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第三章「アレキサンダー」

 『メランコリア』の店内は今日も静かなジャズの旋律と、氷がグラスに当たる心地よい音が満ちている。


 木曜日の二十二時。ドアベルが控えめに鳴り、常連の女性客が姿を見せた。


 いつも仕立ての良いスーツを着て、背筋を伸ばし、ギムレットを二杯だけ飲んでいく四十代の女性。離婚したばかりだと聞いていたが、彼女の佇まいにはどこか凛とした強さがあった。


 だが、今日の彼女は違った。


 カウンターに座るなり、深く、すべてを吐き出すような重いため息をついた。メイクはどこか崩れ、いつもは隙のないスーツの肩のラインが、ひどく落ち込んでいるように見えた。


 離婚以外にも、仕事や人間関係で何か彼女の心を折るような出来事があったのだろうか。


「いらっしゃいませ」


 私が小さくおしぼりを出すと、彼女は力なく微笑み返した。


「マスター。今日は……甘いものを」


 彼女が月乃さんを見上げて言った。その声は消え入りそうで、今にも泣きそうな顔をしていた。


「何でもいいから。ひたすらに甘いものをちょうだい」


 いつも辛口のギムレットを頼む彼女からの、初めての注文に月乃さんはグラスを磨く手を止め、静かに彼女を見た。


「かしこまりました」


 その声が店内に落ちた直後だった。


 月乃さんの纏う空気が、一瞬にして変わった。


 いつもは感情の波を一切立てない、凪いだ海のような彼女の動きに、突如として鮮やかな熱が宿る。


 月乃さんはブランデー、カカオリキュール、そして生クリームのボトルを流れるような動作で取り出した。


 カチャリ、と金属製のシェイカーを手にしたかと思うと、次の瞬間、彼女の指先から魔法が放たれた。


 シェイカーが宙を舞い、美しい弧を描いてもう片方の手の中にすっぽりと収まる。


「え……?」


 私は息を呑んだ。


 フレアバーテンディング。ボトルやシェイカーを空中に放り投げたり、回したりしながらカクテルを作る、曲芸のようなパフォーマンス。月乃さんがそんな技術を持っているなんて、ただの一度も聞いたことがなかった。


 照明の鈍い光を受け、氷が宙を舞う。


 ボトルが手首のスナップだけで回転し、正確に液体が注がれていく。無駄な動きが一切なく、まるで精密な時計の歯車が噛み合うような、美。


 金髪が揺れ、切長な瞳が鋭くグラスの縁を見つめている。


 やばい。惚れそう。


 私はカウンターの隅で、完全に目を奪われていた。同性であることすら忘れてしまうほどの、絶対的な格好良さ。


 すべての材料がシェイカーに収まり、月乃さんがそれを胸の前で構える。


 シャカ、シャカ、といういつもの音とは違う。


 タタタタッ、というリズミカルで力強い、それでいて柔らかい響き。生クリームを空気と十分に馴染ませるための、激しくも繊細なシェイク。


 やがて、優美なシルエットのカクテルグラスに、きめ細かな泡をふわりと乗せた淡いクリーム色の液体が注がれる。


「アレキサンダーです」


 月乃さんは何事もなかったかのように、いつも通りの静かなトーンで、グラスを女性客の前にそっと置いた。


 店内にスイーツのような、カカオと生クリームの甘く芳醇な香りがふわりと漂う。


 女性客は、宙を舞うボトルと氷の軌跡に完全に目を奪われ、先ほどまでの沈んだ表情を忘れたように目を丸くしていた。


 彼女は震える手でグラスの脚を掴み、口に含んだ。


「……美味しい」


 その一言とともに、彼女の目尻からポロリと涙がこぼれ落ちた。


「こんなに美味しいお酒、初めて飲んだわ。……それに、あんな凄いもの見せられたら、落ち込んでるのがバカバカしくなっちゃった」


 彼女は涙をハンカチで拭いながら、ふふっ、と笑い声を漏らした。


 それから彼女は、グラスの中のアレキサンダーを時間をかけて大切に飲み干し、「ありがとう、また来週ね」と、入ってきた時とは見違えるほど真っ直ぐな背筋で、店を後にした。


 午前三時を過ぎた街は、深い海の底のように静まり返っていた。


「月乃さん、さっきの技、凄かったです。ボトル回したりするやつ」


 閉店作業を終え、私と月乃さんは近くのコンビニへ向かって歩いていた。冷たい空気が、火照った身体に心地よい。


「ああ、フレア? 昔ちょっと囓ってただけで、今はもう全然。ああ言うお客さんにしかやらないよ」


 月乃さんはポケットに両手を突っ込みながら、気だるそうに答えた。


 コンビニの自動ドアが開き、白々しい蛍光灯の光が私たちを包み込む。


「私、チキン買おうかな……」


 深夜のジャンクフードへの誘惑に負け、私がレジ横の保温ケースを覗き込もうとした瞬間だった。


「ちょっと待って」


 月乃さんの声が、突如として真剣みを帯びた。


「どうしたんですか?」


「今の時間は危険なの」


 月乃さんは保温ケースの中の唐揚げ棒やアメリカンドッグを、まるで時限爆弾の解体作業でもするかのような鋭い目つきで観察し始めた。


「……危険?」


「いい? 深夜三時のホットスナックは、作られてから何時間も経過して、衣のサクサク感が完全に死に絶えている可能性が高い。特にあのフライドチキン、照明の反射具合から見て、油が完全に酸化してる。買うなら、さっき補充されたばかりの肉まんか、密閉されているアメリカンドッグの二択。いや、アメリカンドッグも串の根元の油の滲み方を見ると……」


「……」


 私は呆気にとられて月乃さんを見ていた。


 普段は無口で、何を考えているのか分からないクールなバーテンダーが、コンビニのホットスナックに対して異常なまでの執着と分析力を発揮している。


「月乃さん、ホットスナック、好きなんですか……?」


「好きというか、妥協ができないだけ」


 月乃さんは真顔のまま言い切り、結局、一番状態が良いと判断した肉まんを二つ買った。


 深夜のコンビニの前、二人で肉まんを頬張る。


「熱っ」


 私がハフハフと息を吐きながら言うと、月乃さんは「正解でしょ」と、少しだけ得意げに笑った。


 その顔を見て、私はふと、自分の心がひどく軽くなっていることに気がついた。


 数週間前、百貨店を辞めて自室に引きこもっていた時は、このコンビニの光すらも私を責め立てているように感じていた。社会からこぼれ落ちた自分には、生きる価値などないと本気で思っていた。


 けれど今は違う。


 今日、あの女性客が笑顔で帰っていった時の光景。月乃さんが見せてくれたフレア。そして今、こうして深夜にホットスナックについて真剣に語り合う、他愛のない時間。


 私には「働くのが怖くない日」がある。


「いらっしゃいませ」と機械的に笑わなくても、怒られない場所。私のままでいていい場所。それが、どれほど私を救っているか。


 翌日の昼。


 枕元のスマートフォンが、短い振動を繰り返している。画面に表示された文字を見て、私の胸がキュッと締め付けられた。


『瑠依』


 退職してからずっと、彼女からの連絡は無視し続けていた。「元気?」「ちゃんと食べてる?」という優しい言葉の数々が、私の劣等感を抉り、完璧な姉と比較してしまう惨めな自分を浮き彫りにするからだ。


 けれど、なぜか今日は、この電話に出なければいけないような気がした。


 通話ボタンをスワイプして、耳に当てる。


「……もしもし」


『あ、燈? よかった、やっと出た』


 電話越しに聞こえる瑠依の声は、相変わらず透き通っていて、テレビから流れてくるのと全く同じ、明るく美しい響きを持っていた。


『なんで急に電話なんてしたの』


 私はなるべく感情を消した、平坦な声を作った。


『だって返信無いし……。仕事辞めたって聞いたけど、大丈夫?』


『……別に。今は、ちょっとアルバイトしてるから。夜の仕事だけど』


 あえて「夜の仕事」と、誤解を招きかねない言い方をした。優等生で完璧な姉に対する、私なりの小さな抵抗だった。


 しかし瑠依は動じることなく、ただ静かに言った。


『そっか。無理しないでね。燈が元気なら、私はそれでいいから』


『……してないよ。無理なんて』


『うん。じゃあ、またね』


 通話が切れ、部屋の中に静寂が戻った。私はスマートフォンを握りしめたまま、ベッドの上に座り込んでいた。


 無理なんてしてない。そう強がった自分の声が、部屋の空気に虚しく反響している。


 私は、姉のことが嫌いなわけじゃない。彼女はいつだって私を心配し、無条件の愛を向けてくれている。分かっているのに、私はそれを素直に受け取ることができない。


「できる姉」と「できない妹」。


 ポタッ、と、スマートフォンの画面に水滴が落ちた。


 私は泣いていた。嫌いじゃない。ただ、上手くできないのだ。自分を愛することも、他人の優しさを素直に受け取ることも。


 その日の夜。私は気分を変えたくて、いつもより少し早く『メランコリア』に出勤した。


「おはようございます」


 まだ誰もいない静かな店内。月乃さんはバックヤードで在庫の確認をしているようだった。


 私はエプロンを身につけ、カウンターの内側に入って、ダスターで拭き掃除を始めた。


 ふと、レジスターの横にある小さな引き出しが、半開きになっていることに気がついた。いつもはきっちりと閉まっている場所なのに。


 閉めようとして手を伸ばした私の視界に、一枚の小さな紙切れが飛び込んできた。


 引き出しの中に無造作に放り込まれた、古い名刺だった。端が少し折れ曲がり、色褪せたその名刺には、見覚えのあるロゴマークが印刷されている。


『東央証券株式会社』


 誰もが知る、超大手の証券会社だ。


 そして、その中央には、はっきりとしたゴシック体でこう印字されていた。


『第一営業部 九条月乃』


 私は息を呑み、その名刺を凝視した。


 東央証券。あんなエリート中のエリートが集まる企業で、月乃さんは働いていたのか。


 なぜ、彼女はそんな誰もが羨むような経歴を捨てて、この路地裏の小さなバーで生きているのだろうか。


 彼女にも、逃げ出さなければならない理由があったのだろうか。


 聞きたい。でも、聞いてはいけない気がした。


 私が名刺から目を逸らし、引き出しをそっと閉めた、その時だった。


「……見ちゃった?」


 背後から、静かな声が降ってきた。


 振り返ると、バックヤードから出てきた月乃さんが、腕を組みながら壁に寄りかかっていた。


「あ……すみません、掃除してたら、開いてて……」


 私は慌てて弁解した。他人の過去を覗き見してしまった罪悪感で、胸がドキドキと鳴っている。


 しかし月乃さんは、怒るでもなく、焦るでもなく、ただ薄く笑った。


「別にいいよ。もう終わったことだから」


 月乃さんはカウンターに歩み寄り、引き出しを開けて、その名刺を指先で弾いた。


「人って、向き不向きあるからさ」


 ぽつりと、彼女は言った。


「いくら周りから正解だと言われる道でも、向いてない場所にいると、少しずつ歪んで、最後には壊れるんだよ」


 その言葉は、まるで私のために用意されたもののように、私の胸の最も深い場所へとスッと落ちてきた。


 向いてない場所にいると、壊れる。


 それは、私が百貨店で働きながら、徐々に息ができなくなり、マンションの四階から飛び降りようとするまで追い詰められた、あの感覚そのものだった。


 私は月乃さんに、証券会社で何があったのかを聞かなかった。


 彼女も、私にそれ以上語ることはなかった。


 ただ、私たちは無言のまま、開店の準備を進めた。


 グラスを磨き、氷を砕き、ボトルを並べる。


 過去の経歴も、他人の評価も関係ない。ここにあるのは、ただ静かに流れる時間とお酒だけだ。


 ドアベルが鳴り、夜の時間が始まる。


 私は、愛想笑いではない、自然な表情で顔を上げた。


「いらっしゃいませ」


 私の声は、静かに夜の空気に溶けていった。

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