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第四章「ダイキリ」

 十一月に入り、季節が本格的に冬へと舵を切ろうとしていたその日、街は朝から大雨に見舞われていた。


 無数の雨粒は白く煙るほどの飛沫を上げ、世界からあらゆる色彩と音を奪い去っていた。


 メランコリアの店内にも、分厚い壁と扉を隔ててなお、雨の重たい轟音が低く響いてきている。


 いつもは静かに流れているジャズの旋律も、今日ばかりは自然の猛威の前にかき消されがちだった。

 

 こんな日に、好んで路地裏のバーまで足を運ぶ客は少ない。


 開店から数時間、店を訪れたのは、雨宿り目的で駆け込んできた二、三人のサラリーマンだけだった。彼らはびしょ濡れのスーツから雨の冷たい匂いを漂わせながら、熱いお湯割りを足早に流し込み、「ひどい天気だ」と口々に愚痴をこぼして去っていった。

 

 彼らが帰った後、店内には底知れぬ静寂が降りてきた。


 いや、外では滝のような雨が降り続いているのだから、決して無音ではない。しかし、誰もいないバーのカウンターの中に立っていると、まるで自分たちが深い海の底に取り残されてしまったかのような錯覚に陥るのだった。

 

 私はカウンターの端に立ち、グラスをゆっくりと磨いていた。


 百貨店で働いていた頃、私は雨の日が嫌いだった。


 湿気で髪のセットは崩れ、お客様の濡れた傘から滴る水滴で大理石の床は滑りやすくなる。湿度のせいでお客様の機嫌も総じて悪く、普段ならやり過ごせるような些細なことでクレームに発展することも多かった。

 

 月乃さんは、カウンターの中央で仕込みのレモンを切っていた。


 ペティナイフがまな板を叩くトントンという微かな音が、雨音の隙間に規則正しく響く。彼女はいつも通り、無駄のない動きで黙々と作業を進めている。私たちは、言葉を交わすこともなく、ただそれぞれの時間を過ごしていた。

 

 時刻が、深夜の零時を回った頃だった。

 

 カラン。


 雨音に紛れて、ドアベルが鳴った。

 

「いらっしゃいませ」


 私は反射的に顔を上げ、声を出した。


 こんな土砂降りの深夜に、一体誰が。そう思いながら入り口へ視線を向けた私の目は、大きく見開かれた。

 

 そこに立っていたのは、一人の老人だった。


 彫りの深い顔立ちをした、外国人の男性。年齢は七十代、あるいは八十代だろうか。


 分厚い胸板と、丸太のように太い腕。全体的に大柄で、がっしりとした体格をしている。頭には雪のように真っ白な髪を蓄え、顎の辺りにも同じく真っ白な髭が豊かに生え揃っていた。着ているのは、ざっくりとした編み目の分厚いグレーのフィッシャーマンズセーターに、使い込まれた茶色いツイードのジャケット。


 まるで、古いモノクロ映画のフィルムからそのまま抜け出してきたかのような、圧倒的で重厚な存在感だった。

 

 しかし、私が驚いたのは、彼のその風貌のせいだけではない。

 

 彼は、傘を持っていなかった。


 それどころか、レインコートを着ているわけでもないのに、彼の服はどこも濡れていなかったのだ。


 外は大雨。


 入り口から数歩歩くだけでも、全身がずぶ濡れになるはずの天気だ。先に雨宿りに来たサラリーマンたちは、皆一様にスーツの色を変え、髪から水滴を滴らせていた。


 それなのに、この老人のツイードのジャケットには、雨粒の染み一つ見当たらない。真っ白な髪も、乾燥した空気を含んでふわりとしている。足元の革靴すら、濡れた路面を踏んできたはずなのに、ひどく乾いた鈍い光沢を放っていた。

 

 近くに車でも停めて、走ってきたのだろうか。


 いや、だとしても、一滴も濡れないなんて物理的に不可能なはずだ。


 私が混乱して入り口で立ち尽くしていると、老人はゆっくりとした足取りで店内に進み入り、カウンターのちょうど中央、月乃さんの正面の席に腰を下ろした。

 

「……」


 月乃さんは、老人の姿を見ても、全く驚いた素振りを見せなかった。


 スライスしていたレモンをタッパーにしまい、手を拭うと、静かに老人の前にコースターを置いた。

 

「ダイキリをくれ」

 

 老人が口を開いた。


 低く、腹の底に響いてくるような声だった。発音は完璧な日本語だったが、どこか翻訳小説の台詞をそのまま読み上げているようだ。

 

「ラムはダブルで、シロップはいらない」

 

 ダイキリ。


 私がこの店で働き始めてから、少しだけ覚えたカクテルの知識が頭をよぎる。


 ラム酒をベースに、ライムジュースとシロップを加えてシェイクする、ショートカクテルの代表格だ。甘みと酸味のバランスが絶妙で、飲みやすいカクテルとして知られている。


 老人の注文は異質だった。


 ベースとなる強いアルコールであるラムを通常の二倍にし、さらに味の輪郭を丸くするためのシロップを一切入れない。それはもはや、ほぼ原液の強い酒に、ほんの少しの酸味を加えただけの、喉を焼き切るような劇薬に等しい。

 

 だが、月乃さんは眉一つ動かさず、静かに頷いた。

 

「かしこまりました」

 

 月乃さんがバックバーから、無色透明なホワイトラムのボトルを取り出す。


 メジャーカップにたっぷりと注がれたラムが、シェイカーのボディへと滑り落ちる。通常の倍の量のアルコール。そこに、搾りたてのライムジュースと、グレープフルーツジュースがほんの少しだけ加えられた。シロップのボトルには、一切手が伸びない。

 

 カチャリ、とシェイカーが組み立てられ、月乃さんの手が空中でリズミカルに踊り始める。


 シャカ、シャカ、という鋭い氷の音が、外の雨音を切り裂くように店内に響き渡る。


 いつもよりも長く、そして激しいシェイク。アルコールの角を極限まで削り落とし、氷の破片を液体に溶け込ませるための、気迫に満ちた動きだった。

 

 やがて、カクテルグラスに、白濁した液体が注がれる。表面には、シェイクによって砕かれた微細な氷の粒が、薄氷のように浮かんでいた。

 

 月乃さんが、音もなくグラスを老人の前に置く。


 老人は太い指でグラスの脚を摘み上げると、それを光に透かすように一度見つめ、そして、ごくりと喉を鳴らして半分ほどを一気に飲み干した。


 あれだけ強烈なアルコールの塊を飲んだというのに、老人の顔色は微塵も変わらない。ただ、「ふぅ」と短く息を吐き出し、満足そうに目を細めた頷いた。

 

 老人は、胸ポケットから一冊の古びた革の手帳を取り出し、カウンターの上に開いた。


 続いて取り出されたのは、太い軸の万年筆。


 彼はグラスの横に手帳を置き、文字を書き込み始めた。

 

 カリカリ、という万年筆のペン先が紙を擦る音が、静かな店内に響き始める。


 私はカウンターの端から、グラスを磨く手を止めて、その様子をじっと観察していた。


 老人は、何かに憑かれたように手帳にペンを走らせている。時折、動きを止めて虚空を睨みつけ、そしてまた、何かを思い出したようにグラスを持ち上げて酒を含み、再び書き始める。

 

 その光景を眺めているうちに、私はある奇妙な違和感に気がついた。

 

(……減ってない?)

 

 老人は、確実にグラスに口をつけている。喉仏が動き、液体を飲み込んでいるはずだ。


 それなのに、グラスの中のダイキリの液面が全く下がっていないのだ。


 表面に浮かんだ微細な氷の粒も、室内の暖かい空気の中にあるはずなのに、溶ける気配が一切ない。まるで、老人の周囲だけ、時間が完全に凍りついてしまっているかのようだった。

 

 雨の音も、少しずつ遠ざかっていくような気がした。


 老人の万年筆の音と、彼の深く規則正しい呼吸の音だけが、世界のすべてを支配していく。


 私は、自分が夢を見ているのではないかと思った。濡れていない服。減らない酒。この老人は、本当に人間なのだろうか。それとも……。

 

 一時間ほどが経過しただろうか。


 老人のペン先がピタリと止まった。


 彼は書き上げた手帳のページをじっと見つめ、やがて深く、重たい息を吐き出した。

 

「葉巻を吸っても良いか」

 

 老人が、顔を上げずに言った。


 月乃さんは、グラスを拭いていた手を止め、一瞬だけ間を置いてから答えた。

 

「……どうぞ」

 

 老人はジャケットのポケットから、太く立派な葉巻を取り出した。


 シガーカッターで吸い口を切り落とし、長いマッチを擦る。シュッ、という音と共に、赤い炎が暗い店内に揺らめいた。


 老人は葉巻をくわえ、先端に炎を近づけながら、ゆっくりと深く息を吸い込む。


 ぼわっ、と分厚い煙が立ち上り、老人の顔の周囲を青白く包み込んだ。

 

 私は、思わず息を止めた。私はタバコの匂いが大の苦手だった。ましてや葉巻となれば、その匂いの強烈さはタバコの比ではないはずだ。密室に近いこのバーの空間に、重たくむせ返るような煙の匂いが充満するのを覚悟した。

 

 しかし。

 

 匂いが、しない。

 

 青白い煙は、確実に老人の口から吐き出され、カウンターの照明を霞ませるほどに空間を満たしている。


 なのに、香りが全くしないのだ。


 何一つ私の鼻腔を刺激しない。ただ、視覚情報としての「煙」だけが、無臭のまま宙を舞っている。

 

 五感が、完全にバグを起こしていた。見えているのに、匂わない。飲んでいるのに、減らない。

 

 老人は、紫煙の中で深く目を閉じ、手帳に書かれた文字を味わうように沈思黙考していた。


 やがて。


 彼は不意にカッと目を見開き、まるで長年の謎が解けたような、深く満足げな表情を浮かべた。

 

 バタン、と手帳を閉じる。万年筆をポケットにしまい、老人は無言のまま、ゆっくりと立ち上がった。

 

 そして、入り口に向かって歩き出そうとした、その瞬間。

 

 老人の輪郭が、ブレた。

 

 ツイードのジャケットの肩のラインが、真っ白な髪が、巨大な背中が、空間の中にじわじわと滲んでいく。


 私は声も出せず、その光景を見つめていた。


 老人の姿は、葉巻の青白い煙だけを残して、完全に虚空へと溶けて消えてしまった。


 ドアベルは、一度も鳴らなかった。

 

 外からの雨の轟音が、再び耳に戻ってくる。

 

 私は、心臓が早鐘を打つのを感じながら、月乃さんを見た。


 月乃さんは、老人が消えた空間を特に感慨深げでもなく見つめ、手元のダスターで、水滴一つ落ちていないカウンターを静かに拭き始めた。

 

「……月乃さん、今の」

 

 私がかすれた声で絞り出すと、月乃さんは手を止めることなく、平坦な声で言った。

 

「ああいうのもたまに来るんだよね、ここ」

 

 さも、「今日は珍しく外国人の観光客が来た」くらいのテンションだった。


 月乃さんは、老人が座っていた席の前に残された、表面張力ギリギリまで満たされたままのカクテルグラスに手を伸ばした。


 一口も減っていない、シロップ抜きのダイキリ。

 

 月乃さんはそれをひょいと持ち上げると、何を思ったのか、自らの口元に運び、少しだけ口に含んだ。

 

 いつもは鉄仮面のように表情を崩さない月乃さんの顔が、かつて見たことがないほど派手に歪む。

 

「きっつ……!消毒液じゃんこれ……」

 

 月乃さんは顔をしかめ、舌を出して手で仰ぐような仕草をした。普段のクールな彼女からは想像もつかないリアクションに、私は張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、思わず吹き出してしまった。

 

「ふふっ……なんですか、それ」

 

「いや、言われた通りに作ったけどさ。砂糖なしでラムのダブルなんて、人間の飲むもんじゃないよ。バカ舌にも程がある」

 

 月乃さんは心底嫌そうに顔をしかめながら、残ったダイキリをシンクへと流した。


 アルコールの強烈な匂いが、一瞬だけふわりと漂い、すぐに消えた。

 

 私は、何も聞かなかった。


 あの老人が何者だったのか。なぜ濡れていなかったのか。どこへ消えたのか。そして、この店が一体、どんな境界線の上に建っているのかも。

 

 世の中には、理屈では説明できないことがある。


 夜の底、雨に閉ざされたこの小さなバーには、時折帰る場所を見失った幽霊たちが、魂の渇きを潤すために迷い込んでくるのかもしれない。


 ここはそういう場所なのだ。


 ルールに縛られ、息苦しさに耐えかねて逃げ出してきた私を受け入れてくれたように、彼らのような存在もまた、ただ受け入れて、黙って酒を出す。

 

 私は再びグラスを磨き始めた。

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