第5話 帝国は、アルヴェントを呑まぬ
帝都は、近づくほどに白く見えた。
城壁も、塔も、橋も、朝の光を受けて白く沈んでいる。大国の中心は、遠目には清潔で、揺るぎなく、美しかった。
近づけば、違う。
城門の前には荷馬車が詰まり、商人たちが声を荒げている。帝国東部商会連合の旗をつけた使いが走り、役人は紙束を抱え、兵士は通行列を捌ききれずに苛立っていた。
一本目を折ると、音は遅れて届くらしい。
「騒がしいのう」
曽祖父様が馬車の窓から外を見た。
「あなたが混ざったせいでもあります」
「わしはまだ何もしとらん」
「存在そのものです」
「ひどい」
「事実です」
向かいでレオンが書類を整えている。
その手はいつも通りだった。揺れる馬車の中でも、紙の角がずれない。封書、帳面、写し、通達、そして、オルブラン侯爵を乗せた二台目の馬車についての控え。
「侯爵は?」
「後ろの馬車に。逃げる様子はありません」
「逃げられないだけでしょう」
「それも含めて、逃げる様子はありません」
私は頷いた。
オルブラン侯爵は折れたわけではない。だが、もう一人で立ってはいない。守旧派から照会を受け、財務院にも写しが届き、旧皇族の紋を見てしまった。
帝国貴族は、見なかったことにできるものと、できないものを知っている。
だから貴族なのだ。
「まず財務院か」
曽祖父様が言った。
「財務院、貴族院、皇宮。三つを別々に回る時間はありません」
「では?」
「一か所に揃えます」
「乱暴じゃな」
「今さらです」
レオンが静かに言った。
「貴族院が緊急照会を出せば、財務院は無視できません。財務院が商会を呼べば、宮廷書記官も来る。そこまで揃えば、皇宮も聞いていないふりはできません」
「なるほど」
曽祖父様が、にやりと笑う。
「悪い従者じゃ」
私は窓の外を見た。
帝都の奥に、皇宮の尖塔が見える。
あそこに、ヴァルター皇帝がいる。
ヴィクトールが消えた後、担ぎ上げられた家の末裔。無能な皇帝ではない。むしろ、強い皇帝だ。ラグナディアを大国としてまとめ、交易を押さえ、周辺国へ傘を広げ、帝国を帝国として立たせてきた。
けれど、その玉座の下には、埋めたはずの空白がある。
私はその空白を、今から掘り返しに行く。
皇宮前の議事塔には、正午前に着いた。
宮殿に隣接する白石造りの塔で、財務院の高官、貴族院の代表、宮廷書記官が集まる場所だった。
レティシア・エルディアが帝都に入った。
ヴィクトール・エルディアが姿を現した。
オルブラン侯爵が連れてこられた。
三つの報せは、私たちより先に届いていたらしい。
議事室には、すでに人が揃っていた。
財務院の長官。帝国東部商会連合の代表。守旧派の老貴族たち。宮廷書記官。オルブラン侯爵家の関係者。そして、私たちより少し遅れて連れてこられたオルブラン侯爵。
部屋の奥には、空席がひとつあった。
皇帝のための席だ。
「陛下は?」
私は訊いた。
宮廷書記官が硬い声で答える。
「ヴァルター陛下は、この件を重大視されています」
「では、いらっしゃるのですね」
「必要があれば」
「必要です」
私が言うと、部屋の空気が揺れた。
財務院長官が眉を寄せる。
「エルディア公爵令嬢。ここは帝都です。アルヴェントの貴族が、ラグナディア皇帝に出席を命じる場ではない」
「ええ」
私は頷いた。
「ですから、命じていません。必要だと申し上げています」
「何が必要だと」
「玉座の話です」
その一言で、守旧派の老貴族たちがこちらを見た。
彼らは、騒がない。
財務院の者たちのように苛立たず、商会の者たちのように怯えず、宮廷書記官のように虚勢も張らない。
ただ、見ていた。
待つことに慣れた者の目だった。
「まず、港湾使用権の覚書について」
レオンが封書を出した。
宮廷書記官が受け取ろうとする。
「開封は、立会いのもとで」
私は言った。
「財務院、貴族院、宮廷書記官、そしてオルブラン侯爵本人。皆様の前で」
オルブラン侯爵は何も言わない。
言えないのではない。言わないことで、まだ何かを守ろうとしている。
それなら、それも取り上げる。
封蝋が割られた。
紙が開かれる。
宮廷書記官の目が、文字を追う。
財務院長官が横から覗き込み、東部商会連合の代表の顔が青くなり、守旧派の老貴族たちは、ただ黙っている。
「読み上げなさい」
私は言った。
書記官がこちらを見る。
「公爵令嬢」
「読み上げなさい。これは、私の国の港についての書類です」
沈黙のあと、書記官が読み上げた。
アルヴェント王太子ユリウス・ベルクラインと、エレノア・ヴェルナーの婚姻成立後三年以内に、アルヴェント南方港の使用権を、ラグナディア帝国系商会へ優先的に移すこと。
港湾倉庫の管理権を、帝国系商会へ委託すること。
王家間の融和政策の一環として、過去の関税上の摩擦を不問とすること。
読むほどに、部屋の温度が下がった。
「保護ですか」
私は財務院長官に訊いた。
長官は答えない。
「融和ですか」
東部商会連合の代表にも訊いた。
答えない。
「それとも、首輪ですか」
オルブラン侯爵が、低く言った。
「言葉を飾るのは勝者の仕事だ」
「では、今は私の仕事ですわね」
侯爵は、こちらを睨んだ。
だが、その目に今朝までの余裕はない。
「この覚書は、正式な条約ではない」
財務院長官が言った。
「準備文書にすぎん。帝国として承認したものではない」
「では、破棄なさい」
「それは」
「できないのでしょう?」
私は静かに言った。
「皇宮の承認があるから」
財務院長官の口が閉じる。
宮廷書記官の目がわずかに揺れた。
守旧派の老貴族のひとりが、初めて口を開いた。
「その婚姻をもって、アルヴェントの独立を実質的に帝国の管理下へ移す。そういう理解でよいか」
「違う」
宮廷書記官が答えた。
「これは国境安定のための経済協定であり――」
「言い方は聞いておらん」
老貴族は、淡々と言った。
「理解を訊いている」
部屋が静まった。
私は、その老貴族を見た。
年齢は七十を越えているだろう。細い体に古い礼服をまとい、胸元には擦り減った銀の勲章がある。
現皇家より古いものを知っている顔だった。
「貴族院の守旧派でいらっしゃいますね。お名前を伺っても?」
「アルゼン・ロウ」
老貴族は言った。
「祖父が、ヴィクトール殿下の馬の世話をしておりました」
「馬か」
曽祖父様が嬉しそうに言った。
「ロウの家か。おぬしの祖父は、よく噛まれておった」
「殿下の馬が荒かったのです」
「乗り手に似たのじゃ」
「でしょうな」
老人同士が、ほんの一瞬だけ笑った。
だが、その笑いには懐かしさよりも重さがあった。
宮廷書記官が声を張る。
「古い思い出で、現在の帝国政策を乱されては困る」
「その政策が、古い誓書に触れている」
ロウ卿は言った。
「そこが問題だ」
「古い誓書、か」
曽祖父様が、懐に手を入れた。
「では、ちょうどよい。返してもらったものがある」
黒い封蝋のついた筒が、曽祖父様の手に現れた。
私は、その筒を見た瞬間に察した。
「曽祖父様」
「なんじゃ」
「それを、どこから返してもらったのですか」
曽祖父様は、にやりと笑った。
やはり。
レオンが、ほんの少しだけ目を伏せた。
やはり、知っていた顔だ。
「王城の地下庫じゃ」
「盗んだのですね」
「返してもらったと言った」
「どうやって」
「あの地下庫は、わしが若い頃に作らせた」
「だから持ち出してよい理由にはなりません」
「返してもらっただけじゃからな」
「同じです」
「違う」
曽祖父様は楽しそうに笑った。
だが、議事室の誰も笑わなかった。
黒い封蝋の筒が卓上へ置かれる。
その音は、小さかった。小さいのに、重かった。
誰も咳をしない。誰も椅子を鳴らさない。
黒い封蝋。
王城の地下庫に眠っていたはずのもの。
アルヴェント王家が、預かっていたはずのもの。
「それは、アルヴェントのものだ」
宮廷書記官が言った。
「違う」
ロウ卿が言った。
「三者のものだ」
財務院長官が、唇を湿らせる。
「三者?」
「アルヴェント。ラグナディア。そして、ヴィクトール殿下の血筋」
ロウ卿は、私を見た。
「そうでございましょう、エルディア公爵令嬢」
「ええ」
私は頷いた。
「黒い封蝋の誓書は、アルヴェントだけの秘密ではありません。ラグナディアも署名している」
宮廷書記官が立ち上がる。
「そのような文書を、ここで開くことは許されない」
「では、どこで開けばよろしいのですか」
「皇帝陛下の御前だ」
「なら」
私は扉のほうを見た。
「ちょうどよいですわ」
扉の外から、低い声がした。
「開けよ」
返事を待つ前に、扉が開いた。
ラグナディア皇帝、ヴァルター。
濃い灰色の外套をまとい、護衛を連れずに入ってきた。年は五十を過ぎているはずだが、背は高く、肩は落ちていない。顔には深い皺がある。疲れた君主の皺ではない。何度も勝ってきた者が、それでも拭えなかったものを刻んだ皺だ。
部屋の全員が立ち上がる。
曽祖父様だけが座ったままだった。
「座れと言われる前に座っておるぞ」
曽祖父様が言った。
「殿下」
ヴァルター皇帝は、低く言った。
「その呼び方はやめよ」
曽祖父様は、つまらなそうに手を振った。
「捨てた名じゃ。おぬしらが埋めた名でもある」
ヴァルター皇帝の目が、わずかに細くなる。
「ヴィクトール」
「それでよい」
曽祖父様は、黒い封蝋を指で叩いた。
「だが、拾ったものを自分のものだと思い始めると、話が変わる」
ヴァルター皇帝の視線が、私へ移った。
その目は、鋭かった。
怒りではない。
警戒でもない。
見覚えのあるものを、見たくないのに見てしまった目だった。
「レティシア・エルディア」
「はい」
「婚約を破棄された腹いせに、帝国を揺らしに来たか」
「いいえ」
私は礼をした。
「婚約を破棄されたので、黙る理由を失いました」
皇帝の目が細くなる。
「同じことだ」
「違います」
「どう違う」
「腹いせなら、王太子殿下を泣かせに戻っています」
部屋の空気が、ほんの少し揺れた。
曽祖父様だけが、楽しそうに笑った。
「では、何をしに来た」
ヴァルター皇帝が訊いた。
「取り立てに」
「何を」
「沈黙の代金を」
私は、黒い封蝋の筒を見た。
「この誓書は、ラグナディア帝国がアルヴェントの独立を認める代わりに、ヴィクトールの血筋が沈黙することを定めたものです。その血を、今はエルディア家が継いでおります」
宮廷書記官が何か言おうとした。
ヴァルター皇帝が手を上げる。
止めた。
「続けよ」
「ベルクライン家は、アルヴェント王冠を預かる。エルディア家は、建国の真相と皇位への請求を沈黙する。ラグナディアは、アルヴェントの独立を侵さない」
私は一息置いた。
「ただし、ラグナディアがアルヴェントの独立を侵す場合、その沈黙と承認は失効する」
静寂。
それは、書類を読んだ時の静けさではなかった。
墓を開けた時の静けさだった。
「婚姻による港湾使用権の移譲、関税所による商流支配、穀物倉と鉄輸送への干渉。これを保護と呼ぶか、侵害と呼ぶか。私は後者と判断しました」
財務院長官が、かすれた声で言った。
「帝国は、アルヴェントを侵略していない」
「軍を出していない、という意味なら」
私は答えた。
「ええ。出していません」
私は覚書を指した。
「ただ、婚礼の皿に隠して港を取りに来た」
曽祖父様が、満足そうに頷く。
「それを、わしはさっき言うた」
「黙っていてください」
ヴァルター皇帝は、私を見ていた。
長い沈黙だった。
その沈黙の中で、守旧派の老貴族たちは動かない。財務院長官は汗を拭う。東部商会連合の代表は、書類を抱える手を震わせている。オルブラン侯爵は、顔から血の気を失っていた。
皇帝だけが、まっすぐ立っていた。
「それで」
ヴァルター皇帝が言った。
「何を望む」
「ラグナディア帝国は、アルヴェント王国への婚姻干渉、関税操作、港湾使用権取得計画をすべて撤回すること」
「続けよ」
「オルブラン侯爵家、および関係商会の計画関与を財務院で調査すること」
「続けよ」
「黒い封蝋の誓書を再承認し、今後、ラグナディア帝国がアルヴェントの独立を侵さないこと」
ヴァルター皇帝の口元が、わずかに動いた。
「小国の公爵令嬢が、帝国に命じるか」
「いいえ」
私は首を振った。
「誓書を守る機会を差し上げています」
ヴァルター皇帝の目が、細くなった。
「その誓書を軽んじたのは、帝国だけか」
部屋の空気が止まる。
「アルヴェント王家は、自ら帝国の傘を選ぼうとした。そなたの言う首輪を、自ら首にかけようとしたのだ。王家を折れば、そなたの国ごと揺れる」
「揺れます」
「それでもか」
「王冠が誰かの沈黙の上にあるよりは」
ヴァルター皇帝は、私を見た。
私は、見返した。
怖くないわけではない。
相手は皇帝だ。大国の君主だ。国境の関税所長でも、侯爵でもない。彼の一言で、軍も商会も貴族も動く。
けれど、私はもう黙るのをやめた。
ここで引くなら、夜会で泣いていたほうが、ずっとましだった。
「……同じ目をしている」
ヴァルター皇帝が低く言った。
私は少しだけ眉を上げる。
「曽祖父様と、ですか」
「違う」
皇帝は言った。
「あれより悪い」
「失礼ですわね」
「ヴィクトールは、国を作るために壊した。玉座を捨てるために、国境を焼いた。自分の欲しいものだけを持って逃げた男だ」
「否定しづらいのう」
曽祖父様が言った。
「黙っていてください」
「はい」
ヴァルター皇帝は、なおも私を見ている。
「お前は違う。玉座を欲しがっていない。領土も欲しがっていない。帝国を欲しがっていない」
「必要ありませんもの」
「だから悪い」
皇帝の声に、怒りよりも疲労が混ざった。
「欲しがる者は、取引できる。欲しがらぬ者は、折れるまで止まらん」
「折れるまで、ではありません」
「では、どこまでだ」
「返していただくまでです」
「何を」
「私が黙っていた理由を」
その瞬間、ヴァルター皇帝の目が変わった。
たぶん、彼は私を見ていなかった。
若い日のヴィクトールを見ていた。
玉座を捨て、国境へ向かい、好きな女と生きるために国を作った男。
そして、その男の血を引きながら、玉座も恋も欲しがらず、沈黙の代金だけを取り立てに来た女。
「国は残して差し上げます」
私は言った。
「滅ぼすのは、そちらが帝国であるために積み上げてきた嘘だけです」
ヴァルター皇帝は、しばらく黙っていた。
長い沈黙だった。
やがて、皇帝は笑った。
声は出なかった。
ただ、口元だけが歪んだ。
「ヴィクトール」
「なんじゃ」
「お前より、始末が悪い」
「じゃろうな」
曽祖父様は嬉しそうに言った。
「わしの曾孫じゃ」
「不名誉です」
私は言った。
けれど、ヴァルター皇帝はもう笑っていなかった。
皇帝が動くまで、誰も息をしなかった。
やがて、皇帝はゆっくりと片膝をついた。
私にではない。
卓上の黒い封蝋へ向かって。
帝国の玉座もまた、誰かが黙ったことで保たれていた。
議事室が凍りつく。
宮廷書記官が息を呑み、財務院長官が椅子を鳴らし、東部商会連合の代表が紙束を落とした。
守旧派の老貴族たちは、誰も動かなかった。
彼らは、長く待っていたものを見届けるように、ただ静かに皇帝を見ていた。
「ヴァルター陛下!」
宮廷書記官が叫ぶ。
「黙れ」
皇帝は言った。
静かな声だった。
それだけで、書記官は黙った。
「ラグナディア帝国皇帝ヴァルターの名において、黒い封蝋の誓書を再承認する」
皇帝は、私を見た。
「アルヴェント王国への婚姻干渉、港湾使用権取得計画、関税操作を停止する。オルブラン侯爵家および関係商会は、財務院の調査を受けよ」
オルブラン侯爵が膝をついた。
崩れた、というより、糸が切れたようだった。
「陛下」
ヴァルター皇帝は、侯爵を見ない。
「帝国は、アルヴェントを呑まぬ」
その一言で、終わった。
東部商会連合の手形は止まり、オルブラン侯爵家の名で動いていた者たちは、今日から帳面を抱えて眠れなくなる。
帝国の土地は残る。
城も、塔も、商会も、兵も、皇帝も残る。
けれど、周辺国を傘の下へ入れると言いながら首輪をかける帝国は、今ここで終わった。
少なくとも、アルヴェントに対しては。
私は礼をした。
「ご英断に感謝いたします」
「感謝していない顔だ」
「ええ」
「隠せ」
「努力します」
ヴァルター皇帝は、低く笑った。
「帰れ。アルヴェントの王家も、今ごろ震えているだろう」
「ええ」
私は微笑んだ。
「次はそちらです」
曽祖父様が杖を鳴らした。
「よいな。次はわしらの国じゃ」
「曽祖父様」
「なんじゃ」
「あなたは来ないでください」
「なぜじゃ」
「話が余計に大きくなります」
「もう大きい」
「さらにです」
「では、少しだけ行く」
「来ないでください」
私は目を閉じた。
疲れた。本当に疲れた。
レオンが、横から低く言う。
「馬車を手配します」
「お願い」
「アルヴェントへ」
「ええ」
私は、もう一度だけヴァルター皇帝を見た。
皇帝はまだ片膝をついていた。
だが、それは敗者の姿ではなかった。
玉座の重さを、ようやく自分の膝で受け止めた男の姿だった。
「レティシア・エルディア」
皇帝が言った。
「はい」
「お前が王でなくてよかった」
「私もそう思います」
「なぜだ」
「面倒ですもの」
曽祖父様が笑った。
ヴァルター皇帝も、ほんの少し笑った。
そして私は、帝国の議事塔を出た。
白い石の廊下には、朝の光がまだ残っている。だが、来た時とは違って見えた。
帝国はまだ白い。
けれど、もう無傷ではない。
その白さの下にあった古いひびを、誰も知らないふりはできなくなった。




