熱が残っている)
チッチの思考が、突如として澄みわたりました。
メソメソと涙を流すのをやめました。
「ぼくには何もない」と自分を憐れむ心を、綺麗さっぱり切り捨てました。
(泣いていたって、1秒前の自分と何ひとつ変わらない。筋肉も鋭い爪も、今すぐ生えてくるわけじゃない。だったら――)
チッチは、周囲の景色を冷徹に「観察」しはじめました。
雨はどうして冷たいのか? 上空の寒気が凝結しているからだ。
どうして体温が奪われるのか? 濡れた皮膚を冷風が撫でることで、気化熱と対流によって熱が急速に奪われていくからだ。
ならば、防ぐべき要因は二つ。「雨水」と「冷風」。
そして、作り出すべきは「熱」だ。
大鹿たちは腕力で木を擦り合わせて火を起こす。大鷲は翼の力で風を操る。
けれど、火という物理現象そのものは、筋肉の中に宿っているわけではない。
「可燃物」があり、「酸素」があり、「発火点以上の熱」が揃ったときに生じる、自然の法則にすぎない。
そこには、血統の貴賎など微塵も関係ない。
自慢の筋肉も、銀色の角も、この世界の物理法則の前では何の特権も持たない。
世界には、最初からルールがある。
強者が威張り散らす森の掟ではない。
太陽と、土と、大気が定めた、何者にも平等な絶対の法則が。
「おじいさん、じっとしていて」
チッチは泥の中に両手をつきました。
爪のない、短くて平らな指。
土を掘ることも獲物を引き裂くこともできず、学校で「いらないゴミ」と切り捨てられた自分の手。
チッチはその両手をじっと見つめ、静かに息を吐きました。
「ぼくの手には、なにもない。だから――世界の法則を、そのまま使う」
小さな灰色の生き物は、吹雪が吹きすさぶ暗闇の中へ、迷いのない足どりで走り出しました。
その瞳から、涙の痕跡は完全に消え去っていました。




