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スピンオフ「シャンディガフ」

 今日は私一人で店を回している。


 黒田さんを含め、うちで働いているフリーターのスタッフ全員の希望休が見事に被ってしまったからだ。帰省だのライブだの、それぞれの理由があるらしい。シフトを組む時は少し頭を抱えたが、「まあ平日だしいけるか」と、結局は私が折れる形で一人店番を引き受けた。


 実際、いけた。いけすぎた。


 オープンしてから数時間、パラパラと常連客が顔を出してくれたものの、今は完全に波が引き、手持ち無沙汰な時間が続いている。


 私はカウンターの中で、すでに磨き終わっているグラスをもう一度ダスターで拭き上げながら、ぼんやりと入り口の重たい扉を眺めていた。


 証券会社で働いていた頃は、一分一秒の「無駄」も許されなかった。常に数字と効率に追われ、息をするように他人の顔色を窺い、擦り減っていく毎日。


 それに比べれば、こうして誰もいない店内で、氷が少しずつ溶けていく音を聞きながら過ごす時間は、なんて贅沢な「無駄」なのだろうと思う。


 カラン、と。


 不意にドアベルが鳴り、静寂が破られた。


「いらっしゃいませ」


 顔を上げると、見慣れた顔がそこにあった。


 キャンバス地のトートバッグを肩にかけ、少しだけ猫背気味に入ってきたのは、出版社で編集者として働いている常連客の蒼くんだった。


 彼はいつも、カウンターの端の席に座り、分厚いゲラの束を広げて黙々と赤字を入れたり、企画書を読み耽ったりしている。決して騒がず、他のお客さんに絡むこともない。店側としては非常にありがたい、空気のようなお客さんだ。


 彼はいつもの指定席に腰を下ろすと、トートバッグから赤ペンと紙の束を取り出しながら言った。


「ウーロン茶お願いします」


「かしこまりました」


 私が短い返事をし、氷を入れたグラスにウーロン茶を注いで彼の前に置く。


 いつもなら、私と彼の会話はこれで終わりだ。彼は原稿のチェックに没頭し、私はそれを見守るだけ。干渉しないのが、この店の暗黙のルールみたいなものだった。


 けれど今夜は、あまりにも静かすぎたせいだろうか。


 それとも、いつも完璧な距離感を保とうとする黒田さんがいなくて、私の少しだけ緩んだ部分が顔を出したからだろうか。


 私はウーロン茶のグラスを見つめながら、ふと思い立って彼に話しかけてみた。


「いつもウーロン茶だね。飽きない?」


 普段なら絶対に聞かないような、無遠慮な質問。


 蒼くんは少し驚いたように目を瞬かせ、赤ペンを持った手を止めた。嫌な顔はしていなかった。


「あ、いや……飽きないというか」


 彼は少し恥ずかしそうに頭を掻いた。


「僕、お酒飲めないんですよ。体質的には大丈夫なんですけど……味が苦手で。苦かったり、アルコール臭かったりするのが、どうも駄目みたいで」


「ああ、分かるわ」


 私は素直に頷いた。


「最初からお酒が美味しいなんて思える人間のほうが少ないよ。大抵は、無理して飲んでるうちに麻痺していくか、酒に逃げる理由ができるか、そのどっちかだから」


 私の身も蓋もない言い方に、蒼くんは苦笑いをした。


「でも、バーの雰囲気は好きなんです。静かで、みんな自分の世界に浸ってて。仕事柄、言葉や物語と向き合う時間が長いので、こういう場所の方が集中できるんですよね。だから、ウーロン茶だけで長居して、迷惑じゃないかなっていつも……」


「迷惑なわけないじゃん。ウーロン茶だって立派な売り上げだし」


 私はグラスの結露をダスターで拭き取りながら、少しだけ声のトーンを落とした。


「でも、たまには軽いの飲んでみない?」


「え?」


「味の好みは人それぞれだけど、アルコールの角を消して、ジュースみたいに飲めるお酒なんていくらでもある。せっかくバーにいるんだから、ウーロン茶以外にも選択肢を持っておくのは悪くないと思うよ」


 別に無理に勧めるつもりはなかった。嫌なら引くつもりで言った提案だった。


 けれど、蒼くんは少しだけ興味を惹かれたように、カウンターに置いてあるメニュー表を引き寄せた。


「月乃さんが言うなら……」


 彼はメニューの文字をしばらく目で追っていたが、やがて、ある一点で視線を止めた。


「じゃあ、シャンディガフをお願いします」


「シャンディガフね。ビール使うけど、大丈夫?」


「まあ……大丈夫です」


 蒼くんは少し照れたように笑った。


「実は、好きなアーティストさんが『シャンディガフ』って曲を出してて。どんな味なんだろうって、ずっと憧れだったんですよね。でも、頼む勇気はなくて」


「いいじゃん、そういう理由」


 シャンディガフ。ビールとジンジャーエールを半分ずつ注ぐ、非常にポピュラーでシンプルなビアカクテルだ。ビールの苦味がジンジャーエールの甘みで中和され、アルコール度数も低いため、お酒に強くない人でも飲みやすい。


 ただ、ジンジャーエールの選び方で味が劇的に変わる。


 私は冷蔵庫から、キリッと冷えたピルスナービールを取り出した。


 そしてもう一つ、一般的なジンジャーエールではなく、緑色の美しいボトルを手に取った。


『ストーンズ・ジンジャー・ワイン』。


 厳選された生姜とレーズンを使って作られる、イギリスの伝統的なリキュールだ。これをベースに使い、少量の炭酸とビールで割る。うちの店で出している、少し大人向けのシャンディガフだ。


 ジンジャーエールの甘ったるさではなく、生姜の奥深いスパイシーな香りとコクが、ビールの麦芽と絶妙に絡み合う。


 冷やしたピルスナーグラスに、ストーンズジンジャーを静かに注ぐ。そこへ、ビールの黄金色と真っ白な泡が美しい層を作るように、慎重に、かつ勢いよく注ぎ入れた。


 最後に軽くステアし、レモンピールで香りを飛ばす。


「お待たせ。シャンディガフ」


 グラスを前に置くと、蒼くんは「うわあ……」と小さな声を漏らした。


 彼はグラスを両手で持ち上げ、恐る恐る、最初の一口を喉に流し込んだ。


 少しだけ眉間にシワが寄る。ビールの苦味を感じたのだろう。


 しかし、その直後。彼の表情がパッと明るく解けた。


「……美味しい」


 蒼くんが、目を輝かせて私を見た。


「苦い感じはあるんですけど、その後から生姜のピリッとした香りと、なんか、すっごく深い甘さが来ます。これなら……僕でも飲めます」


「よかった。ジンジャーワインを使ってるから、少しコクがあるんだよね」


 私が言うと、蒼くんは嬉しそうにもう一口飲んだ。


 憧れていた曲のタイトルと同じ飲み物を、今、自分が味わっている。その静かな高揚感が、彼の少し赤くなった頬から伝わってきた。


「ちなみに」


 私は片付けをしながら、彼に向かって言った。


「カクテルには花言葉みたいに『カクテル言葉』ってのがあるんだけど、シャンディガフの言葉、知ってる?」


「え、あるんですか? なんだろう……『さわやかな出会い』とか?」


「『無駄なこと』」


 私の口から出た意外な言葉に、蒼くんの動きがピタリと止まった。


「無駄……なんですかね」


 彼は、グラスの表面に浮かぶ泡を見つめながら、ぽつりと呟いた。


 彼は編集者だ。売上や効率ばかりが求められる昨今の出版業界で闘っている。


 作家の書く余白や遠回りな表現を削り、とにかく分かりやすく利益の出る本を作らなければならないというプレッシャー。自分が心底良いと思う言葉を丁寧に拾い上げるような作業は、もしかしたらこの時代には「無駄」なのではないか。そうやって思い悩む夜が、彼にもきっとあるのだろう。


 蒼くんは俯き、グラスの脚を指でなぞった。


「私が前にいた業界はね」


 私は、誰に言うでもなく、静かに話し始めた。


「一秒の無駄も許されなかった。効率がすべてで、結果が出ない人間は全部切り捨てられる。そういう場所だった」


 蒼くんが、顔を上げて私を見た。


「でも、人間なんて無駄の塊だよ。何かに迷ったり、意味のないことで笑ったり、言葉の端っこにこだわったり、こうやってお酒飲んでぼーっとしたり。そういう『無駄』がないと、心はあっという間に干からびて死ぬ」


 私はカウンターに両手をつき、彼の目を真っ直ぐに見た。


「だから、遠回りや寄り道も、すべて意味があるってこと。シャンディガフの『無駄なこと』って言葉はね、決してマイナスな意味じゃないよ。『無駄を楽しめ』ってことだと、私は思ってる」


 私の言葉が、静かな店内の空気に溶けていく。


 蒼くんはしばらくの間、瞬きもせずに私の顔を見つめていたが、やがて。


 ふっ、と肩の力を抜いて、柔らかく笑った。


「無駄を楽しめ、か。……いいですね、それ。すごく、今の僕に欲しかった言葉かもしれないです」


「そう? なら、良かった」


 私たちは、顔を見合わせて少しだけ笑い合った。


 氷が溶けて、カランと小さな音を立てる。


 外の喧騒から切り離されたこの箱の中で、また一つ、誰かの心が少しだけ軽くなったのを感じた。


 数日後。


 シフトに入っていた黒田さんが、カウンターの中で首を傾げていた。


「あれ? 蒼さん、今日はウーロン茶じゃないんですか?」


 彼女の視線の先には、赤ペンとゲラの束を広げた蒼くんがいる。


「はい。今日は、シャンディガフをお願いします」


 蒼くんが少しはにかみながら言うと、黒田さんは「お酒、飲めるようになったんですね!」とパッと顔を輝かせて、慣れない手つきでビール瓶を手に取った。


 私はバックヤードの入り口から、その光景を黙って見守っていた。


 黒田さんは、なぜ彼が急にお酒を頼むようになったのか、その理由を知らない。


 彼がどんな曲に憧れ、どんなふうに仕事で悩み、この一杯に辿り着いたのかを。


 でも、それでいい。


 この店では、そういう名前のない小さな秘密が、グラスの底にたくさん沈んでいる。


 私はエプロンの紐を締め直し、小さく息を吐いてから、「いらっしゃいませ」といつもの声でカウンターへと歩み出た。

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