第4話 死んだことにされた皇子
誰も、パンに手を伸ばさない。杯を持ち上げない。
朝餐会の席順は、もう何の意味も持っていなかった。
銀の皿に朝の光だけが残り、食卓を囲んでいた帝国貴族たちは、ひとりの老人を見ていた。
ヴィクトール・エルディア。
私の曽祖父。
そして、ラグナディア帝国が長いあいだ、死んだことにしてきた皇子。
「殿下……」
オルブラン侯爵の声は、かすれていた。
「お懐かしゅうございます。ですが、そのお立場は、もう」
「もう、なんじゃ」
曽祖父様は笑った。
「わしが捨てたか。おぬしらが埋めたか。どちらの話じゃ」
侯爵の口が閉じた。
食堂の端にいた貴族たちが、わずかに身じろぎする。さっき半歩だけ侯爵から距離を取った者が、今度はもう半歩下がった。
たった一歩。
だが帝国貴族の一歩は、時に書類百枚より重い。
「曽祖父様」
私は低く呼んだ。
「何をしていらっしゃるのです」
「混ざりに来た」
「来ないでください」
「もう来た」
私は扇を閉じたまま、こめかみに当てた。
頭が痛い。
実際には痛くない。だが、こういう時のために人は頭を押さえるのだと思う。
レオンは、隣で何も言わなかった。
何も言わない時のレオンは、だいたい何か知っている。
「知っていたわね」
「屋敷の前にいらっしゃるのを見ました」
「なぜ言わなかったの」
「止められませんので」
「誰を」
「どちらもです」
曽祖父様が笑った。
「よい従者じゃのう」
「褒めないでください。調子に乗ります」
「堅いのう」
曽祖父様は、そこで初めてレオンをまともに見た。
「リゼルか。なるほど、王冠の影に立つ家の者じゃな」
「私は、エルディア家の従者です」
「知っとる。だから言うた」
帝国貴族の食卓で、死んだことにされた皇子が、曾孫とその従者まで巻き込んで好き勝手を言っている。
私は深く息を吐いた。
「侯爵」
私は視線を戻した。
「失礼いたしました。身内の問題です」
「身内、ですと」
オルブラン侯爵は、曽祖父様から目を離せないまま言った。
「その方を、身内と呼ばれるのか」
「曽祖父ですので」
「血縁の話をしているのではない」
「では、どういう意味です」
侯爵は答えなかった。
答えられるはずがない。
ラグナディアにとって、ヴィクトールという名は、血筋の名ではない。
空白の名だ。
いなかったことにして、けれど完全には消せず、現皇家が玉座に座るたび、古い貴族たちの記憶の底で軋む名。
その名が、今、朝餐会の食堂で、私にため息をつかれている。
「オルブラン」
曽祖父様が侯爵を呼んだ。
「おぬしの父は、もう少し不器用な男じゃった」
「父を、ご存じで」
「若い頃にな。嘘は下手じゃったが、借りた金は返した。おぬしは逆か」
侯爵の顔が強張る。
レオンが、そっと帳面を一枚めくった。
曽祖父様は、それを見てもいない。
「港に目が向いておる。昔から、港に手を伸ばす家は負ける」
「何を根拠に」
「わしが一度、負かしてやった」
食卓の何人かが息を呑んだ。
私は曽祖父様を見た。
「アルヴェント建国の昔話を、朝餐会でする必要はありません」
「独立の話じゃ。飯時には向いとる」
「向いていません」
曽祖父様は、少しだけ不満そうにした。
その横顔は、確かに老人だった。
だが、食堂にいる帝国貴族たちは誰も、それをただの老人として見ていなかった。
オルブラン侯爵は、私から曽祖父様へ視線を移し、また私へ戻した。
ようやく、理解した顔だった。
「エルディア公爵令嬢。まさか、あなたは」
「何でしょう」
「その方の名を使って、帝国を揺らすつもりか」
「いいえ」
私は答えた。
「曽祖父様の名など、できれば使いたくありません。面倒ですから」
「ひどい言い草じゃのう」
「事実です」
「少しは労われ」
「勝手に来た方をですか」
曽祖父様は、楽しそうに笑った。
私は侯爵を見る。
「私は、私の名で参りました。エルディア家が黙るのをやめた。それだけです」
「それだけで、守旧派が動くと?」
「動くでしょうね」
私が答える前に、曽祖父様が言った。
「まあ、あやつらは待つのが仕事じゃったからな」
侯爵の顔が曇る。
「古い貴族たちは、現皇家を支えてきた」
「そうじゃ。支えてきた。信じたからではない。倒すより、支えるほうが帝国が割れずに済んだからじゃ」
曽祖父様の声は軽い。
だが、食堂に響く重さは、さっきまでと違った。
「わしが消えた。皇統の直系はおらん。なら、別の家が玉座に座るしかない。そういう理屈で、おぬしらは玉座に座った」
「女ひとりのために、国境を動かした男の後始末を、帝国は引き受けてきたのです」
オルブラン侯爵が低く言った。
「惚れた女を軽く見るから、国境が動く」
曽祖父様は、悪びれもせずに言った。
「その代償は、もう払われたはずです」
「終わっておらん」
曽祖父様は、杖の先で床を叩いた。
乾いた音がした。
「終わったことにしただけじゃ」
その時だけ、曽祖父様は笑っていなかった。
食堂にいる者たちは、遅れてそれに気づいた。
空気が変わった。
朝餐会にいた貴族たちのうち、数人が目を伏せた。知らない話ではないのだろう。知らないふりをしてきた話なのだろう。
私も、知らないわけではない。
エルディア家の地下書庫に残る写し。王城の地下庫に眠る黒い封蝋の誓書。建国時、アルヴェントとラグナディアが互いに沈黙した理由。
だが、今ここでその全てを開くつもりはなかった。
それは、帝都中枢で使う。
ここは、オルブランを折る場所だ。
「侯爵」
私は口を挟んだ。
「話を戻しましょう」
「まだ続けるのですか」
「ええ。曽祖父様が来てしまったので、話が大きく見えますが、今朝の件は単純です」
私は食卓の封書を指した。
「あなた方は、アルヴェントを保護する名目で、港を取ろうとした。王太子殿下の婚姻を使って」
「それは」
「否定しますか」
侯爵は黙った。
今度は、「言いがかり」とは言わなかった。
曽祖父様が、つまらなそうに鼻を鳴らす。
「小さくなったものじゃな、オルブラン」
「何がです」
「昔の帝国貴族は、港を取るなら軍を出した。今は婚礼の皿に隠すのか」
侯爵の頬が引きつる。
「時代が違います」
「そうじゃな。だから負ける」
「まだ負けてはおりません」
「ほう。では、賭けるか」
「曽祖父様」
私は即座に遮った。
「賭けません」
「なぜじゃ」
「あなたが賭けると、ろくなものが残りません」
侯爵の視線が揺れた。
この老人が何者か。どれほど危険か。帝国貴族として知っている部分と、目の前の軽口が噛み合わないのだろう。
それでいい。
噛み合わないものほど、人は恐れる。
食堂の扉の外で、控えていた使者が、改めて声を上げた。
「貴族院の守旧派より、オルブラン侯爵閣下へ。至急の照会でございます」
執事が震える手で封書を受け取る。
侯爵はそれを見たまま、動かなかった。
「開けないのですか」
私は訊いた。
「……今でなくともよい」
「今がよろしいかと」
「なぜ」
「逃げ道は、早めに確かめたほうがよいからです」
侯爵は私を睨んだ。
それでも、封書を取った。
蝋を割る音が、やけに大きく響いた。
侯爵が中を見る。
読んだのは、ほんの数行のはずだった。
だが、その数行で、侯爵の指から力が抜けた。
「何が書いてあるのじゃ」
曽祖父様が覗き込もうとする。
「曽祖父様。行儀」
「今さらじゃ」
私が止める前に、レオンが静かに言った。
「おそらく、港湾使用権に関する照会です」
侯爵がレオンを見た。
その顔が答えだった。
「なぜ分かる」
「先ほど、写しを送りましたので」
「どこへ送った」
「帝都財務院と、関係する商会と、念のためいくつかの貴族家へ」
「貴族家、だと」
侯爵の声が低くなる。
「貴族院の守旧派か」
「はい」
「貴様……」
「私ではありません」
レオンは私へ視線を移した。
「お嬢様の指示です」
「責任をこちらに戻すのが上手いわね」
「従者ですので」
私は侯爵を見た。
「侯爵。守旧派は、あなた方の覇権政策を嫌っているわけではありません。彼らは帝国貴族ですもの。勝てるなら賛成するでしょう」
侯爵は答えない。
「でも、玉座の根に触れるやり方は嫌う。アルヴェントを婚姻で呑み込むことは、ただの領土欲では済まない。黒い封蝋の誓書に触れる」
食堂の空気が、さらに冷えた。
黒い封蝋。
その言葉を知る者だけが反応した。
知らない者は、反応した者を見た。
「その名を、軽々しく口にするな」
侯爵が低く言った。
「では、重く扱ってください」
私は返した。
「そうすれば、私が口にする必要もありませんでした」
私は、少しだけ疲れてきた。
まだ朝だった。
夜会からここまで、ほとんど休んでいない。けれど、不思議と足は動く。怒りというものは、燃料としては質が悪いが、よく燃える。
オルブラン侯爵は、封書を握ったまま立っていた。
朝餐会の主だった男が、今は自分の食卓で孤立している。
完全には折れていない。
だが、もうこの席の中心ではない。
食卓にいた貴族たちの視線は、侯爵から守旧派の封書へ、守旧派の封書から曽祖父様の指輪へ、そして私へ移っていた。
「私は」
侯爵が言った。
「帝国のために動いた」
「ええ」
私は頷いた。
「小国の港を帝国の管理下に置けば、飢饉も海賊も抑えられる。商人どもの損得より、秩序が先だ」
「エレノア様も、きっとそうおっしゃるでしょう」
侯爵の眉が動く。
「聡明な方です。王太子殿下より、ずっと。帝国の傘が、アルヴェントを守る道だと本気で思っていらしたかもしれません」
「ならば」
「でも、傘の柄を握っていたのは、あなた方です」
私は扇を閉じた。
「守ると言いながら、首にかける鎖を編んでいた。それを国益と呼ぶのなら、こちらも国益で返します」
侯爵は、黙った。
沈黙は、時に降伏より重い。
だが、私はその沈黙を許すつもりはなかった。
「オルブラン侯爵」
「……何だ」
「港湾使用権の覚書を、ここで破棄なさい」
食堂がざわめいた。
「できぬ」
「なぜ」
「私ひとりの判断ではない」
侯爵は、短く息を吐いた。
「財務院だけでも、商会だけでもない。宮廷の承認がなければ動かせぬ」
「では、判断できる方を呼びなさい」
「何?」
「帝都へ行きます」
私は言った。
「財務院、貴族院、そして宮廷。あなた方が隠していた首輪を、順に見せます」
「皇帝陛下に、会うつもりか」
「最後には」
私は曽祖父様をちらりと見た。
「できれば、曽祖父様抜きで行きたかったのですが」
「無理じゃな」
「でしょうね」
曽祖父様は満足そうに頷いた。
「安心せい。皇宮への道は覚えとる」
「正面から入る道でしょうね」
「細かいのう」
「一番大事です」
侯爵は、そのやり取りを聞きながら、顔を青くしていた。
皇宮への道を、死んだことにされた皇子がまだ覚えている。
その意味を、彼は理解していた。
レオンが私の横に来る。
「お嬢様。馬車の用意は」
「二台」
「なぜ二台」
「一台目に私たち。二台目に侯爵」
オルブラン侯爵が顔を上げる。
「私を連れていくつもりか」
「ええ」
「断る」
「断っても結構です」
私は微笑んだ。
「その場合、貴族院の守旧派からの照会に、欠席の理由を添えて返していただきます。港湾使用権の覚書を保持したまま、旧皇族の紋を見た後で、帝都に来なかった理由を」
侯爵の喉が鳴った。
食堂の端で、また誰かが半歩下がった。
今度は、はっきりと。
「……馬車を」
侯爵が執事に言った。
私は扇を開いた。
「ありがとうございます」
「礼など」
「言っておいたほうが、後で楽ですもの」
「何が楽だ」
「取り立てが」
レオンが目を伏せた。
たぶん、笑った。
曽祖父様は隠す気もなく笑った。
「おぬし、やはりわしと同じ血じゃな」
「不名誉です」
「褒めておる」
「なお不名誉です」
食堂を出る前に、私は一度だけ振り返った。
上品な朝餐会は、もう戻ってこない。銀の皿の上で、パンは冷え、蜂蜜は光り、誰も口をつけていなかった。
折れたところから、全体が歪む。
「行きましょう」
私は言った。
「帝都へ」
曽祖父様が、杖で床を鳴らした。
「ようやく本丸じゃな」
「まだです。本丸は最後です。まずは財務院と貴族院」
「面倒じゃのう」
「面倒にしたのは、あなた方の世代です」
「返す言葉がない」
「では、そのままお願いします」
私は、心の底からため息をついた。
レオンが、扉を開ける。
朝の光が、廊下にまっすぐ差し込んでいた。
その向こうで、帝都へ続く道が白く伸びている。
帝国はまだ、壊れていない。
けれど、壊れる音はもう、帝都へ向かっていた。




