最終章「ブルームーン」
十二月の凍てつくような寒さが、街の輪郭を鋭く削り出していた日の夕方。
マンションの自室で出勤の準備をしていた私のスマートフォンが、短い振動音を立てた。
画面を見ると、月乃さんからのLINEだった。
『ごめん。食あたりしちゃった』
『生牡蠣最高』
「……えっ」
私は思わず、画面に向かって間の抜けた声を漏らした。
食あたりでダウンしているのに「生牡蠣最高」とは、いかにも月乃さんらしいというか。どこまでも自分の欲望に忠実な人だ。しかし、感心している場合ではない。
今日は金曜日。そして悪いことに、もう二人のフリーターのアルバイトスタッフは、バンドのライブと就職活動を理由に、二人揃って希望休を出していたはずだ。
つまり、今日の『メランコリア』のスタッフは、私一人だけ。
一人で店を回す。百貨店時代ならいざ知らず、このバーで私が一人で矢面に立つなんて、今まで一度もなかったことだ。
お酒の作り方は、月乃さんの手元を見たり、空き時間に本を読んだりして少しずつ勉強はしていた。けれど、いざお客様を前にして、一人で注文を受け、酒を作り、空間の空気を保つことができるのだろうか。
「どうしよう……」
不安で押しつぶされそうになりながら、私は逃げ出すような衝動を必死に抑え込み、冷たい風の吹く街へと飛び出した。
重たい扉を開けて店内に入ると、いつもは月乃さんが点けてくれている照明が落ちていて、店はひんやりと暗かった。
バックヤードに入り、震える手でスイッチを入れる。
オレンジ色の光が、カウンターのグラスやボトルを柔らかく照らし出した。静かなジャズのBGMを流し、製氷機から氷をすくい上げる。
レジスターの横には、月乃さんの字で書かれた小さなメモ帳が置かれていた。カクテルの基本的なレシピや、常連客の好みが殴り書きされている。
やるしかない。
私は深呼吸をして、エプロンの紐をきつく結び直した。
十九時、開店。
最初の数十分は誰も来ず、私はカウンターの中でダスターを握りしめたまま、祈るような気持ちで入り口を見つめていた。
やがて、カランとドアベルが鳴り、最初の客が現れた。
蒼さんだった。
「いらっしゃいませ……」
少し声が上ずってしまった私を見て、蒼さんは不思議そうに瞬きをした。
「あれ、月乃さんは?」
「実は、食あたりで……。今日は私一人なんです。至らない点が多いかもしれませんが、すみません」
私が頭を下げると、蒼さんは「そうなんですね」と小さく笑った。
「大丈夫ですよ。じゃあ、ウーロン茶をお願いします」
「かしこまりました」
蒼さんのウーロン茶を皮切りに、ぽつり、ぽつりと他の常連客たちも来店し始めた。
月乃さんが不在だと知ると、皆一様に驚いたが、誰も怒ったり、帰ったりはしなかった。
「じゃあ、黒田さんが作れる簡単なものでいいよ」
「ジントニックもらえるかな。ゆっくりでいいから」
私の技量に合わせて注文を調整してくれた。
私は月乃さんの残したレシピメモを片手に、必死でグラスに氷を入れ、ステアし、シェイカーを振った。
月乃さんのような、無駄のない美しい所作には程遠い。氷の音も不器用で、提供するまでに時間もかかった。
店内は、月乃さんがいる時のような、ピンと張り詰めたような洗練された空気はなかった。会話は少なく、どこかたどたどしい空気が流れていた。
けれど。
誰も、困った顔をしていなかった。
不器用な私が作るお酒を、皆、静かに、それぞれのペースで楽しんでくれている。焦りや苛立ちの匂いは、この空間のどこにも存在していなかった。
帰り支度を始めた蒼さんが、カウンターに代金を置きながら、私を見た。
「今日、よかったですよ」
「え……」
「ごちそうさまでした」
蒼さんは静かに微笑み、店を出て行った。
『今日、よかったですよ』
その言葉が、胸の奥底にじんわりと染み込んでいく。
閉店間際の、午前二時半。
片付けを始めようとしていた矢先、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいま——」
振り返った私の言葉が、空中でピタリと止まった。
入り口に立っていたのは、茶髪のロングヘアの華やかで美しい女性。
「……瑠依」
私が呆然と名前を呼ぶと、瑠依は「こんばんは」と柔らかく笑い、真っ直ぐにカウンターへと歩み寄ってきた。
いつもなら、姉のその完璧な美しさと自信に満ちたオーラを前にすると、無意識に自分を卑下するような愛想笑いを浮かべていたはずだ。
けれど不思議なことに、今の私は、カウンターという結界の内側に立っているおかげなのか、ただ静かに彼女を見つめ返すことができた。
瑠依はスツールに腰を下ろし、店内を珍しそうに見渡してから、私に視線を戻した。
「いいお店だね。静かで、落ち着く」
そして、彼女は優しく言った。
「何か作ってよ」
私は一つ頷き、月乃さんのレシピメモをめくった。
今の私に作れて、そして、今の姉に飲んでほしいもの。
ページをめくる手が止まり、ある一つのカクテルの名前に目が釘付けになった。
『ブルームーン』
材料は、ドライジン、クレーム・ド・バイオレット、レモンジュース。
私はバックバーから三つのボトルを下ろし、メジャーカップを手に取った。
瑠依は何も言わず、頬杖をついて私の手元をじっと見つめている。
グラスに氷を入れ、シェイカーのボディにジンを注ぐ。
次に、クレーム・ド・バイオレット。甘く儚いスミレの香りがふわりと立ち上った。最後に、引き締め役のレモンジュースを絞る。
氷を入れ、シェイカーを組み立てる。
(美味しくなれ)
私は心の中で念じながら、胸の前でシェイカーを振った。
シャカ、シャカ、と、氷が砕けるリズミカルな音が店内に響く。決して完璧なフォームではない。けれど、一つ一つの動作に、私のこれまでの時間と、確かな温度が込められていた。
優美なカクテルグラスに、液体を注ぐ。
それは、夜明け前の空で仄白く光る月のような、息を呑むほど美しい淡い紫色だった。
「ブルームーンです」
私が静かにグラスを差し出すと、瑠依は「綺麗……」と呟き、グラスの脚をそっと摘んだ。
彼女は一口飲み、目を閉じてその香りと味わいを楽しんだ後、ふわりと微笑んだ。
「美味しい。すごくいい香り」
「よかった」
私は肩の力を抜いた。
瑠依は、私の働きぶりを、ただ黙って見つめていた。
「お給料はいくらなの?」とも、「いつまでそんなアルバイトを続けるの?」とも聞かなかった。
「私ならもっとうまくできる」というような、比較の言葉は一つも、彼女の口から出ることはなかった。
ただ、そこにあるのは、妹がいま生きている場所への、純粋な敬意と肯定だけだった。
グラスを半分ほど空けたところで、瑠依がぽつりと言った。
「燈が楽しいなら、私は安心だよ」
その声は、どこまでも優しく、温かかった。
「……うん。私、ここが好きだから」
私が自分の本心を、何の飾ることもなく口にすると、瑠依は満足そうに「そっか」と頷いた。
瑠依が帰り、重たい扉が閉まった後。
私はカウンターのシンクで、シェイカーを洗いながら、視界が急速にぼやけていくのを感じた。
「……っ」
熱いものが込み上げ、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちて、シンクの泡に消えていった。
悲しいからじゃない。悔しいからでもない。ただ、どうしようもなく、胸の奥が満たされている。
姉に対するドロドロとした劣等感。社会からこぼれ落ちてしまった自分への絶望。誰かに必要とされたいと願いながら、他人の顔色ばかりを窺っていた日々。
そんな私が、自分の足で立ち、自分の手でお酒を作り、姉と対等に向き合って笑い合える日が来るなんて。
こんな夜が来るなんて、思ってもみなかった。
ブルームーン。
そのカクテルには「完全なる愛」という意味がある一方で、もう一つ、別の意味が込められているという。
めったに起こらない、奇跡のような出来事。
私にとってのこの夜は、ブルームーンのようだった。
それから、数ヶ月後。
季節は巡り、重たかったコートを脱ぎ捨てるような、柔らかな春の夜。
「い、いらっしゃいませっ!」
カラン、とドアベルが鳴るたびに、カウンターの隅で声を張り上げる女の子がいた。
新しいアルバイトの大学生だ。
彼女は極度の緊張からか、顔の筋肉を強張らせ、まるで能面のような不自然な「愛想笑い」を顔に貼り付けていた。少し前の、私と全く同じ顔だ。
私が洗い物をしながら彼女を見ていると、注文を聞きに行こうとする彼女の肩に、力が入っているのが分かった。
私は戻ってきた彼女のそばに歩み寄り、その肩にそっと手を置いた。
「大丈夫」
彼女がビクッと肩を震わせて私を見る。
私は、昔の自分に語りかけるように、穏やかな声で言った。
「無理して笑わなくて大丈夫ですよ。あなたのままで、息をしていい場所だから」
その言葉に、彼女の目からふっと緊張の色が抜け落ち、強張っていた口元が、わずかに、本当にわずかに、自然な形へと緩んだ。
「……はい」
ふと視線を感じて顔を上げると、カウンターの奥で氷を砕いていた月乃さんが、私を見ていた。
目が合うと、月乃さんは氷のピックを持ったまま、ほんの少しだけ、得意げに口角を上げて笑った。
ジャズの旋律が、穏やかな波のように店内を満たしている。
グラスに氷がぶつかる音。誰かのくぐもった笑い声。琥珀色の光。
私を救ってくれたこの居場所で、夜は優しく続いていく。




