第二章「カシスソーダ」
遮光カーテンの隙間から、夕暮れの光が差し込んでいる。
午後六時。世間の人々が仕事場から家路につく時間帯に、私は重たいまぶたをこじ開けた。
かつて百貨店に勤めていた頃は毎朝六時に起き、完璧なメイクを施して満員電車に揺られていたというのに、今となっては前世の記憶のように遠い。
のろのろとベッドから這い出し、シャワーを浴びて、クローゼットの前に立つ。
今日から、あの路地裏のバー『メランコリア』でのアルバイトが始まる。制服は特になく、「白か黒の適当なシャツでいいよ」と言われていた。
ハンガーに並んだ服を眺め、結局私が手に取ったのは、BA時代に制服の下に着ていた白いシャツだった。襟元が少しだけ開いた、滑らかな生地のそれ。もう二度と袖を通すことはないと思っていたのに、結局私には、社会に出るための「正解の服」がこれしか見つけられなかった。
「メランコリア」の営業時間は、十九時から翌日の午前三時までだった。
昼間の明るい太陽の下を歩くのが怖くなってしまった今の私にとって、日が沈んでから働き、夜明け前に帰るというサイクルは理にかなっている。
従業員は、店主である月乃さんの他にフリーターのアルバイトで二名。基本的にはカウンターの中に二人立つ「ツーオペ」の体制で回しているらしい。私が仕事に慣れるまでは、月乃さんと私の二人でシフトに入ることになっていた。
十九時の五分前、店の重たい木の扉を開ける。
「おはようございます」
私が緊張で声を上ずらせながら入っていくと、月乃さんはすでにカウンターの中に立ち、無言で氷を砕いていた。アイスピックが氷の塊を正確に捉え、カン、カン、と音を店内に響かせている。
「おはよう。着替え、そこのバックヤードでお願い」
促されて狭いバックヤードに入り、持参したエプロンを身につける。胸の奥で、かつてないほどの緊張が渦巻いていた。
私にとって接客業とは、分厚いマニュアルと厳しい監視の元で行われるものだった。お客様が来店された際の「いらっしゃいませ」のトーン。お辞儀の角度は三十度。両手は必ず前で交差させ、口角は常に上げ続けること。少しでもイレギュラーな対応をすれば、お局の先輩からバックヤードで理不尽な叱責が飛んでくる。それが私の知る「働くこと」のすべてだった。
だから、カウンターの端に立ち、月乃さんに「で、私は何をすれば……接客のマニュアルとかはありますか?」と尋ねた時の返答には、耳を疑った。
「マニュアル? そんなのないよ。適当にグラス下げて、水出してくれればいい」
「適当、ですか……?」
「うん。あと、無理に喋らなくていいから。静かに飲みたい人多いし」
それだけ言うと、月乃さんは再びグラスを磨き始めた。
本当にそれだけだった。いつ「いらっしゃいませ」を言うべきか、どういう笑顔を作るべきか、何一つ指示がない。大海原にコンパスも持たず放り出されたような不安に駆られ、私はカウンターの隅でガチガチに身を固めていた。
十九時半を回った頃、カラン、とドアベルが静かに鳴った。
初日の最初の客だった。
「いらっしゃいませ!」
私は反射的に、百貨店時代に叩き込まれたワントーン高い声で、完璧な三十度のお辞儀をした。
入ってきたのは、私と同じか、少し年下くらいの若い青年だった。細身の体に、黒いゆったりとしたカーディガンを羽織っている。彼は私の過剰な挨拶に少しだけ驚いたように目を丸くしたが、何も言わずにカウンターの隅、私の対角線上の席に腰を下ろした。
月乃さんは「いらっしゃいませ」とは言わず、ただ軽く顎を引いて会釈しただけだった。
「ウーロン茶お願いします」
青年はメニューを見ることもなく、短くそう告げた。
月乃さんが氷を入れたグラスにウーロン茶を注ぎ、コースターの上に置く。青年はカバンから古い文庫本を取り出し、無言でページをめくり始めた。
私は戸惑いながら、その横顔を盗み見た。
……え、バーに来て、ウーロン茶だけ?
メニュー表をこっそり確認すると、ウーロン茶は一杯五百円と書かれていた。コンビニで買えば百数十円のウーロン茶に、五百円。
しかもお酒の席の付き合いというわけでもなく、一人で来ている。私のようなギリギリの生活をしている人間からすれば、全く理解できない金銭感覚だった。
彼はその後、一時間ほどかけてウーロン茶の氷を溶かしながら本を読み、きっちり五百円玉を一枚カウンターに置いて帰っていった。
月乃さんは「またね」とだけ言い、青年も小さく頷いた。それが、藤代蒼という青年との初めての出会いだった。
初日の勤務を終え、賄いの代わりだというサンドイッチを包んでもらって店を出たのは、午前三時半だった。
誰も歩いていない静かな道路を歩きながら、ふと、私は自分の顔に手を当てた。
痛くない。
百貨店で働いていた頃は、仕事が終わるといつも頬の筋肉が強張って、ピクピクと痙攣するほど痛かった。一日中、他人の機嫌を取るために無理やり口角を引き上げ続けていた代償だ。
けれど今日は、顔の筋肉が全く疲れていない。
私は今日、一度も愛想笑いをしなかったのだと気づいた。
蒼くんに対しても、その後やってきた数人の客に対しても、私はただグラスを下げ、おしぼりを出し、最低限の言葉しか交わさなかった。月乃さんも、私の接客を咎めることは一度もなかった。
怒られないのに、なぜか落ち着かない。けれど、決して不快ではなかった。むしろ、鎧を脱ぎ捨てたような奇妙な身軽さが、私の足取りを少しだけ軽くしていた。
それから、私は少しずつ『メランコリア』の空気に馴染んでいった。
常連客たちの顔と好みを、少しずつ覚え始める。
毎週木曜日の二十二時きっかりに来店する、四十代くらいの女性客。彼女はいつも仕立ての良いスーツを着て、一人でギムレットを二杯だけ飲んで帰っていく。月乃さんによれば、最近離婚したばかりらしい。彼女は私に「若いっていいわね」と自嘲気味に笑いかけ、私はどう返していいか分からず、ただ小さく頭を下げる。
そして、私が内心最も苦手にしている客。
週末になると現れる、仕立ての良いジャケットを着た金持ちそうな五十代の男。彼は、来店するたびに隣に連れている女性が違うのだ。香水の匂いがきついキャバクラ嬢のような女性の時もあれば、女子大生のような若い女の子の時もある。
彼はカウンターに座るなり、女性に語り始める。
「ここの酒はね、他とは氷が違うんだよ。ね、お嬢ちゃん?」
私にまで同意を求めてくるその男の顔を見るたびに、私は心の奥底で舌打ちをしていた。私は反射的に「そうですね、こだわってますから」と、完璧な愛想笑いを浮かべて同意してしまうのだ。
そして、藤代蒼は、二日に一回のペースで現れた。
彼は相変わらずメニューを見ず、「ウーロン茶お願いします」とだけ頼み、文庫本を開く。
私はカウンターの端から、グラスを磨きながら彼の様子を観察していた。
蒼くんの視線は、本に落ちている時間が長いが、時折、ページをめくる手を止めて、カウンターの中で酒を作る月乃さんの横顔をじっと見つめていることがあった。
私は心の中で、一人で勝手に合点がいっていた。
なるほど、そういうことか。綺麗だもんなぁ、月乃さん。
バーテンダーに恋をする若い常連客。
そう思えば、一杯五百円のウーロン茶で何時間も粘る彼の行動にも説明がつくような気がした。
そんなある夜のことだった。
その日は金曜日の深夜ということもあり、珍しく店内が騒がしかった。
問題だったのは、カウンター席に陣取った三人組のサラリーマンだった。彼らはすでに別の店でかなり飲んできたようで、ネクタイを緩め、大きな声で管を巻いていた。
「おい、お姉ちゃん! こっちの水、なくなってんだけど!」
乱暴な声に呼ばれ、私はビクッと肩を震わせた。百貨店時代の、クレーマーの客と重なる。
「申し訳ございません、すぐにお持ちします!」
私は顔に「正解の笑顔」を急いで貼り付け、ピッチャーを持って席へ向かった。
「お姉ちゃん、可愛いねえ。学生? 彼氏いるの?」
アルコールの臭い息を吐きながら、一番年配の男が絡んでくる。
「いえ、社会人で……彼氏はいないです」
「えー、もったいない! 俺が若かったら立候補するのになぁ!」
笑い声が響く。私は胃の奥がせり上がるような不快感に耐えながら、口角を引き上げて必死に相槌を打った。
「あはは……ありがとうございます。お褒めいただいて光栄です」
「ここ、静かすぎてさぁ。もっと明るい音楽とか流せないの? マスターに言ってみてよ」
「申し訳ございません、お店の雰囲気としてジャズをかけさせていただいておりまして……」
私の態度は、かえって彼らの欲求を刺激したようだった。執拗なダル絡み、何度も呼ばれる注文、そしてその度に私が繰り出す過剰な謝罪と愛想笑い。
私はいつの間にか、ビューティーアドバイザー時代に自分を守るために使っていた「他人に媚びる自分」を完全に引っ張り出していた。
相手を怒らせないためなら、自分のプライドなど泥水に放り込んでも構わない。そうやってその場をやり過ごすことだけが、私の身を守る唯一の手段。
彼らがようやく店を出て行ったのは、閉店一時間前の午前二時だった。
扉が閉まった瞬間、私の中で張っていた糸がプツリと切れ、私はバックヤードの入り口の壁にズルズルと寄りかかって座り込んでしまった。
酷い疲労感だった。肉体的な疲れではなく、精神をヤスリで削り取られたような消耗感。
顔の筋肉が、引きつって痛い。私はまた、やってしまったのだ。自分を殺して、相手の望む「感じの良い店員」を演じきってしまった。
静かになった店内に、カチャッ、とグラスを置く音が響いた。
顔を上げると、カウンターの中から月乃さんが私を見下ろしていた。
「黒田さん。こっち来て」
静かな声だった。私は叱られるのだと思った。
「あんな安っぽい接客をするな」「店の雰囲気を壊すな」と。
鉛のように重い体を引きずってカウンターに戻る。
月乃さんは無言で、私の目の前にグラスを滑らせた。
中には、鮮やかなルビー色の液体が注がれ、炭酸の気泡がチリチリとはじけている。
「……これ、なんですか?」
「カシスソーダ。まかない」
「でも、私、お酒は……」
「ノンアルで作ってるから飲めるよ。カシスシロップと、ソーダだけ」
私は戸惑いながらグラスを手に取り、一口飲んだ。
カシスの甘酸っぱい香りが鼻腔を抜け、ソーダの弾ける刺激が、疲労で麻痺した舌を心地よく叩いた。甘さが、枯渇していた身体の細胞一つ一つに染み渡っていく。
「……美味しい」
自然と声が漏れた。その言葉には、一切の愛想も嘘も含まれていなかった。
月乃さんはカウンターを布巾で拭きながら、手元に視線を落としたまま静かに言った。
「今日一日、良い顔してたよ」
予想外の言葉に、私は目を見開いた。
「でもね」
月乃さんの手が止まり、その切長で透明な瞳が、まっすぐに私を射抜いた。
「全員に好かれようとしなくていい。辛いでしょ」
彼女は見ていたのだ。私が、嫌な客に対しても必死にへりくだり、自分の心をすり減らしながら愛想笑いを振りまいていたことを。
「だって……」
私は無意識のうちに、反発する言葉を口にしていた。
「接客業って、そういうものじゃないんですか? お客様を不快にさせないように、笑顔を作って……」
言いかけて、私はハッと口をつぐんだ。
そうだ。私はもう、BAじゃない。
笑顔を作らなければ怒られる場所から、逃げ出してきたはずなのに。私はまだ、目に見えないマニュアルに縛られ、他人の評価という呪いの中で生きている。自ら進んで、首輪をはめに行っているのだ。
月乃さんはそれ以上何も言わなかった。
私の反発にも、言いよどんだ言葉にも、説教を重ねることはしなかった。
ただ、残りのグラスを拭き終えると、静かに照明を落とした。
「あがろうか。お疲れ様」
その背中を見つめながら、私は残りのカシスソーダを飲み干した。
酸っぱいけれど、甘い。
明日もまた、私は愛想笑いをしてしまうのだろうか。
答えの出ない問いを抱えたまま、私は深く、甘やかな夜の底に沈んでいくのを感じていた。




