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アフターストーリー「雪国」

 メランコリアのカウンター。


 壁に並んだボトルが琥珀色の間接照明を反射して静かに光っている。


 その日のシフトは、私と大学生のアルバイトの女の子の二人だった。


 平日の夜ということもあって、客足は鈍い。午前一時を回る頃には、店内の客はさっぱりと引いてしまった。


 グラスを磨き上げながら、彼女の弾んだ声に耳を傾ける。話題は、彼女が通う大学のサークルのことや、最近の授業の苦労話だった。


「ホントあのハゲ教授の課題、エグいんですよー。徹夜確定です」


 不満を口にしながらも、屈託なく笑う彼女の姿。それを見ながら、私は胸の奥を温めていた。

 

 カラン。


 静かな店内に、ドアの鈴の音が鳴った。


 重厚な木の扉を押し開けて入ってきたのは、二人の女性だった。


 深く帽子を被ってはいるが、その隙間から覗く横顔だけで、空間の空気が一瞬で跳ね上がる。


 私の姉、瑠依だ。そして、その隣にはもう一人。


「……えっ」


 隣で、アルバイトの女の子が小さく息を呑むのが分かった。


 無理もない。


 テレビの画面や舞台の上でしか見ないような、今をときめく国民的女優の「黒川瑠依」と、若手女優の「黒瀬雫」がそこに立っていたのだから。


 アルバイトの女の子は、完全にビビって直立不動になっている。


「燈、まだやってる?」


 瑠依が帽子を脱ぎ、私に向かっていつものように微笑みかけた。


「うん」


 その様子を見て、隣の女の子が信じられないものを見るように目を丸くする。


「……燈さん、知り合いなんですか?」


 震える声で尋ねてくる彼女に、私は苦笑しながら答えた。


「姉だよ」


「…………え?」


「瑠依が姉で、私が妹」


「えええええっ!?」


 アルバイトの女の子の叫び声が、静かなバーに響き渡った。


 国民的女優が、まさか自分の職場の先輩の姉だなんて思いもしなかったのだろう。彼女は口をパクパクとさせて、完全に思考停止に陥っていた。


 私はパニックになっている彼女をひとまず置いておき、二人をカウンターの席へと促した。


 黒瀬さんは、どこか緊張しているようだった。周囲の目を気にするというよりは、自分自身の内側にある何かに、押し潰されそうになっているような雰囲気だ。


「ご注文はお決まりですか?」


 私が尋ねると、瑠依は迷わずに言った。


「私はブルームーンで」


 いつものメニューをさらりと頼んだ後、瑠依は隣に座る黒瀬さんに優しく向き直った。メニュー表を少し彼女の方へ寄せながら、問いかける。


「雫は何にする? 決まった?」


 姉からメニューを聞かれた黒瀬さんは、少しビクッとしてから、開かれたページを一瞥して呟いた。


「……アプリコットフィズを、お願いします」


「かしこまりました」


 私は静かにシェイカーとグラスを用意する。月乃さんから教わった所作を、一つずつ丁寧になぞっていく。


 まずは、瑠依のための『ブルームーン』。


 彼女がいつも頼む、定番のカクテルだ。ジンをベースに、バイオレット・リキュールとレモンジュースをシェイクする。


 グラスに注ぐと、夜空のような美しい淡い紫色が広がる。スミレの甘い香りと、レモンの酸味が効いた一杯。鮮やかな紫は瑠依によく似合っていた。


 次に、黒瀬さんのための『アプリコットフィズ』。


 アプリコットブランデーとレモンを炭酸水で割り、最後にミントを飾る。度数も低く、フルーティーで女性も飲みやすい一杯だ。


 グラスを差し出すと、黒瀬さんは小さく「ありがとうございます」と言って、すぐに口をつけた。


 夜がさらに深まるにつれて、そのお酒が彼女の心を解きほぐしていったのかもしれない。


 次第に、黒瀬さんの中に少しずつ酔いが回り始めた。


 グラスを見つめたまま、彼女の口からぽつり、ぽつりと、言葉が溢れ出す。


「……ずっと絵描いてばかりで、構ってくれないんですよ」


 それは、思いがけない「彼氏の愚痴」だった。


「大切にしてくれてるのは分かるんですけど……。寂しいじゃないですか」


 まさか現役の人気女優から、そんな生々しい恋愛の悩みが飛び出すとは思わなかったのだろう。


 隣の席で、瑠依が明らかに戸惑ったような表情を浮かべている。完璧な姉も、後輩の恋愛相談には慣れていないらしい。


 私はといえば、グラスを拭く手を動かしながら、ぼんやりと彼女の横顔を見ていた。


 これだけ綺麗で、可愛らしい女の子だ。彼氏の一人ぐらいいるか、と納得してしまう。


 よく見たら右手の薬指にも指輪が光っているではないか。女子の間では、暗黙の了解というやつだ。


 一方で、アルバイトの女の子は石のように固まっていた。


 自分の先輩が有名女優の妹だったという事実と、芸能界の裏話を特等席で聞いてしまっている緊迫感。


 二つの衝撃で、彼女のキャパシティはとうに限界を超えているようだった。


 黒瀬さんの愚痴は止まらない。


 少し潤んだ瞳を揺らしながら、彼女はさらに言葉を重ねた。


「最近は一緒に寝ても、何もしてこないんです。 男としてありえなくないですか?」


 私は心の中で、思わず突っ込みを入れていた。


 (何やってんだ、その彼氏)


 それこそ絵画のように綺麗な彼女を目の前にして、何もしないなんて。


 よほどの朴念仁か、彼女を大切にする方向性を間違えているとしか思えない。キャンバスに向かう情熱の半分でも、彼女に向けてあげればいいのに。


「魅力、ないのかな」


 泣きそうな顔をした彼女は、グラスの残りをぐいっと飲み干した。


 アプリコットフィズのカクテル言葉は、「振り向いてください」。


 今の彼女の胸の内を、そのまま映し出したようなお酒だった。


 空になったグラスをカウンターに置き、黒瀬さんはふらつきながら私を見た。


「あの……もう一杯、何か飲みたいです。おすすめ、ください」


 少し甘えるような、けれどどこか縋るような視線。


 私は少しだけ考えてから、ボトルの棚に手を伸ばした。


 彼女の鬱憤を晴らしつつ、少しだけ背中を押せるような一杯。


 私はグラスの縁をレモンで濡らし、そこに白いグラニュー糖をまぶしつけた。


 まるでグラスに雪が降り積もったように見える、「スノースタイル」と呼ばれる技法だ。空間を満たすジャズの調べの裏で、私の手元が規則正しく動く。


 ウォッカをベースに、ホワイト・キュラソーというオレンジ風味の甘いリキュール、そしてフレッシュなライムジュースを加える。


 氷を入れ、シェイカーを振る。


 シャカ、シャカという小気味良い音が、店内に響き渡る。


 雪化粧を施したグラスに、淡い乳白色の液体を注ぎ込む。


 最後に、グラスの底に鮮やかなグリーンのミントチェリーを飾る。


「どうぞ。『雪国』です」


 日本生まれの、有名なスタンダード・カクテル。


 差し出された淡い緑色と白のコントラストを、彼女は不思議そうに見つめた。


 カクテル言葉は、「恋を占う」。


 黒瀬さんはグラスに口をつけ、縁の砂糖と一緒に、ゆっくりと時間をかけてカクテルを味わっていった。


 ウォッカのキリッとした強さと、ライムの酸味。


 そこに、グラスの縁の砂糖の甘さが混ざり合う。


 度数は高いが、スッキリとしていて飲みやすいはずだ。


 そして最後に、彼女はグラスの底に残ったミントチェリーを煽った。


 じっくりと味わうように、彼女の咀嚼が止まる。


「……甘い」


 彼女の口から、小さな呟きが漏れた。


 私は彼女の目を見つめ、静かに、語りかけるように言葉を紡いだ。


「甘いだけの恋なんて、きっと無いですよ」


 彼女の動きが、ぴたりと止まる。


「そのカクテル、アルコールの刺激と苦味があるからこそ、最後のミントチェリーの甘さが引き立つんです」


 私は、空になったシェイカーをそっと片付けながら微笑んだ。


「……そんな彼も、受け入れてあげましょう?」


 私の言葉が、静かな店内に溶けていく。


 黒瀬さんは、しばらくの間、口の中に残る甘さと苦さを確かめるように黙っていた。


 やがて、その張り詰めていた肩の力が、ふっと抜ける。


「そうですね。彼、本当に不器用だから」


 納得したように、彼女の口元に小さな、今夜一番の綺麗な笑みが浮かんだ。先ほどまでの泣きそうな顔はもうなく、そこには一人の恋する女性の顔があった。


 隣で見ていた瑠依も、ホッとしたように胸を撫で下ろしている。


 誰かの心に寄り添うための言葉を、今の私は自分の声で届けられているのだ。

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