第五章「ラスティ・ネイル」
十一月の半ばを過ぎると、夜の街を行き交う人々の襟元はすっかり高くなり、吐き出す息も白さを帯びるようになっていた。
私はここで働くようになってから、少しずつではあるけれど、自分だけの呼吸のペースを取り戻しつつあった。無理に笑わなくてもいい。ただそこに存在し、求められた役割を淡々とこなせばいい。その心地よさに、甘えていたのかもしれない。
あの夜、ドアベルが軽やかに鳴るまでは。
「あ、ここいいじゃん。入ろうよ」
金曜日の二十一時過ぎ。少し高めの、華やかな女性の声が店内に滑り込んできた。
「いらっしゃいませ」
私はいつも通り、トーンを抑えた自然な声で出迎えた。入ってきたのは、いかにも丸の内あたりのオフィス街で働いていそうな、洗練された服装の女性二人組だった。一人はベージュのトレンチコートを綺麗に着こなし、もう一人は流行りのツイードジャケットを羽織っている。
上着をお預かりしようと、私が一歩前に出た時だった。
トレンチコートの女性が、私の顔を見てハッと目を見開いた。
「……え? 嘘、燈?」
その声を鼓膜が捉えた瞬間、私の背筋に冷たい電流が走った。
よく知っている声だった。毎日、百貨店のきらびやかなフロアで、互いのメイクをチェックし合い、お局の先輩たちの愚痴を言い合っていた、あの声。
「……佳奈?」
それは、百貨店時代の同期である、小林佳奈だった。
「やっぱり燈じゃん! え、何これ、ここで働いてるの!? 連絡全然つかないから心配してたんだよ!」
佳奈は顔を輝かせ、私の両手を掴まんばかりの勢いで身を乗り出してきた。
ガチリ、と頭の奥で何かのスイッチが切り替わる。
私は一瞬にして、口角を左右均等に一ミリの狂いもなく引き上げ、眉をほんの少しだけ下げて、親しみやすさと申し訳なさを完璧に両立させた笑顔を作った。
三年間、骨の髄まで叩き込まれた、あの「正解の顔」だった。
「久しぶり。ごめんね、スマホの調子が悪くて連絡途絶えちゃって。そっか、こんなところまで来てくれたんだ」
私の口から、驚くほど滑らかに、嘘の言葉が溢れ出た。調子が悪いのはスマホではなく、私の心だったというのに。
「ちょっと、燈がバーテンダーなんてびっくり! あ、でも制服のシャツ、BAのときのだよね? 懐かしいー!」
佳奈は楽しそうに笑いながら、連れの女性と共にカウンターの席についた。
そこからの時間は、私にとって息の詰まるような拷問に等しかった。
佳奈たちはメニューを見ながら、楽しげに近況を語り始めた。私は月乃さんに目配せをして、彼女たちの注文を取る役を買って出た。自分の過去から逃げ出すわけにはいかないという、妙な意地があった。
「私、実は先月結婚したんだよね」
佳奈が左手の薬指を突き出してみせる。そこには、大理石のようなカウンターの光を反射して、小ぶりだが質の良さそうなダイヤモンドが眩しく輝いていた。
「うわあ、綺麗!おめでとう。本当に良かったね」
私は手を叩き、心底祝福しているような高いトーンの声を響かせた。
「ありがとー。それでさ、旦那の転勤に合わせて、私も思い切って転職したの。大手の化粧品メーカーの総合職。BAの経験が評価されてさ、今度は店舗じゃなくて、マーケティングのほうに関われるんだよね。あ、それから転職活動中にカラーコーディネーターの一級も取ったんだ」
結婚。転職。資格取得。
佳奈の口から語られる言葉のすべてが、私の狭い視界を埋め尽くしていく。
彼女は、前に進んでいた。私が百貨店を逃げ出し、薄暗い部屋で夕方まで眠り、コンビニのジャンクフードで心を埋めていた間にも、彼女は正しく闘い、キャリアを積み、自分の人生をプロデュースしていたのだ。
それに比べて、私はどうだ。
夜のバーの片隅で、時給千七百円のアルバイトとして、他人のグラスを洗っている。
その圧倒的な格差に、目眩がしそうだった。焦りと、劣等感と、底知れぬ嫉妬が、胸の奥からどろどろとせり上がってくる。
けれど、私の顔面はそれを微塵も表に出さなかった。
「凄いよ、佳奈!一級なんて、働きながら取るの大変だったでしょ。本当に尊敬しちゃう」
私は完璧な相槌を打ち、完璧なタイミングで驚いてみせ、彼女たちのグラスに細心の注意を払って水を注ぎ足した。
連れの女性が「黒田さんも、ここでバーテンダーなんてお洒落でかっこいいですね」と言った時も、「いえいえ、私はただの見習いですから」と、謙虚で可愛げのある完璧な「お世辞への返答」を返した。
その夜、私は久しぶりに、一秒たりとも「黒田燈」に戻ることができなかった。
終始、他人に不快感を与えないための、誰からも愛されるための、ハリボテの「正解の自分」を演じ続けた。
佳奈たちが「また来るね!」と満ち足りた笑顔で店を出て行ったのは、二十三時を過ぎた頃だった。扉が閉まった瞬間、私の頬の筋肉は、重力に従ってすとんと地面に落ちるように弛緩した。
激しい頭痛が私を襲った。
手が震えていた。私はまた、あの場所に引き戻されてしまったような恐怖に怯えていた。
午前三時。閉店作業がすべて終わり、店内には再び静寂が戻っていた。
私はバックヤードの入り口で、エプロンを外す気力もなく、椅子に座り込んでいた。
カウンターの中では、月乃さんが片付けの手を止め、私の方をじっと見つめていた。彼女は、私の「異常なまでの完璧な接客」を、すべて黙って見ていたのだ。
月乃さんは何も言わず、一本のボトルを手に取った。
スコッチウイスキーのボトル。そしてもう一つ、古めかしいラベルが貼られた、琥珀色のリキュールのボトル。ドランブイ。ハーブやスパイス、そしてはちみつをふんだんに使った、スコットランドの伝統的なリキュールだ。
月乃さんはロックグラスに大きな丸氷を入れ、二つの液体を注ぐと、マドラーで静かにステアした。
カラン、と氷が鳴り、美しい琥珀色のカクテルが完成する。
月乃さんはそれを、私の目の前のカウンターにそっと置いた。
「私、お酒は……」
「分かってるよ。飲めないのは知ってる。だから、飲まなくていい。匂いだけでもさ」
月乃さんは、そう言って自分のグラスにはウーロン茶を注いだ。
私は戸惑いながらも、そのグラスを包み込むようにして両手で持った。
大きな丸氷の冷たさが、じんわりと心地よく伝わってくる。
顔を近づけると、ウイスキーのピートの効いたスモーキーな香りと共に、はちみつのような濃厚で甘い香りが、ハーブのツンとした爽やかさと混ざり合って鼻腔を抜けた。
「なんのカクテルですか、これ」
「ラスティ・ネイル」
月乃さんは、自分のウーロン茶を口にしながら答えた。
「ラスティ・ネイル……錆びた釘って名前なんんですね、これ」
「そう。イギリスの古い俗語で『古めかしいもの』って意味もある」
月乃さんは、グラスの表面に浮かぶ結露を指先でなぞりながら、静かに言葉を続けた。
「錆びついた釘なんて、普通はゴミ箱に捨てるでしょ。でもね、古くなったものにも、傷ついて動かなくなったものにも、ちゃんと使い道があるから」
その言葉が、私の耳の奥に優しく染み込んできた。
古くなったもの。錆びついてしまったもの。
それは、まさに今の私のことではないか。
佳奈のように、光の当たる場所で正しくアップデートされ続ける最新の人間ではなく、社会の歯車から外れ、錆びつき、使い物にならなくなってしまったゴミのような存在。
けれど月乃さんは、そんな私を否定しない。錆びついたなら、その錆びついたなりの良さがあるのだと。
「……一口だけ、舐めてみてもいいですか」
「いいよ。強いから気をつけて」
私はグラスを傾け、琥珀色の液体を、ほんの数滴だけ舌の先に乗せた。
その瞬間、カッと喉が焼けるような、ウイスキーの強烈なアルコールと苦味が広がった。ハーブの複雑なスパイスが鼻に抜ける。
(にが……)
そう思った直後だった。
苦味のすぐ後ろからとろりとした甘さが、波のように押し寄せてきた。苦くて、痛くて、けれど、ひたすらに甘い。
その複雑な味わいに、私は思わず涙が出そうになった。
私が今、生きているこの日々も、同じかもしれないと思った。
「……美味しいです。すごく、苦いけど」
「大人の味だからね」
月乃さんは少しだけ笑うと、私の手からグラスを引いた。
翌日のシフト。
週末の土曜日ということもあり、店は適度な賑わいを見せていた。
二十二時を回った頃、カランとドアベルが鳴り、私が内心最も苦手にしている、あの常連の男が来店した。
仕立ての良いジャケットを着た、五十代の金持ちそうな男。今夜もやはり、彼の隣には新しい女性が連れ添っていた。二十代前半とおぼしき、おとなしそうな雰囲気で気弱そうな女の子だった。
男はカウンターの中央に座るなり、さも自分がこの店のすべてを知り尽くしているかのような口振りで、女の子に語り始めた。
「ここはね、隠れ家的なバーでさ。俺くらいじゃないと使いこなせないんだよ。君みたいな若い子が来るような場所じゃないけど、今日は特別に連れてきてあげたんだ」
女の子は、小さくなって「あ、ありがとうございます……」と、困ったように微笑んでいた。
私は胸の奥で強烈な不快感を覚えながらも、無難な笑顔を貼り付けて彼らの前に立っていた。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか」
「俺にはいつものマッカランをロックで。彼女には……そうだな、適当に甘くてアルコールの弱いやつ。どうせお酒の味なんて分からないだろ?」
男は女の子の顔を見ることすらなく、小馬鹿にしたような笑みを浮かべて言い放った。
女の子は、侮辱されたことに気づきながらも、言い返すこともできず、ただきゅっと唇を噛み締めてうつむいていた。
月乃さんが黙ってマッカランのグラスを準備し、女の子のためにノンアルコールのカクテルを作り始める。
男の傲慢な態度は、酒が入るにつれてさらにエスカレートしていった。
「君さ、普段どんな仕事してるの? へえ、事務職? つまんない仕事だね。もっと若いうちに、俺みたいな人間の人脈を頼って、広い世界を見た方がいいよ。君のその垢抜けない格好もさ、俺がアドバイスしてあげようか?」
男は、女の子の服装や仕事、果ては生き方までを、一方的な価値観で切り刻んでいく。
女の子の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。今にも泣き出しそうなのを、必死に耐えているのが分かった。
私は、カウンターの下で、ダスターを握りしめる両手に思い切り力を入れた。
激しい怒りが、胃の底から突き上げてくる。
なぜ、この男は、自分より立場の弱い人間を傷つけることでしか、自分のプライドを満たすことができないのか。なぜ、この女の子が、こんな理不尽な言葉を笑顔で耐えなければならないのか。
いつもの私なら、ここで「まあまあ、お客様、彼女も緊張されてるみたいですし」と、完璧な愛想笑いで間に入り、その場を濁していただろう。相手は金払いの良い常連客だ。店に迷惑をかけないためにも、それが「正解の対応」のはずだった。
けれど。
昨夜の、月乃さんの言葉が、耳の奥でリフレインした。
『全員に好かれようとしなくていい。疲れるから』
『古くなったものにも、ちゃんと使い道があるから』
私は、もう他人に定義された檻の中で、怯えて生きるのは嫌だった。
自分の心が死んでいくのを、ただ黙って見ているのは、もう真っ平ごめんだった。
私は、握りしめていたダスターをカウンターに置いた。
一歩、前へ出る。
私の顔から、すべての愛想笑いが消え失せていた。感情の読めない、冷徹で、けれどまっすぐな、私自身の目が男を捉えた。
「お客様」
私の低い声に、男が不機嫌そうに話を止めて、私を睨みつけた。
「何だよ、嬢ちゃん」
私は、男の目を真っ向から見据え、一文字一文字を区切るように、静かに、けれど明確に言い放った。
「もう来ないでいただけますか」
店内が、一瞬にして凍りついた。
男は、自分が何を言われたのか理解できないというように、呆然と口を開けて私を見ていた。隣の女の子も、驚きで涙を止めて私を見上げている。
「……は? お前、今なんて言った?」
男の顔が、怒りで急速に赤黒く染まっていく。
「当店は、お客様がリラックスしてお酒を楽しんでいただくための場所です。ご一緒されているお連れ様を不快にさせ、傷つけるような発言を繰り返されるのであれば、他のお客様のご迷惑にもなります。ですから、当店のやり方が気に入らないのであれば、もう二度と来ていただかなくて結構です」
マニュアルなんてどこにもない。
これは、私自身の言葉だった。接客業としては、完全に失格。一発でクビになってもおかしくない暴挙だ。
男はガタッと音を立てて立ち上がった。
「お前、アルバイトの分際で客に向かって何て口叩いてんだ! 店長! おい、店長! この女、今すぐクビにしろ!」
男がカウンターの奥の月乃さんに向かって怒鳴り散らす。
月乃さんは、磨いていたグラスをそっと棚に置くと、いつもと変わらない、感情の起伏が一切ない声で言った。
「スタッフの言う通りです。お会計、マッカラン一杯分で二千円になります」
「……っ!」
男は完全に言葉を失った。店長からも拒絶されるとは思っていなかったのだろう。
男は懐から財布を引っ張り出すと、一万円札を一枚、カウンターに乱暴に叩きつけた。
「二度と来るか、こんな店!」
吐き捨てるようにそう言うと、男はジャケットの襟をひったくるようにして、足早に店を出て行った。
隣の女の子は、一瞬戸惑ったようだったが、私に向かって、深く、深く頭を下げると、男の後を追うようにして店を走って出て行った。その去り際の彼女の顔は、入ってきた時よりも、ずっと晴れやかに見えた。
バタン、と重たい扉が閉まる。
私は、その場に立ち尽くしていた。
心臓が、破裂しそうなほど激しくドクドクと脈打っている。全身の毛穴から、嫌な汗が吹き出していた。
やってしまった。取り返しのつかないことをしてしまった。
恐怖で、膝がガクガクと震えた。店に損害を与えた。客を怒らせた。私は、また社会のルールを破ってしまったのだ。
ゆっくりと振り返り、月乃さんの顔を見る。
クビを覚悟した。あるいは、烈火のごとく怒られるのではないかと、身体をすくませた。
しかし。
「……っ、くふふ」
月乃さんの口から漏れたのは、信じられないことに、小さな笑い声だった。
彼女は片手で顔を覆い、肩を激しく震わせている。
「あはははは! 最っ高!」
月乃さんはカウンターをバシバシと叩きながら、声を上げて爆笑し始めた。
私は呆気にとられて、その光景を見つめるしかなかった。彼女がこんな風に、子供のように感情を爆発させて笑う姿を、私は初めて見た。
「……怒って、ないんですか?」
「怒るわけないじゃん。あのオヤジ、前からうざかったんだよね。女の子が変わるたびに同じ蘊蓄たれてさ。あー、すっきりした。しかも一万円札置いてったよ。八千円もお釣り置いていくなんて、太っ腹なクレーマーだね」
月乃さんは涙を拭いながら、カウンターの一万円札をレジにしまった。
私は、自分の胸に手を当てた。
震えは、いつの間にか止まっていた。
怖かった。
客に本音をぶつけることも、嫌われることも、ルールを破ることも、死ぬほど怖かった。
店をクビになることもなく、月乃さんに嫌われることもなく、私は今も、こうして五体満足で夜の底に立っている。
他人に定義された「良い子」を辞めても、私は壊れない。
その確かな実感が、私の心の奥底に、小さな、けれど決して消えない灯火をともしたような気がした。
私は深呼吸をし、落ちていたダスターを拾い上げた。
「……次の客、来ちゃいますから、片付けますね」
「よろしく、名バーテンダー」
月乃さんのからかうような声を聞きながら、私はカウンターを拭き始めた。
私の顔には、愛想笑いではない心からの小さな微笑みが浮かんでいた。苦味の先に、私だけの居場所の味がした。




