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第3話 その傘は、首輪でした

 オルブラン侯爵家の別邸は、帝都へ向かう街道から少し外れた丘の上にあった。


 白い石壁。広い庭。手入れされた糸杉。門の前には、帝国貴族の馬車が何台も並んでいる。朝餐会という名目にしては、ずいぶん客が多かった。


「招待状は?」


 門番が言った。


 レオンが、いつもの顔で一礼する。


「ございません」


「では通せん」


「でしょうね」


 私が答える前に、屋敷のほうから執事服の男が走ってきた。


 彼は私の馬車を見るなり、顔色を変えた。


「……エルディア公爵令嬢」


「おはようございます」


「今朝、国境で何かございましたか」


「小さな挨拶を」


「小さな」


「ええ。こちらの門よりは、少し大きな門でご挨拶をしてまいりました」


 執事は何かを言いかけ、飲み込んだ。すでに関税所から早馬が届いたのだろう。帝国の屋敷は、悪い知らせほど早く回る。


「侯爵閣下は朝餐会の最中です」


「存じております」


「今は、閣下へのお目通りは――」


「では、ちょうどよいわ」


 私は扇を閉じた。


「皆様にも聞いていただきましょう」


 屋敷の食堂には、銀の皿が並んでいた。


 焼きたてのパン。果物。薄く切られた肉。透明な蜂蜜。窓から朝の光が差し込み、帝国貴族たちの指輪や勲章に反射している。


 上品な食卓だった。


 人の国の倉を半値で買い叩いた金で整えたにしては。


「これはこれは」


 奥の席から、よく通る声がした。


 銀髪を後ろへ撫でつけた男が、奥の席から立ち上がった。


 年は六十に近い。腹回りには貴族らしい余裕があり、背筋だけは妙にまっすぐだった。口元は笑っている。だが、こちらを見る目だけが、少しも笑っていない。


 オルブラン侯爵。


 エレノア様の母方の叔父にあたる人だった。


「エルディア公爵令嬢。朝から帝国貴族の席へ押しかけるとは、アルヴェントの礼法はずいぶん自由ですな」


「ええ。夜会で婚約を破棄され、その足で関税所を止めてきた女ですもの。少しくらい自由でないと務まりませんわ」


 食堂の空気が止まった。


 何人かが私を見た。何人かは、すでに卓上の書類を隠そうとしていた。


「関税所を、止めた?」


 侯爵の声は変わらなかった。


 だが、食卓の端にいた若い貴族が、手元の杯を倒した。


 知っている顔だった。エレノア様の母方の従兄にあたる男。たしか、国境の穀物倉を買い叩いた商会に名義を貸していた。


「言葉が正しくありませんでした」


 私は言った。


「折りました」


 オルブラン侯爵は、笑った。


「小国の令嬢が、ずいぶん大きなことを言う」


「小国の令嬢だからでしょう。大国の貴族なら、もっと上品に、保護とか融和とか申しますもの」


「それが何か悪いのですかな。アルヴェントは小さい。帝国の傘に入るのは賢明な選択だ」


「ええ。エレノア様も同じことをおっしゃっていました」


「聡明な娘です」


「そうですね」


 私は、レオンへ目を向けた。


 レオンは革鞄から帳面を取り出し、食卓の空いた場所へ置いた。銀の皿の隣に、薄い帳面が一冊。


 それだけで、何人かの顔が変わった。


「帝国の傘というものは、ずいぶん骨が多いのですね。関税、穀物倉、鉄輸送、融資、そして婚姻」


 侯爵の目が細くなる。


「何の話です」


「国境沿いの穀物倉三つ。名義上の買主は帝国東部商会連合の傘下商会ですが、実際の出資者は、オルブラン侯爵家の管理下にある貸付組合です」


 レオンが帳面を開く。


「売却した商人は、その直前に関税所で荷を止められています。通行許可は遅れ、倉に置いた穀物は傷み、返済期限だけが来た。そこへ帝国系商会が、救済の名目で買い叩いた」


「商人の失敗まで、我が家のせいにされても困る」


「困るでしょうね」


 私は頷いた。


「これまでは、そう言えば済みましたもの」


 侯爵の笑みが少しだけ薄くなった。


 レオンが次の紙を出す。


「鉄輸送についても、同じ名前が出てまいります。検査を遅らせて損失を出させ、その穴を帝国系商会に埋めさせる。さらに、その商会へ、同じ貸付組合が融資している」


「それは帝国の規則に従った検査だ」


「ええ。規則は便利ですわね。誰かを守る時も、誰かを削る時も、同じ顔をしている」


 食卓の向こうで、老貴族がわずかに咳をした。


 私は続けた。


「けれど、今日はその一つひとつを裁きに来たのではありません」


 侯爵の目が、こちらへ戻る。


「では、何をしに来た」


「最後の骨を、押さえに来ました」


 場が、また止まる。


「王太子殿下とエレノア様の婚姻」


 私は静かに言った。


「その婚姻が成立すれば、アルヴェント王家は帝国融和を選んだことになる。国境の関税所も、穀物倉の買収も、鉄輸送の遅延も、すべて過去の摩擦として処理できる。帝国が与える保護の代金として」


「言いがかりですな」


「なら、否定なさい」


 私は言った。


「アルヴェントの港湾使用権を、婚姻後三年以内に帝国系商会へ移す覚書。ここにございます」


 レオンが、封筒をひとつ出した。

 封蝋は割れていない。だが、封筒の表に書かれた名を見て、若い貴族が椅子を鳴らして立ち上がった。


「それは、どこで」


 侯爵の目が、ほんの一瞬だけ若い貴族へ流れた。


 それで十分だった。


「見つけました」


「盗んだのか!」


「私の従者に、そのような失礼を?」


 レオンは黙っていた。


 侯爵が手を上げる。若い貴族は唇を噛み、座り直した。


「中身を見ていないなら、ただの封書だ」


「ええ。ですから、ここで開ける必要はありません」


「何?」


「開けるのは帝都財務院で結構。すでに写しは送りました」


 また、誰かの杯が鳴った。


「写し?」


「六通」


 レオンが言った。


 また六通だった。


 私は少しだけ笑いそうになった。


「あなた方は、エルディア家が古い家だとおっしゃった。ええ、古いのです。古い家は、古い貸しと、古い保管庫と、古い商人を持っています」


 私は侯爵を見た。


「それから、長く黙る癖も」


 私は封書を指先で押さえた。


「沈黙は、忘却ではありませんわ」


 侯爵の表情から、ようやく朝餐会の主人らしい余裕が消えた。


「公爵令嬢。帝国で、そのような振る舞いが許されると思っているのか」


「思っておりませんわ」


「では」


「許されなくても、必要ならやります」


 食堂が静まり返る。


 自分でも、少し乱暴な言葉だと思った。


 けれど、もう夜会は終わった。泣いて差し上げる相手も、気を遣って黙る相手も、今朝からいなくなった。


「オルブラン侯爵。あなた方が用意していたのは傘ではありません。首輪です」


 私は扇を開いた。


「関税で喉を押さえ、倉を買い、鉄を遅らせ、最後に王太子殿下の婚姻で港を取る。それを保護と呼ぶつもりだった」


「その程度の紙切れで、帝国貴族を裁けるとでも」


「帳面も、証人も、封書も、すでに出しました」


「帝国は、その程度で動かん」


「でしょうね」


 私は頷いた。


「ただ、帝国とは、オルブラン侯爵家だけを指す言葉ではありませんわ」


 食卓の端で、誰かが椅子を引いた。


 二人、三人。つい先ほどまで侯爵の言葉に頷いていた者たちが、銀の皿を挟んで距離を取り始める。


 朝餐会の席順が、そこで崩れた。


 侯爵の眉が、初めてはっきり動いた。


「誰に」


 その時だった。


 食堂の外がざわめいた。


 執事が青ざめた顔で扉を開ける。


「侯爵閣下。貴族院の守旧派より、至急の使者が」


 食卓の数人が顔を上げた。


 守旧派。


 その言葉だけで、空気が変わった。


 ラグナディア帝国には、古い貴族たちがいる。貴族院に席を持ち、現皇家を支えながらも、完全には信じていない者たち。かつての皇族の血を、忘れたふりで忘れていない者たち。


 彼らは、帝国の覇権に反対しているわけではない。


 ただ、現皇家が誰の沈黙の上に玉座を置いているのかを、時折思い出す。


 オルブラン侯爵が、私を見た。


「貴様、何をした」


「まだ、何も」


 私は答えた。


「ただ、黙るのをやめただけです」


 廊下から、杖の音がした。


 こつ、こつ、こつ。


 朝餐会の場に似合わない音だった。だが、私はその音を知っている。


 嫌な予感がした。


 とても嫌な予感がした。


 扉が開く。


 白髪の老人が、帝国貴族の別邸に当然のように入ってきた。


 夜着ではない。古い軍服を着ていた。サイズは少し合っていない。だが、胸元に光る黒い石の指輪だけは、朝の光の中で妙に重く見えた。


 擦り減った獅子の紋。


 ラグナディア旧皇族の紋。


 帝国貴族なら、知らないふりはできても、知らない紋ではない。


「ずいぶん派手にやっとるのう」


 老人は食堂を見渡し、最後に私を見た。


「曽祖父様」


 私は、扇を閉じた。


「お休みくださいと、何度申し上げればよろしいのですか」


「無理じゃ」


「なぜです」


「帝国を壊すなら、わしも混ぜろ」


 オルブラン侯爵が椅子を倒して立ち上がった。


「まさか」


 その顔から血の気が引いていた。


 老人は、にやりと笑った。


「久しいな、オルブランの小倅」


「ヴィクトール……殿下」


 その名が落ちた瞬間、朝餐会は朝餐会ではなくなった。

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